第5話 読書ノート

1/1
前へ
/16ページ
次へ

第5話 読書ノート

 久美さんはノートの一ページ目を開いて読み聞かせてくれた。 『——『老人と海』 アーネスト・ヘミングウェイ 2004年9月11日  老人は意地になってたんですか? 骨だけになってしまったカジキがかわいそう。私の曾祖父はマグロの一本釣りをしていたそうです。父は、老人と海みたいなものだよ、と教えてくれましたが、父は私が嫌いなので今はまったく口をきいてくれません。私はサメに食いちぎられたカジキみたいな気持ちです。——』  読み終えるた久美さんは、今度は声に出して溜息をつくと、くすっと笑った。 「今読むと馬鹿みたいね」  久美さんの笑顔を見ていたら、目に涙が溢れてきた。 「早苗さん、どうしたの? 泣くところじゃないでしょ?」 「だって、久美さんが可哀想で……」と言ったまま、私がなかなか泣き止まないので、久美さんは私の頭を撫でてくれた。子供じゃないのに、私の方がよっぽど馬鹿みたい。 「ちょっと待ってね。美優の様子見てくるから」と久美さんが席を立ったので、私はちょっと救われた。  なかなか戻ってこないので、時計を見たら十時を過ぎている。私はいつ泊まることになっても良いように、下着と最小限の化粧品や洗面具は持ち歩いていたけれど、さすがにこちらから泊まらせて欲しいとは言い辛い。  久美さんはそーっとドアを閉め、美優ちゃんの部屋から戻ってきた。 「美優はもう眠ってた。まだ終電には間に合うと思うけど、どうする? 泊まっていく?」  二つ返事でOKしたら、軽い女と思われてしまうかもしれない。「ご迷惑ですよね?」と、とりあえず言ってみる。 「実は明日があの人の月の命日なの。美優を連れてお墓参りする予定だけど、午前中はのんびりして、午後から出かける予定だから、明日何もないならゆっくりしていったら?」と言ってくれた。「まだ話聞きたいでしょ?」  そう言われたら帰れるはずもない。「はい!」と笑顔で返事した。 「よかった。早苗さんが笑ってくれて」  久美さんの安心した顔が嬉しかった。 「もうイネディットはないけど、次はチューハイで良い?」  私は素直に頷いた。私の気持ちは久美さんにはお見通しみたい。  グラスを傾けながら、久美さんは話を続けた。 「このノートと、今日寄贈したあの『老人と海』を持って、約束通り次の土曜日に図書館に行ったら、次雄さんはミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の上巻と、新しい青い表紙のノートを一冊用意してた。私が赤いノートと一緒に返そうとしたら、『老人と海』を私に戻して『これは持って帰りなさい。これからはノートだけ渡してくれれば良いから』って言うのよ」と、久美さんは四冊ある中から二冊のノートを手に持って説明してくれた。「この表紙に”1”って書いてあるでしょう? 彼はこう言ったの。『これからはこの赤と青のノートが交互に君と僕の手元を往復するんだ。赤いノートにもあとで”1”って書いておくよ。ページが一杯になったら、同じ色のノートをもう一組用意してそこに”2”と書くからね』って」  グラスに氷を足しながら、久美さんは話を続ける。 「彼にお礼を言って、本とノートを受け取ったときに、『はてしない物語』には下巻があることに気づいたの。『この本の感想は、上巻と下巻がバラバラになっちゃうんですか?』って彼に言った。そしたら彼は嬉しそうに『君は優しい子だね。じゃ、これも一緒に渡しておくよ』って下巻も一緒に渡された。『来週じゃなく、再来週でも良いから、青いノートに上下二冊分まとめて感想を書いて持ってきてくれるかな?』ってね。そうやって、交換ノートみたいに毎週読書感想文を書くようになって。中学卒業までに、赤青ともに二冊ずつになった」  久美さんは青いノートを後ろから開いた。 「カフカの『変身』と一緒に青いノートを受け取ったとき。一番後ろのページに、家庭のこととか辛かったこと、自分が悩んでいることを書いちゃった。だって、ザムザが自分みたいに思えたから。私は虫には変身しなかったけどね」と久美さんは笑う。  見せてくれたページの下の方に、太いペンでしっかりした大人の字が書かれていた。 「私、怒られるかと思って、彼には言わなかったの。でも、すぐに気づいてくれて、彼は怒るどころか、こんなことを書いてくれた。『君が大人になったとき、今経験しているその辛さが、人の痛みを思いやることの出来る優しさに変われるよう、僕はずっと祈ってるよ』って。私、その晩ノートを抱きしめて泣いちゃった」  久美さんがなぜ旦那さんに心惹かれたのか、少しわかった気がした。 「彼は私のために毎回新しい本を書店で買って用意してくれていた。私が返そうとすると、『君の本棚にスペースがあったら、一緒に並べておいてくれるかな?』って。そのうちに並べる場所がなくなったら『これに入れて納戸か押し入れに保管しておくといい』って保存用の箱をくれた。うちでも使ってるでしょ? グレーの中性紙箱」  ヘミングウェイの次がミヒャエル・エンデ。それでフランツ・カフカなら、他はどんな作家だろうと思って、私はノートのページをパラパラと繰ってみた。海外の作家だと、ジョン・スタインベック、ヘルマン・ヘッセ、ルイス・キャロル、バーナード・ショー、アルベール・カミュ、サン=テグジュペリ……。メアリー・シェリーにエドガー・アラン・ポー、コナン・ドイル、アガサ・クリスティー、J・R・R・トールキン、アーシュラ・K・ル・グィン、ダニエル・キイス、レイ・ブラッドベリ、ロバート・A・ハインライン、アーサー・C・クラーク……とミステリーやSFも。日本の作家も、夏目漱石、芥川龍之介、菊池寛、武者小路実篤、太宰治、坂口安吾、三島由紀夫、川端康成から、夢野久作、大江健三郎、五木寛之、野坂昭如、遠藤周作、藤沢周平、司馬遼太郎、筒井康隆、小松左京……そして、あさのあつこ、村山由佳、江國香織、綿矢りさ、伊坂幸太郎、森見登美彦……と、時代やカテゴリーに拘らず、ずいぶん幅広い。  でも、一番最後のページに見つけた一冊が気になった。 「久美さん、これ。コリン・ウイルソンの『アウトサイダー』って小説じゃないですよね?」 「中三の女の子にこれを読ませるって凄いでしょ? シェークスピアも読んだことなかったし、サルトルも知らなかったのにね。彼にはこう言われたの。『これは小説じゃないけれど、僕が大学時代、十九から二十歳の頃に読み耽った本なんだ。ある事件があって、僕の青春はこの時代にストップした。今は理解できないかもしれないけれど、君が二十歳になる頃にもう一度この本を読んで欲しい。その時、これを読んでいた僕は、同じ年頃の君に会うことが出来るはずだから』って」 「なんだか、SFかファンタジーみたいですね」 「当時中学生だった私と結婚するなんて、まさか彼自身も想像もしてなかったと思うけど、何かの予感はあったのかな。結果的に、私が二十歳を迎えたときは彼の妻になってたわけだから」 「久美さんと次雄さんの時空を超えた恋……」 「なるほどね。彼が亡くなった年齢を迎える頃になったら私もそんなふうに実感するのかな?」  久美さんなら、きっと綺麗なお婆さんになっているだろう。でも、その頃になったら七十歳はもう老人ではなくなっているのかもしれない。  ページをめくっていたとき、後ろの方に次雄さんが書いたらしい感想文をみつけた。 「気になったんですけど、男性の字で書かれた感想文がありますよね? これは次雄さんの字ですか?」 「あぁこれね。彼の六十五歳の誕生日に私が贈った本。いつも『今の中学生はどんな小説を読むのかな?』って彼が言ってたから」 「声に出して読んでみていいですか?」 「どうぞ」と久美さんは苦笑いした。 『——『恋空(上・下)』 美嘉 2006年12月25日  若い感性には驚かされる。話の飛躍が多すぎて、行間を読むのに苦労した。この話を中学生の女子が好んでいるとは、私の世代からは想像も出来ない。三回読んで主人公の気持ちを少し理解したが、それでも学校の図書館で行為に及ぶのは許し難い。——』  読み終わって、六十五歳のお爺さんが「許しがたい!」って声を震わせている様子を想像したら、可笑しくなって吹き出してしまったけど、久美さんもお腹を抱えて笑っていた。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加