第6話 別離

1/1
前へ
/16ページ
次へ

第6話 別離

 そのあと久美さんが話してくれた高校時代の体験は、甘っちょろい私の予想を遥かに上回るものだった。 「私が高校に上がった直後に両親は正式に離婚したの。妹は父親の元に残ることになって、私は母と一緒に仙台に行くことになったの。入学式どころじゃなくなって、高校も編入することになったけど、義務教育じゃないから手続きが大変で、かなりレベルを落として市内の高校にやっと滑り込めた。ちゃんと受験したらそれなりの進学校に受かったかもしれないけど、入学直後だったから受け入れてくれる高校がなかなか見つからなくて、編入先は偏差値で十くらい下だったかな?」 「進学のことを考えたら辛いですね」 「進学どころじゃなくなっちゃったけどね」と久美さんは笑った。 「ここを発つ直前に、次雄さんのところに挨拶に来たの。高校受験の時期からしばらく来てなくて、中学の卒業式の翌日、久しぶりに来たときの本が『アウトサイダー』だった。その感想文を書いたノートを持ってきた時は余裕がなくて、彼が用意してくれていた本も受け取らずに帰ったの。その日以来だったから、次雄さんはすごく心配してた。それに輪を掛けるように、私は泣きそうな顔で、彼から預かってた本を全部持って行ったから。実は母から『この本を全部古本屋にでも売ってきて。向こうに持って行っても置く場所はないから』って言われて。それなら、彼に返した方が良いと思って、保管箱に入れて全部持って行った」 「百冊以上の本をどうやって?」 「マンションの管理人室で台車を借りて、それに乗せて行った。二十分以上は歩いたかな? 事情を察して彼は受け取ってくれたけど、『君がまたここに戻って来るまで僕が預かっておくよ』って言われた。彼は四冊のノートと一緒に、『老人と海』と『アウトサイダー』だけを私に持たせてくれた。最初と最後の一冊ずつね。私が中学卒業したのと同時に彼は館長の役を降りて、単年度のパートタイマー契約になったから、いつまで図書館で働けるかはわからなかったみたい。『来年はここにいられないかもしれない。だから、もし君が来たときに図書館に僕がいなかったら、ここに電話してくれるかな』ってメモを渡された。でも私、そんな大事なメモを引っ越しの時に無くしてしまったの。図書館に連絡するのも迷惑な気がして、彼には引っ越し先の住所さえ教えてなかった」 「引っ越し先はお母様の実家だったんですか?」 「仙台の祖父母は健在だったけど、実家にいた兄夫婦と母はあまり仲が良くなかったから、市内に小さなアパートを借りたの。それが引っ越し先。私も一年のときは普通に高校に通ってたし、成績も悪くなかった。でも、二年になった年に母は新しい恋人の家の近くに引っ越して、その年の暮れに再婚した。相手もバツイチで、男兄弟がいたんだけど、その子達とまったく合わなくてね。私が真ん中で、一歳ずつ違うんだけど、二人揃ってやたら私の髪を撫でたりするのよ。もう、その度にぞーっとしてたんだけど、そんなのは序の口。二人の行動はどんどんエスカレートして、とうとう風呂に入るとき覗かれた。私はもうどこにも居場所がなくなってしまって……」  父親といい義理の兄弟達といい、久美さんはなんて男運がないんだろう。 「急に妹の留美の声が聞きたくなった。前のマンションは引き払ってたし、父親たちも引っ越したけど、連絡は取り合わない約束になってた。だから私は連絡先を知らなかったのね。でも、どうしても妹に連絡したくて、母の留守中に書類入れのケースを探して、通帳に貼り付けてあった付箋を見つけた。そこに電話番号が書いてあったから、恐る恐る電話したんだ。そのとき、電話に出た父親にこう言われた。『留美は四月に亡くなったよ。インフルエンザを拗らせてね。熱にうなされながら何度もお前の名前を呼んでた。でも、朋美は連絡先を教えてくれなかったからね。一度、慰謝料の振込が遅れたらすぐに電話してきた。七月だったかな? そのときに朋美には話したよ。あいつはホントに冷たい女だ。母親ならふつう線香の一本でもあげようって思うだろ? 留美と私はもう何の関係もない。久美にも絶対言うなって言われたんだ。だからお前にも言わなかったけど、あいつが再婚したならもう時効だろう』って……。電話を切ってから、凄く長い時間、涙が止まらなかった。こんなに沢山の涙……どこから出てくるんだろうって思うほど」  久美さんは悲しそうに笑った。 「泣いて泣いて,泣き腫らして。尾崎豊じゃないけど、母のスクーターを黙って借りて、海岸まで走って行って、真っ暗な海に向かって大声で叫んだ。私、そのまま海に入っていって死のうと思ったの。真冬の海は寒さを通り越して、神経を麻痺させる。最初は疼痛。でもその痛みがだんだん心地よくなってきて。あー、これで留美のところに行ける……って思ったときに妹の声が聞こえた。『お姉ちゃん、死なないで。私の分も生きて!』って。振り向いたらホテルの明かりが見えた。海水だからすぐには凍らないけど、身体は冷たくなってるし。スクーターにあった雨具を着て、ガタガタ震えながらそのホテルに向かったら、なんとラブホだった」と久美さんは笑った。「とりあえずチェックインして、シャワーを浴びて海水を洗い流して、部屋でじっとしてたら、一年の時に告白された男の子のことを思い出したの。結局振っちゃったんだけど、着信履歴を消してなかったのは、嫌いな子じゃなかったからかな? 私の携帯、海水でダメになったと思ってたら、ちゃんと使えたのね。あとで調べたら、水深一メートルで三十分間大丈夫って。すごいでしょ?」 「最新のスマホみたいですね」 「そうなの?」 「私のは防水ですよ」 「へぇ? 私のは違うと思うけど」 「アイフォンですよね?」 「うん」 「それ、防水ですよ」と私は笑った。 「あ、そうなんだ。そう言えば、あの携帯も防水だって知らなかった」って言うから、ちょっとビックリ。 「そういうとこ、私は好きです」 「え、何言ってるの? 恥ずかしい」と笑う顔がかわいい。こういう隙を見せたら、男性も近寄りやすいのにって思う。 「それで、その振った男子に連絡ついたんですか?」 「電話は通じなかったけど、折り返しかかってきて、すぐに来てくれた。好きだった訳じゃないけど、向こうが好きって言ってくれたなら身を任せてもいいかなって。でも、ホントは誰でも良かったのかもしれない」 「もしかして、それが初めて……ですか?」 「ちょっと遅いけど……」と久美さんは笑う。 「遅くないです!」と私は首を横に振った。「私なんか大学……」とまで言って躊躇した。「大学行くまで経験してませんでしたから」 「へぇ? そうなんだ。早苗さんは女子校育ちのお嬢さんだもんね。あー、そんなお嬢さんに、なんでこんな話しちゃったんだろう。誰にも話したことなかったのに」 「お嬢さんにはほど遠いです。モテなかっただけで」 「そんなことないでしょ? 可愛いし」 「やめてくださいよ。そんな……」 「お世辞じゃなく、ほんとに可愛いと思う。私が男の子だったらほっておかないけどな」 「私の話はまた今度。次は私の体験談もお話ししますから」  私は未来の体験をすでに経験済みのような顔でネタにしようとしている。こんなとき、自分はゲスな女だと嫌になる。 「この話、美優には内緒ね」と久美さんに言われた。 「もちろんです! でも、亡くなった旦那さんには話したんですか?」 「あの人は、私が初めてだってずっと信じてた」と久美さんは遺影を見つめながら笑った。「でも、もうバレちゃった。この話ずっと聞いてたもんね」 「その男の子が私はうらやましい」 「早苗さん、変なこと言わないでよ」  久美さんの照れる顔がまた素敵。 「その子、なんて名前だったんですか?」 「剛史(たけし)。彼のところも母子家庭だった。でも、お母さんがすごくいい人だったの。しばらく家にいなさいって言ってくれたから、着の身着のまま家を出て転がり込んだ」 「なんか,想像していたのと違って……」私にはその先の言葉が出ない。 「壮絶な人生でしょ? でも、この先はもっと壮絶よ」  久美さんは悪戯っぽく笑った。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加