④ざわりと心が震える

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④ざわりと心が震える

 今日は梨花と休憩が一緒になっていた。  あれから、梨花の接客に気を揉むことが何度もあった。  自分で気づいて欲しかったが、中々難しそうだと詩織は考え始めていた。半年の社員研修を終え、店舗配属され、一ヶ月以上経った。このままだと査定を見直さなければいけない程、梨花の行動は目に付いた。  クレームに繋がるのも時間の問題だ。そう判断した詩織は、梨花に声をかけた。 「上野さん、これからお昼、予定ある?」 「……いえ、コンビニですまそうかと」 「……少し話がしたいんだけど、付き合ってもらえる?」 「説教ですか?」  梨花の返答に、詩織は面食らった。答えられないでいると、大きなため息とともに梨花がたちあがった。 「分かりました~行きますか~」 「えっ?あ、う、うん」  何かおかしいと思いつつも、詩織は促されるままバックヤードを出る。外で待つ梨花は、スマホをいじっていた。財布を持たない梨花に、潔さを覚える。あまりに潔いので、笑いが零れてしまいそうだった。 「どこ行くんですか?」 「すぐそこなんだ。コーヒーは好き?」 「好きですよ~嫌いな人なんていなくないですか?」  ――ここにいます。ごめんなさい。  その言葉を飲み込んで、詩織は歩いて三十秒。喫茶ひだまりのドアを開いた。もちろん、いつもの通りに深呼吸をするのを忘れない。視界の端に入った梨花の顔に書いてある「こんな汚い店?」は、見ないふりをした。 「こんにちはー」 「こんにちは。いらっしゃいませ。今日はお連れ様がいるの?」 「はい。うちの社員の上野梨花さん。さ、座って」  詩織の後から入ってきた梨花の背中を押してマスターに紹介する。さ、挨拶して。と促す前に、触っていた梨花の背中が無くなっていた。 「うわ、イケメン!」  詩織の前に出た梨花が、詩織の特等席であるスツールに腰掛ける。え?と、思っているうちに梨花は物凄い勢いでマスターに話しかけていた。 「こんな店にこんなイケメンがいるなんて!」  こんな店という梨花の言葉に詩織はムッとする。しかもいつもの席に座られてしまった。どうしようかと思っていると、マスターと目が合った。  大きな目が柔らかく細められて、おいで、と手招きされる。促されるまま進むと、いつもの特等席より一つマスターに近い席に案内された。  少し気恥しさを覚えつつ、促されるままスツールに腰掛ける。 「今日はどうする?BLTあるよ?」 「わたしはそれで。上野さんは?」 「私は~、パスタにしようかなぁ。こんな素敵な人の前で大口開けてサンドイッチ食べられないし~」  悪かったわね!と、叫びたいのを必死に堪える。こめかみがぴきぴき痛む。親指でぐりぐりと押すと少しだけマシになった。 「じゃあ、BLTサンドセットとパスタランチね。クリームだけど大丈夫かな?」 「大丈夫でぇーす!」  オーダーも終わったし、詩織は梨花に本題を切り出す。 「上野さん、あのね」 「分かってますよ~私の接客態度が悪いって言いたいんですよね~?」 「……分かってるならいいの。上野さんの着眼点は凄くいいし、事務処理も早い。ただもう少し相手の……」 「はいはい。分かってます。でも、私は店長みたいに相手の裏側を見るつもりないし」  紙ナプキンを折り紙のように畳み、詩織の方をちっとも見ない梨花に、苛立ちを覚える。カッとなり感情的に物言いそうになった瞬間、ことり、と二人の間に皿が置かれた。 「お待たせしました。BLTサンドです」 「あっ、ありがとう……ござい、ます」  ぱちん、とマスターがウインクを飛ばしてくる。間に入ってくれたようだ。詩織は一度深呼吸して、もう一度梨花に向き合った。 「……別に裏側を見ろとは言わない」 「……はぁ」 「いろんな人が居るし、私はこの接客の仕方があってただけ。上野さんはトレンドにも詳しいし、相手に似合うものを見つけるのも上手。私には出来ないことだから。そこを伸ばしていけばいいのかな?」  梨花の返事は無かった。どうしようかな、と思っていると、優しいテノールが詩織の耳に届いてきた。 「優しい上司をもって、君は幸せだね」  その声に詩織は顔を上げる。マスターがカウンターに肘をついて、梨花と向き合っていた。 「君のいい所をきちんと分かってくれている。中々ない事だよ。その幸せをもう少し実感できるといいね」  はい、サーモンとほうれん草のクリームパスタ。と、マスターが梨花の前に置いた。この店の名のように、柔らかくあたたかい笑みをマスターは浮かべていた。 「……は、い」  詩織は、隣の梨花を見て驚きに目を見開いた。頬を赤らめ、ぽやっとした表情。身に覚えのある反応だった。  人が恋に落ちる瞬間を、目撃してしまった。  ■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪  秋のセールに向けて、店舗では目玉商品の仕入れが検討されていた。  一年に四回あるセールの売上ごとに、店舗に臨時ボーナスが配布される。それを社員、パートで振り分けるのだが、これが馬鹿にならない金額なのだ。 「今年も目標突破するためにはどうしたらいいか、検討会を初めます」  お金なんて……。なんて綺麗事は言っていられない。社員一同、目標突破のため、一丸となってセールに望んでいた。  閉店後の店舗にて、スタッフで案を出し合う。上からの指示は「期間」のみで、詳しい指示は一切ない。全て店長他スタッフに委ねられている。放任主義と言えばいいのか、頑張ったら頑張った分だけボーナスが支払われるというシステムを詩織はたいそう気に入っていた。  もちろんパートや、アルバイトにも支払われる。扶養等に引っかからないように、その辺は経理がどうにかしてくれているはずだ。 「夏のセールの勢いそのまま、秋も突っ走りたいんだけども……みんな、何か意見ある?」  詩織は自分の意見を出したあと、一人一人に考えを伺っていく。その中で、梨花だけが一人バックヤードで別の作業をしていた。  最後の一人の意見を聞き終わった後、詩織は梨花を呼びに行く。待っててくださーい、と声が聞こえたと思ったら、お盆を持って梨花が現れた。 「上野さん?」 「みなさーん、コーヒーどうぞ」  紙コップが配られる。もちろん、詩織にもだ。嗅いだことのある香りに、詩織は眉をひそめた。 「上野さん、このコーヒー」 「喫茶ひだまりのですよぉ。テイクアウトしてきちゃいました」  喫茶ひだまり。  そう聞こえた瞬間、詩織の時が一瞬止まった。  詩織が梨花をマスターの所に連れていった日から、梨花は足繁くひだまりに通っている。詩織が行くのを躊躇するほどに。 「そこのマスター、ジンさんって言うんですけどね。すごくカッコイイんですよ……今日やっと名前を覚えてもらって、梨花ちゃんって呼んでもらえたんです」  へぇ!と他のスタッフが反応している。しかし、詩織は同じように反応できなかった。  詩織の目の前が真っ暗になる。  七年かかっても呼べなかった名を、梨花が口にしていた。  紙コップを持つ手が小さく震えている。  コーヒーのテイクアウトが出来ることも。 「ジン」という名前を呼ぶことも。自分の名前を覚えてもらうことも。  七年かかって、詩織が一つも出来なかったことだった。
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