22 甘く苦いミルクコーヒーをあなたの隣で

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22 甘く苦いミルクコーヒーをあなたの隣で

 ひんやりとした風が肩を撫でた。ぶるりと体をふるわせて、詩織は無意識に布団を探す。半分眠っているせいか、手はあちこちをさまよう。やっと見つけた布団らしきものを思い切り引っ張り、震える体にかける。  人肌から離れていた布団は、最初は冷たさこそあったものの、次第に心地よい温もりを与えてくれた。  しかし、体が酷くだるい。風邪でもひいたかと思ったが、喉の痛みや悪寒などそれらしき症状はない。身を丸めて、もう一眠りしよう。幸い今日から店は休みだ。  セールが忙しく、家の事まで手が回らなかった。部屋は散らかっているし、洗濯物も溜まっている。掃除をして、空気も入れ替えたい。冷蔵庫の中が空っぽだったため、買い出しにも行かなくては。眠ろうと思うと、色々と考えが浮かぶ。目を瞑り、ごろりと寝返りを打つ。  セールの売上はよかったものの、これから考えなくてはいけないことが沢山ある。啖呵を切って出ていった梨花の処遇や、店長業務の引き継ぎ……。考えればキリがない。  嫌だな。と、思ってしまった。  面倒くさいな。と、考えてしまった。  そんな自分に嫌気がさす。詩織は目覚めを拒否するように、ぎゅっと自分の体を抱きしめた。 ――逃げちゃいたい。  そんな下向きな考えが頭をよぎった時だった。  ふと、鼻をくすぐる香ばしい香り。  その香りをかいだ瞬間、詩織はしっかりと覚醒した。  ばさり、と布団を剥いで、体を起こす。 「あ、起きた?」 「は、……え?」  起きて一番に視界に入ったのは、仁だった。スウェットパンツだけ纏っており、上半身は裸だった。ひえ、と叫ぶと、仁が柔らかく笑った。 「おはよう。辛いところはない?」  そう言われ、マグカップを手渡された。詩織は促されるままカップを受け取る。 「……え、? あ? れ?」  カップは暖かく、冷えた手を温めてくれる。その温かさにほっと息を吐く。詩織の頭はまだ完全に覚醒していないのか、状況を飲み込めない。どうして仁がいるのか。そんな疑問を抱きつつ、とりあえず、渡されたカップに口をつけようとした時だった。 「たいへん刺激的なながめだけどいいの? 僕は大歓迎なんだけどね」  刺激的なのは、仁の格好では? と口にしようとした時だった。昨晩の記憶が一気に蘇ってくる。獣のように求め合い、快楽に溺れた夜。  一度だけでは足らず、何度も仁を求めた。  夜も更け、早朝と言っていい時間にそのまま眠ってしまったことも。全て、思い出した。 ――ということは。  詩織はゆっくり自分の体を見下ろした。まず視界に入った乳房には、大量の紅い花が散らばっていた。乳房だけではない。腹、太もも、ふくらはぎにも咲いている。昨晩の情事の名残を残した、裸体。 「っ、ひ!」  明るい所で全裸を晒してしまった。恥ずかしさが蘇り、詩織は慌てて布団をかき集めようとした。あまりの慌てように、カップを持っていたことを忘れてしまった。   「あぶないよ」  冷静な声ともに、カップが取り上げられた。一方の詩織は慌てて布団をかき集めた。 「……カップを渡す前に……言ってくれればいいのに」 「うん? 誘ってるのかと思って」 「っ、ちがいます!」  布団をかぶり、体を隠す。重ねた布団から顔だけ出すと、ニコニコとさわやかに笑う仁と目が合った。思い出すと恥ずかしさが込み上げる詩織はと違って、仁は余裕たっぷりだった。 「……ごめんね。のむ?」 「のみ、ます」  布団の中から手を出すと、温かさが戻ってきた。仁がベッドの縁に腰かけ、詩織をじっと見つめてくる。口もとには相変わらず笑みを浮かべており、詩織は思わず視線をそらした。 「そんなに丸まらなくてもいいのに」 「……恥ずかしいので」  恥ずかしい。ひどく、恥ずかしかった。七年片思いをして、それが成就した。それだけでも夢のようなのに、こんな穏やかな朝を迎えるとは思わなかった。 ――今だって、信じられないもの。  羞恥を隠すように、渡されたカップに口をつける。何が入っているか確認はしなかった。口の中に含むと、まず、優しい苦味と香ばしい香り。遅れてやってくるふくよかなミルク風味。その後に、風味を邪魔しない優しい甘さが口いっぱいに広がった。  初めて出会った時に仁がいれてくれた、甘くて苦いミルクコーヒーだ。  こくん、と嚥下して優しさとほんの少しの苦味を味わうと、ぼろり、と涙が溢れ出てきた。   「っ、詩織ちゃん!?」 「ご、ごめんなさい」  流れる涙を止めようと、詩織はごしごしと手でこする。それでも、涙が溢れて止まらない。  仁の隣で、優しい味を思い出してしまった。  七年の片思い、仕事で辛かったこと、嬉しかったこと。仁と出会ってからの出来事が一気に蘇る。 ――嬉しいはずなのに。どうして。  ボロンボロンと音を立てそうなほどの大粒な涙が次から次へと流れ出ていく。ごめんなさいと何度も謝り、涙をぬぐう。せっかくいれてくれたミルクコーヒーが台無しになってしまう。涙を止めようと躍起になればなるほど、逆効果だった。しまいには、子供のようにしゃくりあげてしまっていた。 「ああ、もう」  ぐい、と頭を引かれた。行き着いた先は仁の肩だった。 「何度も言うけど、詩織ちゃんは頑張ったよ」  ぽんぽんと頭を撫でられる。頑張ったよの一言に、全てが込められていた。仁にしたら、なんてことないことかもしれないが、詩織はそれに酷く救われた。そろそろと見上げると、自分を見ている仁と視線がかち合った。 「……ごめんなさい。甘えっぱなしで」 「……甘えている? 本当に?」  当たり前のようにそう聞かれる。甘えているかと聞かれれば、迷惑ばかりかけて、今もこうして肩を貸してもらっている。そう答えたかったが、マスターの態度に一瞬考えさせられた。 「……っ」 「君はもう少し、甘えられるといいね」  もう、十分甘えている。その言葉を詩織はぐっと飲み込んだ。けれども顔に出ていたのだろう。仁がにっこりと笑いながら、詩織の手を取った。 「……僕にもう少し甘えていいんだよ。仕事では高い高いヒールを履いて、背伸びをして……頑張る。でも、」  顎を持ち上げられる。端正な顔立ちだと改めて見惚れていると、唇がそっと重ねられた。 「僕のところでは窮屈な靴を脱いで、ありのままの君でいて」  苦いコーヒーが苦手なら、甘くてあったかいミルクコーヒーにしてあげる。  食べる暇もなく忙しかったら、僕がご飯を作って待ってる。  詩織ちゃんが泣かなくてすむように、こうして抱きしめてあげる。  顔中にキスの雨が降ってくる。ああ、こんなに幸せでいいのだろうか。 「応援するよ」  もう一度唇が重なる。  自分は本当に人に恵まれている。現状に感謝すれば、未来に希望が産まれてくる。考えなくてはいけないことが沢山あるのも事実だ。けれども、自分は一人じゃない。  もう少し頑張れそう。単純なもので、詩織は直ぐにそう思えた。けれども、一つだけ訂正しなければいけないことがある。 「仁さん」 「ん?」 「seventh colorsの靴は窮屈なんかじゃないですよ?」  昨夜詩織が履いた七瀬の靴は、疲れて悲しんでいた体にでも、素晴らしい履き心地だった。それだけは譲れない。ほかの靴もそうだ。背伸びをしたって、優しくあたたかく詩織を支えてくれる。 「……ふっ、そうだったね」 「そうですよ」 「じゃあ、今日はそんな素敵な靴を履いた詩織ちゃんとお出かけしようか」 「……えっ? お店は?」  今日はお休み。そう言って仁が詩織の額に唇を落としてきた。擽ったさに目を瞑ると、今度は頬にキスされる。 「いいんですか?」 「もちろん。さあ、朝ごはんにしよう。コーヒーもまたいれ直すよ」 「ミルクたっぷり! 甘くしてください!」  苦味たっぷりのコーヒーの美味しさはまだわからない。  だから、甘く、苦いミルクコーヒーをあなたの隣で。
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