名前のないきみへ

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 壁に小さな鏡がかけられていたのでぼくは正面に立ち自分の顔を見た。  ぼくの部屋に置いてあった大量の本の内容から知識を得たが、ぼくは人間の男性の形を忠実に再現した機械人形であった。  白い肌も全身に流れる血管も髪も装飾品に過ぎずない。ただ体温も空腹感も何もかも人間に似せてあるだけだった。 「こっちに来てぼくとお話しない?」   ぼくは椅子から立ち上がり彼女を手招きする。 「かまいませんよ」  彼女はぼくの目線に合わせるようにひざをおり耳をかたむけた。  ぼくは記憶の欠片を探る様に慎重に質問を投げかける。 「他の人間たちはどこにいるの?」 「残念ながら私以外の人間は長い眠りについているようです」 「寝ている?」  彼女はこうも続ける。科学や医療が進化して人間に不可能がなくなった。どんな願いも現実になり、叶わない願いを探すのが難しくなった。 「はじめのうちは世界中の人が喜んだそうです。しかし願いが叶うとは願いがなくなるといことでもあると人間たちは気がついてしまったのです。進んだ科学は人間の可能性と希望を奪っただけでなく生きる意味さえも没収してしまった」  やがて人間は身体を捨て不自由だった人間だった頃の記憶だけを残して眠りについたそうだ。  ここからずっと北に行ったところにあるかつて栄えた都市があるという。その至る所にあるシェルターの中でバーチャルワールドを作り出し最後の人類は生き長らえている。 「大昔の都市の写真がありますが、ご覧になりますか?」  うなづくと彼女は、一階にある物置部屋から一冊のアルバムを持ってきて、ぼくに手渡した。  ぼくは1ページずつ凝視したあとで、どうしてきみは都市に残らなかったのかと尋ねてみると、彼女は穏やかな口調で言葉を並べた。  僕と僕の使用人として仕えていた彼女はそんな世界に嫌気がさし人里離れたこの地を訪れたという。 「なおさらわからない、憎んでいるならどうしてぼくを造ったの?」 「復讐のためです。わたしは心の底からあなたを憎んでいます。だからこそわたしは長い年月をかけてマスターをお迎えする準備をしておりました」  歳をたずねると彼女はもう百年以上生きているという。 「とてもそんなおばあちゃんにはみえないよ。きみはなんというかとても素敵だ」 「ふふ、それは科学の進歩です。人間は特別な手術をすれば不老不死にもなれるのですよ」 「不老不死になってまでぼくを憎んでいたの?」  そう言うと、いたずらな笑みを零す。 「マスターはひどいかたです」 「ぼくはきみから何を奪った?」 「いえ、わたしに与えてくれました」 「あたえた? それならばなぜぼくを憎む?」 「さぁ、自分の胸に手をあててじっくり考えてごらんになってください」  騙されと思って胸に右手をあてるが偽物の鼓動が脈を打つだけで、なにも浮かんではこなかった。 「ごめんなさい。やはりぼくにはわからない」 「それならば仕方がありませんね」 「しかし、それではぼくの気持ちがおさまらない。少しでも過去を思い出したい。そのためにまずはきみの名前を教えてくれないか? ぼくはきみに償いたいし、なによりきみのことを知りたい」  彼女に提案した。ぼくの頭を優しく撫でた後で彼女は窓の外の十字架を眺めていた。ときおり吹く風が庭の芝をなびかせた。 「マスターがわたしのことを知る必要はないですよ。でももしわたしの名前を思い出したならわたしがあなたを憎んでいる理由をお伝えいたしましょう」 「わかった。ぼくはきみの名前を思い出すよ。そして必ず償わせてほしい」  彼女は微笑む。 「はい。マスター期待しております」    
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