第8話 カテーテル

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第8話 カテーテル

「今の子供部屋が最初の私の部屋。それまでは本の倉庫になってたの」と言うと、久美さんは美優ちゃんの部屋に視線を送った。そして、リビングの壁一面に並んだ本を眺めながら久美さんは言った。 「この本棚の殆どが、当時はその部屋にあったの。だから最初はやっと布団を敷けるくらいのスペースしかなかった」 「本に囲まれてたんですね。うらやましい」 「そうね。次雄さんは、私を気遣ってくれて、アルバイト先が見つかるまでは下宿代も受け取ってくれなかった。だから、アルバイトの面接とかで出かける時間以外は朝から晩まで本を読みまくったわ。そうやって、少し落ち着いてきたら、剛史のことが心配になってきた。自分がそれまで酷いことをしたお詫びを手紙に綴って投函したの。そしたら、少し経って返事が届いた」 「剛史くんはなんて?」 「新しい彼女が出来たって。写真まで入ってた。彼なりの私へのリベンジ?」 「もしかして……」 「早苗さんもそう思った? ほんとは彼女なんかじゃなくって、私を自由にするために誰かに彼女の役を演じて貰ったのかもって。でも、もしそれが嘘でも、剛史の気持ちを素直に受け止めることにした」 「そうだったら、剛史くんてけっこうイケメンですね」 「そうね。彼には申し訳なかったけど……。でもそれで吹っ切れた。とにかく前に進もうって」と微笑む久美さんの表情は明るかった。 「剛史のお母さんに、お世話になったお礼の手紙を書いて、とりあえず一件落着。私が家庭を持ってからは、毎年お礼のご挨拶は欠かしてないけどね」  久美さんのその後の生活が気になってたら、気持ちを察して先を話してくれた。 「髪も濃いめの茶髪にして、メイクを落としたら、ビデオレンタルショップのバイトがすぐに決まった。次雄さんは、定時制高校に編入する手続きを手伝ってくれて、アルバイトしながら高校に通えるようになったの。すべて彼のおかげ」  久美さんは次雄さんの話をする度に写真に視線を移す。その仕草を見ていて、今でも愛してるんだなってよくわかった。 「手作りのピクルスと美味しいチーズがあるから、ワイン呑まない?」と提案され、「はい」と返事したら、久美さんは赤ワインのボトルを開けてくれた。 「2010年のボルドー。このワインが収穫された年は、次雄さんとの距離が縮まって結婚した年だから、記念に何本か買ってあるの」 「そんな大事なワイン、開けちゃっていいんですか? 夜分に押しかけてこんなにご馳走になったうえに……」 「次雄さんの話を聞いてくれる早苗さんは、私たち夫婦にとって大事なお客さんだから」 「ありがとうございます」と頭を下げた。やっぱり少し図々しいかな? と思ったけど、ここまで来たら最後までちゃんと話を聞かせてもらおう。 「ご主人は大家さんだったわけですよね? 親しくなるきっかけって何かあったんですか?」 「最初はドライブかな? 高校に通い始める前に教習所で免許取ったのね。そのお金も彼から借りて半年がかりで返したんだけど。なかなか運転する機会がなかったから、そのままじゃ運転できなくなりそうでしょ? そんなこと話してたら、彼が図書館の人の車を借りてくれたの。『もう十五年以上乗ってるクルマだからあちこち傷だらけだし、少しくらいぶつけても大丈夫ですよ。ただ、人やクルマにはぶつけないように気をつけて』って言われたって」 「じゃ、久美さんの運転で?」 「そう。彼に助手席に乗ってもらって近所を一回り。それから二回。あ、最初の日も少し足を伸ばしたから三回かな? ドライブしたのは」 「どこに行ったんですか?」と私は身を乗り出した。 「最初は入間のアウトレット。二回目は奥多摩。でも道が狭くて曲がりくねってたから怖かった。それで三回目は湘南の海に行ったの」 「泳いだんですか?」  私は久美さんの水着姿を想像してみた。脚が長いからきっとカッコいいだろうな。 「まだ六月だったから眺めただけ」と言われて、少しガッカリ。 「宿泊はなしで?」と聞いてみた。 「もちろん。彼はそういうことにはすごく節度のある人だったから」  私はさらにガッカリしてたら、久美さんが突然何かを思い出した。 「あっ! その年に彼と外泊したこと……あったわ」 「もしかして、温泉ですか?」 「彼は三食付だったけど……」と久美さんは笑った。でも、温泉ともロマンスともほど遠い話みたい。 「ある日、私が学校から帰ったら、次雄さんがリビングで|蹲《うずくま》ってた。胸が苦しいって絞り出すような声で言うのよ。すぐに救急車呼んで、急いで保険証とか身の回りの物をかき集めて、病院まで付き添って行ったの」 「入院したんですか?」 「そう。それが初めてのお泊まり」  久美さん、そういう悪い冗談やめてくださいよ。 「熱が三十八度以上あって、血圧も心拍数も凄く高かった。狭心症の疑いがあるからということで、心臓カテーテルの検査をすることになった」 「心臓カテーテル?」  名前は聞いたことがあっても、それがどんなものだか私はよく知らなかった。 「腕の血管から心臓まで細い管を通して心臓の冠動脈の検査するのよ」  久美さんに説明されて何となく判ったけど、ちょっと……いや、なんだかとっても恐ろしい感じがする。 「彼も初めてのことだから不安だったのね。手を握っててくれって言われて、ずっと隣で握ってた。そしたら、看護師さんが『導尿しますね』って」 「導尿?」と私は訊ねた。 「検査中はトイレに行けないから、管を通しておしっこを流すようにするの。それもカテーテル、導尿カテーテルね」  管を通すってあそこに? なんだか痛そう。 「それが困ったことに、管がなかなか入らないみたいなの。私は手を握ったまま彼の額の汗を拭いたりしてたんだけど……。看護師さんは私とそんなに年違わない感じだったけど、余裕がなくてすごく焦ってたみたい。器具を落っことした音がして『あっ!』って声を出すから、そっち見たら目に入ってしまって」 「管入れるとこ?」と聞いたら、久美さんは苦笑した。 「彼は、何度も私の手を握ったり、振りほどこうとしたりするの。何か言いたいらしくて、酸素マスクの奥で唇を動かしてるから、看護師さんに『すみません。何か言いたいみたいです』って伝えたのね。看護師さんが酸素マスクを横に外して、『どうしましたか?』って聞いたら、『久美ちゃん、恥ずかしいからちょっと外しててくれ』って。私がその場を離れたら、やっと上手く管が入ったみたいで、検査のために治療室に運ばれていった。検査中はずっと廊下で待ってたんだけど、しばらくして検査を終えて出てきた先生に症状を聞いたの。『明日の診察で詳しいことはお話ししますが、心配するような疾患は認められませんでしたよ』って言うから、ホッとしてたら、『吉村さんは……バイアグラとか勃起を持続させる薬を飲んでますか?』って聞かれたのよ。そんなの知るわけないじゃない? 私は判りませんって答えたんだけど」  久美さん、ダメ。若い人の話ならまだ少し聞けるけど……。 「早苗さんに変なこと話しちゃったね」  久美さんは真っ赤なボルドーのワインを空になったグラスに注いでくれた。これ、何杯目だろう? 私けっこう呑めるんだって初めて判った。 「検査の翌朝、次雄さんはベッドで私の顔をじーっと見つめてるの。それで『久美ちゃんは肌が綺麗だね』なんて言うのよ。ずっと荒んだ生活してたから肌は荒れ荒れ。『恥ずかしいから見ないでください』って言ったら、彼は私にこう言うの。『君はこんなに綺麗なのに、僕は皺だらけのシミだらけだ。五十年遅く生まれてくれば良かった』って」 「それって告白じゃないんですか?」 「きっとそうだったのね。私もなんだか少し嬉しかった。でも私ったら馬鹿正直に、先生にバイアグラ飲んでるか聞かれたって話しちゃったのね。そしたら彼は真っ赤になって、口もきいてくれなくなっちゃった」 「もしかして図星だったとか? ほんとに飲んでたんじゃないんですか?」って私が聞いたら、久美さんは大きく首を横に振った。 「まさか! 彼は全然そういうタイプの人じゃないから、聞く必要もなかったの。それなのに、そんなこと言って怒らせちゃったから、『無神経でごめんなさい』って謝ったんだけどね」
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