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「起きたがよ、ばーちゃん」
目を開くと、目の前に『ブリーチ』の青年がいた。上体を起こして回りを見渡すと、一面のコスモス。美しい秋の絨毯が広がっていた。私と彼はコスモス畑の中心を通っている細い土の道の上にいるようだ。
「コタローさんでしたかしら」
「そりゃ幸枝が呼ぶだけちや。あいつはすぐ人の名前をはしょる……まあ、わしのことはええ。今はあんたのことじゃ。ほれ、立て」
彼が差し出してくれた手を掴んで起き上がる。そして、はっとする。
「体が軽い……あら、わたくしの手、あら、……つるつるになってしまって……」
わたくしの手にあったはずのたゆみも染みも骨の歪みもない。白く整った皮膚に、ピンク色の爪だ。
「おまん、今、三十そこそこになっとるからのう」
「どうして……」
「九十二歳のばーちゃんを戦争起きてる世界に送れないがよ、わやにすな。ほれ、起きたんなら来る。時間は有限、あんたはいそがなくちゃならん」
「あらあら、せっかちですこと」
彼に手を引かれるままに歩き出す。足元で咲く花を避けて歩いていくと、大きな湖にたどり着いた。まるで鏡のような水面だ。
彼がその水面に手をいれると、水面に波紋ができ、その波紋の揺らぎの中に街が見えた。まるで湖を通して、どこかの世界を上から見ているかのようだ。もしかしたら子どもに教えてもらった『なんとかアース』みたいなものはこういうことなのかしら、と考えつつ、彼のとなりでその街を眺める。
行ったことはないがテレビで見たどこかの異国の国に似た風景だ。
レンガ造りの家、レンガ造りの道、馬車が通り、ドレスを着た女性とスーツを着た男性が忙しなく行き交っている。だれもスマートフォンを持っていないから、少し昔の時代なのかもしれない。まるで映画だわ、と思いながら見ていると、青年が口を開いた。
「ばーちゃん、おまんがこれから行くんはマシバリバ国じゃ」
「真柴さんの御宅ね、わかりました。そちらでどうしたらよろしいのかしら」
「マシバリバ! ……まあ、ええが、似たようなもんじゃ。ここは情勢が安定しておるからの、城下に一軒家用意しとくけんそこで店でもやって暮らしぃ、十三年なんてあっちゅー間よ」
「わたくし、また働くんですの?」
「あ? あー、ばーちゃんもう働くんいやぞな? 働かんでも暮らせるだけの金おいとくかのぅ? そいでもかまんけど」
彼が誤解しているようなので首を横にふる。
「いえいえ、働けるのは嬉しいんですよ、でも……わたくし、よその国で働いたことありませんから一人ですぐに働けるかしらと」
「そうじゃのう……じゃあ、近くの定食屋で人員募集をさせておくかのう、飲食はまあ外れないじゃろうし……」
ぶつぶつと呟く彼の言葉を聞きながら、湖をのぞいていると、ふと街の上に見知らぬ女性の顔が映った。
「あら、ねえ、コタローさん、湖に知らない方が映っているわ」
「それ、おまんじゃ」
「わたくし?」
湖にうつる女性も驚いた顔をする。
わたくしは自分の手、それから髪見て「あら」とまた呟いてしまった。白髪であったはずのわたくしの髪が、それは見事な赤毛となっていた。もう一度湖のぞくと、シワのない代わりにそばかすの散った、まだうわ若い女性が映っている。
その顔はわたくしのものとは大違いで、異国の顔立ちだ。けれど、その表情は自分のものだった。
「ハシバリバは赤毛が多いんじゃ。目の色もちこっと変えといたがよ、顔も目立たんようにしかが、いやじゃったか?」
「いいえ、あら、……まあ、随分とつるつるになってしまいました」
「おまんは元からつるつるじゃったけん、そんないじっとらんわ」
「あら、お上手。うふふ、ありがとうございます」
「……まあ、不満がないんじゃったらええがよ」
彼がムムと顔をしかめる。照れているらしい。若くて素直な青年だと思いつつ、また湖に視線を落とす。ふと、街の景色が揺らぎ、今度映ったのは一つの星だった。
「あら、青い星だわ。地球かしら?」
「いいや、こりゃザルマと呼ばれちょる。マシバリハはここじゃ」
「佐久間さんの星の上の方にあるんですね、真柴さんの御宅は」
「おまんの耳はどうなっちょるんじゃ……」
青い星はくるくると回っている。ふと、その自転する星の中で、真っ黒になっている点のようなものを見つけた。そこを見ていると、星がどんどん大きくなり、湖はその黒い場所を映し出した。
「おまん、そがなとこに興味もったんかえ」
青年は嫌そうに呟く。湖に映し出されたのは、孤島だった。
断崖絶壁に囲まれたその孤島には、遺跡のような、廃墟のような、すべて苔むしている建物の残骸が広がっている。今はもう終わってしまった文明の跡地のようだ。
「ここはどなたの御宅なのです?」
「ここはのう、……ここもマシバリハの国内ではあるのう」
「あら、真柴さんの別宅ですか?」
「そうとも言える。……ここはマシバリハ本土から三日かかるところにある島での、国境線守るための前線ちゅうことになっとるが、ここはすべての波が島に押し寄せちょる。一度はいったら、島で作れるような小舟じゃ出られぬ島よ」
「まるで流刑地ですね」
「その通りじゃ。ここはマシバリハの前線ちゅうて、飛ばされたもんは侯爵の地位は与えられちょる。だが、この島にはなんもない。なんもないところで、地位なんぞなんの役にもたちゃあせん」
ふと、その廃墟の中に、何かの影が見えた。目で追いかけると、その足が見える。細くて短い、子どもの足。廃墟の中を一人で走る少年がいる。
「今ここにいるんはサバリヤノ侯爵じゃ。三年前に中央での実権争いに破れての、ここに流されて、妻殺して自殺しおった。残ってるのは息子だけじゃ、そんで侯爵になった子じゃ」
「……では、その子は一人で?」
「使用人はいたはずじゃが……食料届けにきよる船乗って逃げたんじゃろうなあ」
廃墟の中で、終わった文明の地で、一人の少年が足を止め、こちらを見た。まだ六歳ぐらいだろうか。ざんばらの黒い髪、透き通った冬の朝のような水色の瞳、そして折れてしまいそうな細い体。年に合わない恨みのこもった、その瞳。
「この子はずっと一人で、この島に?」
「そうじゃ。八歳にしてこの島の主、『最果ての地』ゾーリアノ辺境伯、……ハク・サバリヤノ」
彼は遠く、海の向こうを睨み付けていた。
「これで八歳……まあ、それはいけませんね。ばーちゃん、ちょっといってきます」
「ん? いやいや、ばーちゃん、ちょいまて。まちとーせ」
湖に手を伸ばしたら、青年に止められた。振り返り彼を見る。
「ばーちゃん、この子育てます」
「……そりゃ、大変なことになる」
「子育ては大変ですからね。安心してください、慣れております」
「いや、それはそうじゃが、……この子はこの地で一人で育たんと、この星の歴史が……いや、でも……そうじゃのう……」
青年はぶつぶつと呟き、ムムムと顔をしかめた。が、急に顔を上げ、私の両手をとった。
「ほんに、やりとげる自信はあるが?」
「ええ、子どもは放っておいても育ちます。なればこそ手を貸して差し上げたい。わたくしにお任せください」
「じゃったら、おまんにいってもらう。……ばーちゃん特典じゃ。わしがちょいちょい、手は貸してやるぜよ」
「あら、優しいこと……」
彼は私を湖に向かせると、私の背をトンと押した。それに合わせてトンと一歩進むと、私は湖の上に立っていた。
振り返り、彼を見る。
「ではいってまいります、あなた」
彼は目を丸くし、そして頭を掻いて笑った。
「わかってたんなら最初に言いゆうが……意地の悪い女じゃ」
「あなた、若い頃の写真は見せてくれませんでしたから」
「恥ずかしいけん……若気の至りじゃ」
彼は私に手を振った。
「いってまいれ、杏子」
「はい、わたくしたちの子ども達もお願いしますよ」
「わかっちょる。……わかっちょる。おまんは人のことばっかりじゃ。少しは気楽に……楽しんでおいで」
私も彼に手を振った。
湖の水が私を包み、視界をふさぐ。しかしその水は私にふれることなくふたたび地に落ちた。水はすべて足元の土に吸われていく。
目を閉じて、一呼吸。
「……さて」
そうして、目を開けば、わたくしは、最果ての地に立っていた。
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