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①悩みに悩む
私、八塚詩織は、今非常に悩んでいた。
バックヤードから店舗を隔てるカーテンを掴み、出ていこうか。
やっぱりやめようか。
先程からそんなことばかりを考えて、踏ん切りがつかないでいる。先日クリーニングに出したばかりのカーテンに皺が寄るほど、強くにぎりしめていた。
詩織の視線の先には、今秋、配属された準社員の販売スタッフ、上野梨花。
梨花と客のやりとりに、詩織はこれ以上ない位に気を揉んでいた。
「お客様は背が高いから、ヒールの低いものをオススメします」
「……低いもの」
「ええ。背が高いと、圧迫感がありますしね。どのような場面でお使いですか?」
「……大切な商談があるので」
「なら尚更、こちらをオススメします。女性らしくてどんなシーンにもピッタリですよ」
そう言って梨花が出したパンプスは、確かに客によく合いそうなものだ。しかし、どうやらそれは客の望むものではなかったようだ。
客が俯く。しかし、梨花はそれに気づくことなく、接客を続けていた。詩織はそれを見つけた瞬間、カーテンを勢いよく開いてフロアに飛び出した。
「上野さん、一番入ってくれる?」
「……はあ?」
詩織に肩を叩かれた梨花は、不満を顔に出していた。しかし、詩織はそれに怯むことなく、もう一度言葉を繰り返した。
「上野さん。一番」
「……はあい」
店長である自分に言われれば反論できないのか、しぶしぶ梨花がバックヤードに向かった。その際、梨花の呟いていた言葉を詩織は聞き逃さなかった。
「人の客取ってまで売上伸ばしたいのかよ」
こめかみにぴりりとした痛みが走る。明らかな悪意に、心が折れそうになった。けれども、詩織は今目の前にいる客に向かい合った。
「大変失礼致しました。担当が変わります。seventh color店長の八塚詩織です」
「……いえ、私もう帰ろうかと」
「そうなんですね……ただ、最後にこれだけ見て貰ってもよろしいでしょうか?」
そう言って詩織は、真っ赤な箱から一足の靴を取り出した。エナメル質の、ベージュのパンプス。ヒールは十二センチ。seventh colorの中でも最も高いヒールだった。
「これ、」
「大切な商談にと仰られていたのをお聞きしまして。見たところ、外資系にお勤めのようですし……お相手は、欧州の方ですか?」
「えっ!よくわかりましたね!」
相手の顔色が戻ったことに、詩織は心の中で「よっしゃ!」とガッツポーズを取る。客の持つバッグの中に、英語とは違うアルファベットが羅列された書類を見つけため、ほとんど勘で答えたが間違っていなかったようだ。
「あちらの方はみな、背が高いですからね。立ち向かうにはこのくらいあってもいいかもしれません」
「……」
返事は無かったが、小さな頷きが見えた。
「履いてみますか?」
「はい……」
スツールに座る客の足元に、パンプスを置く。目測で見たところ、サイズも間違いないようだ。客の足が詩織の選んだパンプスに吸い込まれていく。
この瞬間を見るのがたまらなく好きだ。
「こちらへ」
客を姿見の前に誘導する。少しおぼつかない足取りだったが、数歩歩けば直ぐに慣れたようだ。
「いかがでしょうか」
「……すてき」
「とても良くお似合いです」
背の高さも相まって、凛とした雰囲気を醸し出していた。心なしか自信も溢れている。先程俯いていた客から、想像もできないほどの興奮が見て取れる。
「……わたし、初めて海外での商談なんです」
「そうだったんですね」
「自信をつけたくて。外見から入るなんて情けない話ですけど」
「いいえ。お客様。そんなことはありません」
姿見の前に立つ客の足元に跪き、詩織は顔を上げた。
「今はこんなにも自信に溢れていますよ」
その言葉を受け取った客が、頬を赤らめ嬉しそうな笑顔を見せた。
ああ、よかった。と、心の中で呟く。
詩織はこの瞬間が、たまらなく好きだった。
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「ありがとうございました」
「また利用させてください。こちらのパンプスも、普段使いさせてもらいますね」
赤い箱と、緑の箱。二つを入れたショップ袋を客に手渡す。詩織の勧めものと、梨花の勧めたもの。両方購入してくれたからだ。
「またのご来店、お待ちしております」
ゆっくりと頭を下げ、詩織は客を見送る。
また利用するという嬉しい言葉と共に、客は機嫌よく店をあとにした。
自動ドアが閉まったのを確認して、詩織はゆっくりと頭を上げた。そして小さく息を吐くと、腰の下で小さく拳を握った。
「よしっ」
今日も上手くいった。しかし、余韻に浸っている暇はない。
梨花が戻ってくる前に、個人別売上のチェックをしなければいけない。一足は詩織に、もう一足は梨花のものに。慌ててレジに戻り、会計処理をやり直していると、別スタッフから声をかけられた。
「店長。この在庫なんですが……」
「どれどれ?」
スタッフの持ってきたバインダーをのぞき込む。予測できる対応を指示し、詩織はまた、会計処理に戻った。
『seventh color』
七色の喜びを、あなたに。をキャッチフレーズに、全国に展開するシューズショップ。詩織は東京にある路面店の店長を任されていた。seventh colorの特徴としては、パーティー仕様のものから、カジュアルラインまで箱で色分けされている事だった。それこそ、社名の通り、七色で。
赤い箱は、パーティーライン。豪奢なものから、シンプルなものまで。少し背伸びをしたい時や、お呼ばれの時に使うもの。
青は、メンズ・レディース共にビジネスシューズ。
緑は、カジュアルパンプス。同じデザインでも、ヒールの高さを選べるため幅広い女性に支持を得ている。
オレンジは、スニーカー。有名デザイナーとコラボしたものもあり、ティーン世代たちから絶大な人気を獲ている。
紫は、弔事用や学生用のローファー。
黄色は、サンダルやミュールなどメンズ・レディース両方の夏物。
ピンクは子供用靴。この七つのラインがseventh colorで売られている。
毎日慌ただしく過ごしていたが、詩織はこの仕事に誇りを持っていた。
「てんちょ~いちばんどおぞ~」
「わかりました。お願いします」
梨花の声に、詩織は我に返る。レジをお願い、と声を掛けて、休憩に向かった。
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