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課長には婚約者がいて、その人は亡くなっている。課長の腕時計はその人とお揃いでとても大切にしていて、その人が忘れられずにいる――
午後の業務が始まってからも、それが頭の中を占領していて仕事に集中出来ない。どうしても、視線が課長に向いてしまう。
当の課長は丁度電話対応をしている最中で、見ていることがバレないのをいい事にしばらく思うままに眺めてみる。その時、電話を持つワイシャツの袖から腕時計がチラッと覗いている事に気付いた。
今まで腕時計なんて特別気にもしていなかったけど、言われてみればこの1年ずっと同じ物を付けている気がする。――ううん。1年どころじゃなく、きっと5年以上……
「三井さん、ちょっといいかな」
「えっ……あ、はい」
いつの間に電話を終えたのか、課長に名前を呼ばれて心臓が大きく跳ねた。
出来れば今は課長と話をしたくないけど、仕事中である以上呼ばれたら行かないわけにはいかない。
「何でしょうか」
「悪いんだけど、この資料をまとめてくれるかな。今週中で構わないから」
「分かりました」
書類の束を貰い立ち去ろうと思うのに、どうしても視線が腕時計に向いてしまう。よく見ればそんなに新しい物では無さそうで、それが更に心に影を落とした。
「どうかしたか?」
「あ、いえ……その腕時計、ずっと付けてらっしゃるんですね」
よせばいいのに、どうしても確かめたくなって聞いてしまうと、一瞬驚いたような表情になった後、何故か嬉しそうに腕時計を見ている。
「大切な人に貰った物だからね」
大切な人……
さっき聞いた話が事実だと決定付ける言葉に、涙腺が緩みそうになる。
「そう、なんですか……」
「もう2度と会えない人に貰った物だから、大事にしてるんだ」
追い打ちをかけるような言葉に心が抉られていく。上手く表情が作れているかも分からない。
「……これ、まとめてきます」
「ああ。よろしく」
自分のデスクに戻って資料を目の前に置いても、手をつける気にならなかった。
――何であんな事聞いちゃったんだろう……もう2度と会えない大切な人なんて、婚約者以外に居ないじゃない……
腕時計を見た時の課長の顔がどれだけその人を想っているかを現わしている気がして、胸がギュっと掴まれたみたいに苦しくなった。
亡くなった婚約者には敵いそうにない、か……本当にそう。
課長に想われ続けるその婚約者が羨ましい。でも同時に、亡くなってからも課長を縛り続けるなんてズルいとも思ってしまう。だってそんなのどうにも出来ない。
亡くなってしまった人にそんな事を思う自分が醜くて嫌な人間だと思うのに、課長を好きな気持ちがどうしてもそう考えさせてしまう。どこにも行き場のない気持ちが辛くてしんどくて、心がどんどん重苦しい空気で満たされていく気がする。
いつの間にこんなに好きになっちゃってたんだろう……まさか課長に本気で恋するなんて思って無かったのに……
泣きそうなのを我慢しながら、全てを覆い隠す様に硬く目を閉じる。真っ暗な視界の中ではどこにも光が見えない。それがこの恋の結末を現わしているようで、滲む涙を感じながら必死に瞼に力を込めていた。
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