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③パワーの源
「はい、タマゴサンド。お待たせしました」
「……あれ?これ」
詩織が注文したタマゴサンドが目の前に置かれる。そして、もうひとつ隣に置かれたコンソメスープ。これは、ランチセットについてくるものだ。頼んでいないと詩織が顔を上げると、人差し指を唇に当てたマスターと目が合った。
「寒くなってきたからね。あったまっていって」
夏の面影はなりを潜め、日が沈めば肌寒くなる季節になってきた。木枯らしが吹くにはまだ早いとはいえ、温かいものが恋しくなる時期だ。出されたコンソメスープとマスターの間を視線が行ったり来たりしていると、ウインクを飛ばされた。アイドル顔負けのマスターに、詩織は目のやり場に困ってしまった。
――なんて、かっこいいの。
詩織よりいくらか年上だろう。けれども、童顔なマスターは年齢不詳だ。今年二十七になる詩織より年上だというのに、かっこよくて、かわいくて、本当に困ってしまう。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
温かいコンソメスープを口にすると、精神的にも身体的にも疲れていた体にじんわりと染み込んでいった。
「美味しいです」
「そう。それはよかった」
ふにゃり、と目尻が下がるのを自覚する。
クタクタに煮えたキャベツとトマトとたまねぎ、人参、それからベーコン。野菜と肉の旨みが十分に引き出された優しい味だった。
マスターの作る料理は、いつだってささくれ立つ心を癒してくれる。先程あった頭を抱えたい出来事も、マスターの料理ですっかり頭の隅に追いやられてしまった。
「いま、忙しいの?」
「そうですね……新しい子も入ってきて、指導とか大変です」
「今や店長だもんね。年月が経つのは早いなぁ」
「やだ、マスターったら。おじさん臭い」
「はは、おじさんだからね」
そう笑ったマスターが、ソーサーに乗ったカップを詩織の目の前に置いてくる。
「はい。ブラック」
「あ、ありがとうございます」
置かれたカップをじっと見つめる。苦手なコーヒーを口にするのはいつも勇気がいった。いただきますと口にし、カップに口をつける。酸味の混じった香りに、一瞬むせそうになった。
「おいしいです」
「……そう。ゆっくりしていってね」
大人びた顔に見えるように意識しながら、詩織は微笑む。
音を立てないようにカップを置く。舌に残る痺れを誤魔化すようにタマゴサンドにかぶりついた。柔らかい食パンと、マヨネーズが絡んだ濃厚なたまごフィリングが絶妙にマッチしていた。
――ああ、ここにミルクコーヒーがあればどんなに幸せか。
アクセントのレタスが、口の中でシャキシャキと踊っている間に、詩織はしみじみそう思った。
前のように、甘くてほんのり苦いミルクコーヒーが飲みたいと何度も思っていた。
けれども、マスターが豆の焙煎や淹れ方、全てにこだわりを持っていると知った時から、詩織はミルクコーヒーを頼めなくなってしまった。
――それに、もう子供じゃないし。
マスターの前で泣きじゃくってしまったあの日を思い出すと、顔から火が出そうになるほど恥ずかしくなる。けれども、詩織は、仕事の失敗ではもう泣かなくなっていた。辞めずに働き続けた結果なのか、客の期待にも応えられるようになっていた。
――このブラックコーヒーを美味しく飲めるようになったら。
――マスターに想いを伝えよう。
そんな思いを胸に、詩織は今日も苦手なコーヒーに口をつけた。
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喫茶ひだまりを後にし、午後の業務についた詩織は、人知れず緊張していた。
ハンディーターミナルを片手に、オータムセールの準備を行う。その隣には、件の梨花がいる。詩織の照合に合わせて、タブレットから工場へ発注をかけている。そつのない仕事ぶりに、梨花が優秀だと改めて思い知らされる。
――さっきのパンプスもお客さんによく似合ってたしなぁ。
着眼点はとてもいい。
事務能力も問題ない。
少し、我が強くそれが接客に現れてしまっているのが問題だ。
新人の頃の詩織とは真逆の梨花をどうしていこうか。考えても思いつかない。
ああしてトラブルが起きる前に自分が入ることしか思いつかないのだ。
――でも、それじゃあ良くないわよね。
詩織の行動が梨花のプライドを傷つけていることも十分承知している。けれども、意にそぐわないものを押し付ける梨花は間違っている。
「でも、私のやり方も間違ってるのよね……」
ぴ、とバーコードを通すと、思わず口に出てしまった。
「え?間違ってますか?」
隣にいた梨花の声に、詩織は我に返った。慌てて首を横に振ると、梨花はわかりやすく顔を顰めた。
「しっかりしてくださいよー」
「ご、ごめんね」
「私今日、早く帰りたいんです。ほら、店長あと一列ですから。ちゃちゃっと終わらせてください」
年下の梨花に急かされ、詩織は「はい」と、返事をするしかなかった。その後、在庫管理と発注はスムーズに終わった。十七時の終業丁度に、梨花がバッグを掲げて出ていくのを確認すると、どっと疲れが押し寄せてくる。
「あれ、店長、おつかれですか?」
「ううん、私ももう終わりなんだけど……」
「私もう出ますので。ゆっくり休んでください」
へなへなと座り込んだ詩織は、遅番のスタッフに心配されてしまった。尻が椅子にくっついてしまい、立ち上がることが出来ない。
「あー、今日も疲れた」
仕事用の踵の高いパンプスを脱いで、詰まった足の指を曲げ伸ばしする。窮屈だった靴から解放された足がみるみるうちに赤らんでいく。
足首を回して、凝り固まった足を労る。
「今日も一日ありがとう」
戦闘服ならぬ、戦闘靴。靴専用タオルで埃を払い、今日一日の働きに感謝した。手入れをしながらよく見ると踵部分に少し擦れた跡があった。
詩織の今の気持ちと似たような傷に、忘れていた悩みが再燃する。
――明日からまた、どうやっていこうかな。
うんうんと頭を抱えていても答えはでない。
大きなため息を一つ吐いて、詩織はもう一度靴を履く。そして、早足で倉庫へ向かった。
――こんな時は、あれを見て元気出そう。
紫、ピンク、緑、オレンジ、黄色に青。
色とりどりの箱を背に、詩織は倉庫の奥へ進んでいく。赤い箱が羅列された棚の、また奥。小さなカーテンで仕切られた向こう側に、目当てのものがあった。
店舗スタッフの名前と、付箋が貼られた箱がずらりと並んでいる。seventh colorでは、半年間の間に二つまで、社割で靴を購入できる福利厚生がある。その制度を利用して、それぞれ気に入ったものを取り置きできるシステムになっていた。積み上げられた箱は、色とりどりだ。カラフルな箱をかき分けて、詩織が取り出したのは赤い箱だった。
『店長の!』
大きな字で書かれた付箋を見る度、詩織はこの靴と出会った時の喜びを思い出す。箱の上に被さっていた埃を手で払い、そっと箱を開ける。
薄葉紙が破れないように、そっとめくる。すると、シルバーピンクのパンプスが姿を現した。
ホログラム加工されているため、光の当たり具合で色が変わる。見ようによっては緑が見えたり、
青が隠れていたりする。
ゴージャスで、今までなら気後れしそうなパンプス。けれども、詩織はこの靴を見た瞬間、見事に捕われてしまった。
似合うかどうかもわからない。履きこなすには難易度が高いものだ。けれども、詩織はこの靴をどうしても履きたかった。
秋のセールが終わった御褒美に。
大人になった自分へのプレゼント。
色々な理由があったが、一番は、これを履きこなせればまた大人の女性に近づけると思ったからだ。
コーヒーも少しずつ上手に飲めるようになった。
美しい靴を履きこなせるようになれば。
目指すものはあと一つ。
「私に力を貸してね」
ぽつりと呟いた詩織は、赤い箱にそっと頬を寄せた。
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