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②甘い甘い、ミルクコーヒー
コツコツ、コツコツ。
店の裏口から、歩いて三十秒。アスファルトを叩くヒールの音はどこか軽やかだ。その足取りのまま、雨風に晒されて、古ぼけたドアの前にたどり着く。黒くくすんだ看板には、古めかしい字で、『喫茶ひだまり』と書かれている。
一度深呼吸をして、詩織はドアの取手を握る。もう一度息を吸い込んで、『押』のマークに従うようにドアを押した。
からん、からん。
懐かしいカウベルが鳴り響くと、香ばしい香りが詩織の鼻をくすぐった。そして、少し遅れて優しい声が詩織の耳に届いた。
「いらっしゃいませ。こんにちは」
「……こんにちは!」
店の奥から、この店のマスターが顔を出す。マスター、なんて言うと、年寄りのおじいさんをイメージするかもしれない。けれども『ひだまり』のマスターは、違う。柔らかく当てられたパーマと、笑うと優しげに垂れる目。白いシャツに、ギャルソンエプロンを纏う姿は、爽やかさの極みだ。加えて、笑顔が素敵なのだ。今日も変わらぬ爽やかな笑みに迎えられる。
マスターの笑みに、詩織は胸の高鳴りを抑えられない。
「今日も元気だね」
「い、いえ、うるさくて、すみません」
息を吸い込んだ勢いのせいか、詩織の挨拶はやたらと大きくなってしまった。恥ずかしさを誤魔化すために、詩織は店内を見回す。昼食時から少しズレているためか、詩織以外に客はいなかった。
「どうぞ」
マスターに勧められるまま、いつもの席に座る。カウンター席の左から二番目。調理するマスターからほんの少しだけ離れている。けれども、作る手元や、綺麗な横顔を盗み見れる特等席だ。
「BLTサンドセット、まだありますか?」
「ああ、ごめんね。今日はもう無いんだ。でも、タマゴサンドならあるよ」
「残念。じゃ、タマゴサンドでお願いします!」
「コーヒーは?」
「うん、と……ブラックで」
そう?と、マスターがにっこりと笑った。その笑顔に、今度は胸が痛んだ。
――ごめんなさい。ほんとはブラック飲めないんです。
マスターに心の中でこっそり謝罪して、詩織はカウンターに肘を置く。組んだ手の上に顎を乗せて、コーヒーを淹れるマスターを見つめる。
ふあ、と香ばしい香りが店内に広がる。詩織とマスター以外に誰もいない空間。この香りを楽しめるのは自分だけだ。
カウンター越しの近くて遠い関係が、詩織にとっての幸せな時間だった。
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詩織が『ひだまり』に出会ったのは、七年前だ。その頃、『ひだまり』のマスターはくたびれたおじいさんだった。
就職してすぐ、詩織はわかりやすい壁にぶつかっていた。客の期待に応えられないことが続いていたのだ。今の梨花のように、押し付けることは無かったが、接客しても売れず、中々売上に結びつかなかった。
そんな時、指導係だった店長に連れてこられたのがこの喫茶店だった。
BLTサンドを目の前に出される。食べたくなかったが、店長の手前、無理やり口につめこむ。
爽やかなトマトの風味が鼻に抜けた瞬間、詩織は情けなくも泣き出してしまった。
「八塚さん、大丈夫?」
「て、てんちょう、すみません」
隣にいる店長が慌てているのを肌で感じていた。けれども、詩織は顔を上げることが出来ず、ハラハラと泣き続けた。
店長の手が肩に乗せられた瞬間、電子音が詩織の耳に入ってきた。何度も聞いたことのある、店長専用のスマートフォンの音だ。
「っ、八塚さん、ごめんね。ちょっとまってて」
店でトラブルがあったのか、店長は店を出ていってしまった。残された詩織は、涙を拭い、顔を上げる。
ずず、と鼻をすすり、サンドイッチを口にする。今度はパンの香ばしさが口いっぱいに広がった。すると、涙がまた溢れ出てきた。
涙を隠すことなく流し続けていると、隣に誰かが座る気配を感じた。
店長が帰ってきたのかと思い、詩織は今までの思いを口にした。
「すみません……私、靴が好きなわけじゃないんです。面接では大層なことを言いましたが、本当は違うんです。短大卒は、大卒に比べて就職活動は厳しいし、とにかく早く就活を終わらせることだけを考えてました。だからきっとお客さんにもその気持ちがバレちゃったんですよね……」
こんな私に販売の資格なんてない。そう言い切る。店長からは、解雇通告か、それとも叱咤激励か。詩織はスカートを握りしめて次の言葉を待った。
「そっか」
帰ってきた声は、店長のものではなかった。低く、優しいテノールだった。詩織は思わず顔を上げる。すると、柔らかく目を細めた男性と目が合った。
「マスター、ちょっとキッチン借りていい?」
「ジン君ならいつでもどうぞ」
隣のスツールから立ち上がった男性は、勝手を知ったようにカウンター内に入っていく。スーツのジャケットを脱ぎ、詩織に手渡してくる。
「ごめん。隣の席に置いておいて」
「あ、はい……」
何が起きているかよく分からず、詩織は言われたままにジャケットをスツールに置いた。その時ふんわりとスパイシーな香りが匂ってきた。特徴のある香りは、コーヒーの香りにも負けない存在感だった。何となく離しがたく、詩織は綺麗にジャケットを折りたたんでスツールの上にゆっくりと置いた。
「はい。おまたせ」
ことん、とソーサーとカップが詩織の目の前に置かれる。淡い茶色に、ほんの少し泡立つミルク。甘みが香りにのって、詩織の鼻をくすぐった。
コーヒーの香りが漂う店内でミルクティー?と涙を忘れて小首を傾げる。
「どうぞ」
「あっ、いただきます」
元々コーヒーよりも紅茶を好む詩織は、これ幸いとミルクティーを口にした。しかし、舌が感じ取ったのは、紅茶独特のさらりとした甘みではなく、ほのかな苦味だった。
「……これ」
「甘いでしょ?」
香ばしい香りが消えた、甘い甘いミルクコーヒーだった。
「あまい、です」
「本来はブラックで飲んだ方がコーヒー本来の苦味と酸味を感じられるんだろうけど」
カウンターの向こうで男性が肘をつきながら話しかけてきた。
「疲れてる時は、こんなのもいいよね」
「……はい」
カップに口をつけて、今度は味わうようにゆっくりと嚥下する。ほのかな苦味と、ミルクの滑らかさ、詩織好みの甘みが、疲れた体に染み渡る。
「導入はなんであれ。今、君の涙が答えなんじゃないかな?」
「……え?」
「絶対!ブラック!である必要は無いってことだよ」
「……?」
詩織は意味がわからず、首を傾げる。おじいさんマスターが、「分かりにくいよ」と男性に声をかけていた。
「いろんな形があるから。靴を好きでなくても、お客さんの気持ちに寄り添えず悲しいってことでしょ?」
「は、い」
「それでいいんじゃないかな。悲しい、辛い、が君の気持ち。コーヒーみたいに、いろんな形があるんだから。必ずしも好きである必要はないよ。結果として美味しい!とか、よかった!って思ってもらえれば」
その一言に、詩織の視界がぱっと開けた。
好きでなくてもいい。
いろんな形があってもいい。
詩織は、自分の足元に視線を下ろした。就職して直ぐに買った、赤い箱に入っていたパンプス。店長に、あなたにはこれが似合うと勧められて、言われるがまま購入した。買わされたと思っていたが、今では詩織の足にぴったりと寄り添う無くてはならないものだ。
「ありがとうございます……」
「元気出た?」
「、はい」
よかった、と男性がカウンター越しに微笑む。
その瞬間、詩織の胸は今までになく高鳴る。
ドキドキする胸を押さえる。
たったこれだけの出来事だが、詩織は恋を自覚してしまった。
「今気づきましたが、わたしにとってこの靴は無くてはならないものです」
「そっか。じゃあ、それを上司に伝えないとね」
「はい。ありがとうございます」
涙はすっかり引っ込み、詩織はぽかぽかと温かい気持ちになっていた。もう一度、ミルクコーヒーを口にする。甘くて、ほんの少しだけ苦い。自覚した恋のような味だった。
けれども、名も知らない人だ。
もう二度と会えないかもしれない。
そう思っていたのに、次に店に行った時には、件の男性がカウンター内に立っていた。その時の驚きは今でも忘れられない。
「マスターも歳だからね。僕が引き継いだんだよ」
そう言って笑う人は、甘い甘いミルクコーヒーのような人だった。
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