第一話 ばーちゃん、異世界転生する

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第一話 ばーちゃん、異世界転生する

(あん)ちゃん、杏ちゃん、起きて、起きてくださいな……」  幼い女の子の声に目を覚ますと、そこは懐かしい生家だった。  広島の奥地にある平屋建てのこの家は、わたくしが生まれた頃に建てられた年代物だ。雪が降る地域のため玄関も縁側の雨戸も二重になっていて、冬の夕方に『寒いね』と言いながらそれを閉めるのがわたくしと妹の仕事だった。囲炉裏のついた部屋には連日、父と父の友人たちが集まって、あれこれ楽しそうに話していて、勝手口のついた台所は土間になっていて、冬を汚して帰るとそこで着替えさせられたものだ。  古くなった畳を撫でるだけで懐かしい記憶がよみがえる――けれど、この家は五十年前に更地にして手放したはずだ。なのに、今目の前で、まるで昔のように縁側の外では蝉が鳴きわめき、ひまわりが咲き乱れる。  二度と触れられないはずのあの夏が目の前にあった。 「杏ちゃん」  わたくしを起こした少女を見る。  彼女は、九十年前に水難事故で亡くなった友人だった。彼女はニッコリと笑う。 「おはよう、杏ちゃん」  あの日の記憶のまま、赤い着物を着たさっちゃんがそこにいた。だからわたくしは、――あぁ、死んだのだなぁ、と、この事態をすんなりと受け入れられた。 「おはよう、さっちゃん。たくさん待たせてしまったかしら」  そしてわたくしは彼女につれられて三途の川を……と考えていたのに、彼女はぷるぷると首を横にふった。 「いいえ、早すぎるの、杏ちゃん」 「早すぎる?」 「杏ちゃん、まだ寿命じゃないの。だから来られちゃうとね、困るの」  さっちゃんはキリリと眉をつりあげて、「めっ!」とわたくしを叱る。その怒り方が懐かしくて胸が熱くなった。幼かった頃の記憶が次から次へとよみがえり、涙となる。  けれど、目の前のさっちゃんは怒っているので、そんなわたくしを「泣いたってダメよ」と叱った。 「早いよりも遅い方がいいの。遅ければお迎えの準備もちゃんとできるのに、杏ちゃんだめよ、早すぎるのはとっても困るわ」 「……わたくし、九十二歳なりましたよ?」 「だめよ。杏ちゃんの寿命は百と五年なの」 「百と五……わたくしの寿命、百と五なんですか?」  驚きのあまり涙も止まる。言われたことをそのまま聞き返したわたくしに、さっちゃんは生真面目な顔で頷いてみせる。 「うん、あと十三年あるの。だからさっちゃん、杏ちゃんをお迎えする準備全然できてないの。困るの、そういうの、すごく。時間通りに来てくれないとね、準備が間に合わないの。困るのよ。わかるでしょう?」 「……それは、……たしかに十三年も早く来られては困りますね……」 「うん、だからあと十三年、杏ちゃん、お外で遊んできてくれる?」  彼女の幼くて小さな手がわたくしの手を包んだ。包まれたわたくしの手は彼女の紅葉のような手とは異なり、重ねてきた月日が染み付いている。 「あと十三年ですか?」 「うん、あと十三年」 「さっちゃん、いつか話しましたでしょう? 女学校に通って、素敵な方と結婚をして、子どもを産んで、孫を抱いて……わたくしひ孫どころか、やしゃ孫までだっこいたしましたの。……もう充分」  さっちゃんはわたくしを見あげて、その大きな目を潤ませる。それは駄々をこねる子どもの瞳だった。 「さっちゃん、早すぎたのはさっちゃんも一緒でしょう」  彼女はあのときまだ五歳だった。神様に好かれていたから神様の子どもの内につれていかれたのだと、大人たちは私を諭した。そうでも言わないと誰も受け入れないほど、それはあまりにも早すぎた。たった五歳、誰一人納得させずに、彼女は一人で彼岸に渡ってしまったのだ。  そんな彼女がここまで生きた私和しかるのはお門違いだ。  なれど、彼女は「さっちゃんはいいの、杏ちゃんはだめよ」と駄々をこねる。 「どうして?」 「だって、さっちゃんが準備できていないもの」 「いいんですよ、準備なんて。この家だけで充分です」 「だめよ、だめ、こんなんじゃだめ。杏ちゃんはまだ来たらだめなの。めっなの」 「さっちゃん」 「杏ちゃんは、まだここに来たらだめ!」  ぽろりと彼女が泣いた。 「……さっちゃん、わたくしはもうこちらに来てしまいましたよ。もう、帰り道だってわからないのです」 「う、わぁああん!」  彼女はわたくしの膝にしがみついて、ぽろぽろと泣いた。  その、さらさらとした子どもの髪を撫でながら、こちらに来ても泣く子どもに迎えられるなんて思わなかったとおかしくなる。子どもも、孫も、ひ孫も、やしゃ孫も、みんなみんなたくさん泣いた。そうしてみんな大きくなっていった。けれどこの子はここで一人、大きくもならずに泣いていたのだろうか。 「さっちゃん、……」 「うわわ、姫さん、こぎゃんと泣きゆーが」  泣き止むまで泣かせてあげようと思っていたら、不意にそんな声が縁側の向こうからはいってきた。見上げると、そこにいたのは見知らぬ青年だった。  だらしなくスーツを着崩した二十歳そこそこであろうその青年は、履き潰した革靴を脱ぎ捨てて縁側に上がってくる。  キラキラと輝く金色の髪は『ブリーチ』というものだろう。眉毛まで『ブリーチ』にしたその青年の耳たぶには大きな穴が空いていて、髑髏の形をした銀細工が埋め込まれていた。  なんという愛らしい青年だろう。つい、微笑ましいものをみる気持ちになってしまう。 「あら、あら、不良の子だわ。いらっしゃいませ」  わたくしが頭を下げると、彼は「お、おう、……上がらせてもらうがよ」と気まずそうに返事をして、わたくしの前に座った。彼は泣いているさっちゃんの背中をポンポンとたたく。 「泣きなさんなや、幸枝。このばーちゃん、頑張ったじゃいか。九十二歳も百五歳も誤差みたいなもんじゃろうて」  さっちゃんはパッと顔を上げた。 「ちがうよ! ちがうもの!」 「ちがってもしゃあなし。ばーちゃん、もう帰れん言いゆーし、とうに体残っちょらん。お化けにして返すつもりかぞ?」 「そんなことしないもん!」 「じゃあどうするが?」  まるで父親と娘のようだ。  わたくしは彼らの会話を遠くに聞きながら、庭を眺める。懐かしいものはこんなにも美しく見えるものなのか。目頭をおさえ、ここからずいぶん遠く離れてしまっていたのだと今さら気がついた。  ……やっと帰ってこられた。 「じゃあ杏ちゃんは異世界転生させるもん! 流行りなんだから!」 「おまん、それ大変ぞ。若いやつだって大変なんに……、寿命も十三年しかのこっちょらんに、わやいうな」 「さっちゃんのあげるもんっ! だから杏ちゃんはそうするの!」 「そげなことしたらおまんが今まで積んできた石はどうなるん?」 「やだやだっコタロー嫌いっあっちいって!」 「嫌い言うのか、わしのことを! こん子はげにわりことしじゃ!」  青年が声を荒げると、さっちゃんがわたくしにしがみついてきた。  あらあら、またばーちゃんのところに逃げてきて、と思いながら、子どもを抱き締め、大人を見上げる。 「子ども相手にやりすぎですよ」  彼はバリバリと頭を掻いた。 「ばーちゃんはすぐ子どもを甘やかす!」 「それがばーちゃんですもの。……お話はよくわかりませんでしたが、ばーちゃんが何かしたらいいのであればそうしましょ。さっちゃん、こんなに泣いているんですから」 「ばーちゃん!」  わたくしの腕の中でさっちゃんが「いいの?」と言った。わたくしが頷くと青年が「うぁあ……たいぎぃ……」と呻いた。 「ええ、いいですよ。でもね、さっちゃん、約束しなくちゃいけませんよ」 「約束?」 「次はわがままを言っちゃだめ。同じことで大人を困らせるのは一回だけ、ばーちゃんにだけ、いいですね? 約束ですよ」  さっちゃんはわたくしに抱きついて「杏ちゃん、大好き!」と言った。そしてそんなわたくしたちを見下ろしながら、青年は「ばーちゃんめ」と笑う。  此岸も彼岸も子どもは変わらないのだなあ、と思いながら、子どもを抱き締め、懐かしい庭を眺めていると、ゆらり、と景色が歪み始めた。真夏の蜃気楼のように、ゆらゆらと、ゆらゆらと。  腕の中で子どもが笑う。 「杏ちゃん、いってらっしゃい」  また、あの懐かしい家が遠ざかる。 「ええ、いってきます」  ――そうして、私は目を覚ました。
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