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駅前の人影
ある火曜の23時を回った駅前は人影が減らなかった。飲み会帰りの大学生グループは缶チューハイを振り上げて3度目の乾杯を交わした。それを横目に足を速める会社員達はくたびれたスーツで改札を目指した。秋本沙都美と同僚の坂田優子もその流れに続いた。
明暖色の服と明るい茶髪にいつも濃いメイクの沙都美と黒系の服に黒髪のナチュラルメイクの優子。彼女たちの職場は駅ビルの20階で、プロジェクトリーダーの沙都美は同じチームの優子と4日目の残業を終えたところだった。2人はビルの2階と駅を繋ぐ道を通って駅前広場に差し掛かったところだった。
広場は駅の向かいに植え込みがあり低木の垣根と花が、今はイルミネーションも施されているため、この時間でも消灯前に見にくる人がいる。沙都美たちには慣れた景色であるが、自然と目が向くくらいには煌びやかな明かりを放っていた。
ただその日に目を惹いたのは電飾の輝きではなく、その下に座る1人だった。
その人物はイルミネーションを見ず、駅の方を見ていた。その視界にはビルの壁面ガラスしか入っていないはずだ。
「あの人何してるんだろ」
優子が沙都美に話しかけた。
「誰かと待ち合わせじゃない?」
「にしてはなんかおかしくない? 雰囲気というか様子が」
優子の言葉に沙都美はPC業務で疲弊した目に力を込めてその人物を見直した。白シャツにズボンだが真冬にコートもダウンも着ないでカラフルな光に照らされた姿は、確かに陰鬱な空気を纏っていた。
「――え、女の人?」
沙都美は男性だと思っていたため余計に驚いた。異様な雰囲気の人物は沙都美と同年代らしきショートヘアの女性だった。
「体調悪いとかかな」
「そうかも」
優子に同意した沙都美は駅に背を向け、しゃがみ込む彼女の元へ歩いた。優子も後に続いた。
「大丈夫ですか」そう声をかけようとした時、もう一つ勝手な思い込みをしていた事に気づいた。
白の長袖を着ていたはずの彼女の両腕は実は何重も包帯を巻いていたのである。白い包帯は所々赤茶色にじんわり染まっていた。
彼女は足を止めた沙都美に気づくとバッと顔を上げて立ち上がった勢いのまま駅へ走り去った。
急な動きに後ろの優子は何があったのか掴めなかったが沙都美も呆然と立ち尽くした。
「芽衣……?」
走り去る寸前の彼女と目が合った時、沙都美は10年以上前の記憶を復習するのように噛みしめた。大学時代に同じサークルにいた内気で目立たない彼女――倉田芽衣――のことを。
「沙都美、大丈夫?」
優子の声ですぐ現実に引き戻された。
いつのまにか出ていた額の汗を拭って、沙都美は笑顔で優子に振り向き、両腕の包帯と彼女の正体が大学時代の後輩だったと話した。
「こんな偶然あるんだね、びっくりした」
優子は芽衣の包帯より沙都美と知り合いだったことに驚いていたが、そのおかげか恐怖感は消え去った。
それを見て沙都美はある提案をした。
「ねえ、もし次芽衣を見かけたら話しかけてみない?」
「いいよ。怪我してるのにあんな格好で外にいるなんて、心配だもんね」
「うん」
もっともらしい理由をつける優子だが、その心内には単純な好奇心が湧き出ていた。一方そうとは知らず話をする沙都美は芽衣に会った時何と声をかければいいか、自分にとっての最善を考えていた。
次の機会は意外にも早く訪れた。
最初の出会いの翌週水曜日、沙都美と優子は残業の連続記録を着々と伸ばしていた。一旦の区切りがついた22時頃に退社して、いつものルートで駅前広場にやってきた。2人は形だけのイルミネーション観賞をゆっくり歩きながら行なっていた。この一週間沙都美と優子は真の目的は違えど同じ対象を探して行動していたがどの時間帯にやってきても芽衣の姿はなかった。
何度か視線を左右に振っていると垣根の陰に身を寄せるように座る人物が視界に入った。その人が見ているのは駅ビルのガラス壁、あの時と全く同じ格好の芽衣だ。
気づかれるとまた逃げられるかもしれない。そう考えた2人は広場の左右の端に別れて駅前を歩く人に上手く紛れながら、さりげなくイルミネーションの方へ近づきタイミングを合わせて芽衣の前に立ち塞がった。
ビクッとした芽衣は咄嗟に立ち上がったが、後ろは柵、横は垣根と花々、前は沙都美と優子で行き場を失った。おろおろとその場で回ったが、再び沙都美と目が合った時、固まった。
「……もしかして、秋本先輩?」
10秒くらい間があって芽衣は相手が誰か気づいた。
「久しぶりね」
沙都美は張り付いた笑顔で答えた。
芽衣は大きく2回深呼吸して、少しだけ口角が上がった。
「お久しぶりです。雰囲気変わられましたね」
「そうかしら。別に何も変わらないけど? それより腕、大丈夫?」
そう言う沙都美の様子に優子は緊張した。沙都美の普段と異なる口調や表情を気にはしなかったが、沙都美の内の何かを感じた。
優子が割っては入れないのを気づかないように沙都美は芽衣に問いかけ続ける。
「どうしてここでしゃがんでたの? 誰か待ってるわけでもなさそうだし」
「いえ、いやその……べつに何でもないんです。気にしないでください」
「そういうわけにもいかないのよ芽衣。私達心配してるの、ね? 何か事情があるなら話してよ」
「ん……」
沙都美の強い圧に押されて芽衣は目を伏せ腕をさすりながら、「少し長くなりますが」と前置きして経緯を語り出した。
2ヶ月前、まだ秋口のころだった。市役所勤めの芽衣は複数の部署の合同で行なわれた飲み会に参加させられていた。お酒に強くもなければ嫌な上司もいるため早く帰りたい気持ちが募っていたが、仲良しの同僚に誘われて仕方なく最後まで席を離れなかった。
終電1つ前、この駅前で解散したの頃には芽衣の酔いはかなりのもので足元が少し定まらなくなっていた。気分も悪い中、前から目をつけられている厄介な他部署の男が執拗に声をかけてくる。思考が不明瞭になり男に促されるまま丁度いい高さにある花壇の縁石に座らされて誘い文句を聞かされた。
芽衣の目の前にそびえ立つ駅ビルの壁面を埋めるガラス、そこに映る自分の姿をぼんやり眺めてやり過ごそうとしているとおかしなことが起きた。駅ビルの外周は建物に沿うように一段下がって景観美化用の水が浅く張ってある。当然ガラスに反射した風景には最前景に水が映っていて、まるで合わせ鏡のように見えた。
そのガラス世界の水面が微かに揺れ始めた。アルコールが原因かと思ったが、現実世界の水面に変化はない。ビル風もないし人通りもほぼない。不規則に揺れる水面は徐々に1つの大きな波紋になり、波紋の中心はどんどん盛り上がってやがて蟻塚形の水柱になった。この時には始めから聞き流していた男の声など存在ごとなかったように、芽衣は残った正常な意識をかき集めてガラス世界に集中した。水柱は表面の動きを止めると溶けるように水面に姿を戻した。中からは一人の人間が出てきた。芽衣と全く同じ姿をした女性が立っていた。
異常な光景を見て芽衣は声を出してしまい、諦めかけていた男が再び喋ってきた。が無視を続けて、芽衣は必死に頭の中を整理した。
ガラス世界には今2人の芽衣がいる。一人は酒と男に気分を害される芽衣の虚像、もう一人はガラスに映る水から生まれ出た芽衣。横の男はこの異常に気づいてないらしかった。芽衣は寒気に襲われながらもガラスを見るのをやめなかった。むしろ頭には次の展開を期待している自分がいた。
ジッと目と目を合わせる2人の芽衣。動き出したのはガラス世界のもう一人の芽衣だった。彼女はニコリとして口を開いた。
「はじめまして」
自分と同じ顔の人に言われる言葉としてこれほど違和感があるものはないだろう。声は鼓膜に響かず頭蓋の内側を反響した。落とし物を返す湖の女神のようなやけに上品な語りで、うろたえる芽衣に芽衣は続ける。
「あなたに課題を与えます。すぐに帰宅するのです。男を振り払って早く早く帰るのです。そうすればよい事が起きるでしょう」
怒濤の謎に芽衣の思考は押し流されていく。とにかく課題とやらを達成すればよい事が起きるらしい。課題は芽衣が30分ほど前から思い続けていることなので手軽だった。
酔いも落ち着いてきた。気づけば終電間際、大きな息を1つ吐いて、改札に駆け込んだ。吐き気を我慢して家に帰ると着替えもせずにベッドに倒れた。
翌朝、膨張感のある頭を抑えて芽衣は目覚めた。洗面所に向かいながら思い出すのは昨日の出来事だ。昨晩の記憶は明瞭で、けれど疑わずにいられない展開だった。身の安全に繋がったとすれば己の深層意識が見せた幻だった、と考えられるかもしれない。しかし、未体験の幻覚だと判断できる証拠もない。顔を洗って歯を磨き終わっても結論は出なかった。
食事の用意をしつつスマホを確認。その時、あのガラス世界の私の声が頭に流れ込んできた。
「課題達成しましたね。ご褒美をあげましょう」
画面の通知欄にメールが数件、内一通に目が留まった。大好きなアーティストのライブチケットの抽選に当選した旨が書かれていた。芽衣が6回連続で外していた倍率20を超えるチケットがこのタイミングで手に入ったのである。疑念は反転、芽衣は昨晩の全てを信じた。
朝食を軽めに済ませると手早く着替えて出かけた。向かうのは駅前広場だ。土曜の午前中でそこそこ賑わっていた。半日前とは違い素面で垣根前の縁石に腰掛けビルのガラスに対面した。
多くの人が芽衣とガラスの間を行き交う。映り込む大勢の姿の中にいつの間にか芽衣を見つめる人物が立っていた。今初めて素面で見る、もう一人の芽衣だった。
「ほんとだったんだ……」
もう信じていたつもりだったが、目の当たりにすると思わずそう呟いていた。昨日は大層な演出で登場したが、現れ方は複数あるらしい。いずれにしても何か超常的な存在だと芽衣は確信した。
「こんにちは。あなたに課題を与えます」
ガラス世界の芽衣は上品に淡々とした口調で話した。
「新しいカバンを買って使いなさい。そうすればよい事が起きるでしょう」
もう一人の芽衣はそれだけ言うと通行人の影に紛れ込むように消えてしまった。
昨日と同じ言葉、課題だけは毎回違うようだ。
課題を受け取った芽衣は不思議さを味わいつつもその内容に心当たりを感じた。実は以前から仕事用のカバンを買い換えたかったのだ。自分自身との奇妙な繋がりに引っかかったが、素直に目をつけていたショップに足を伸ばした。
何事もなくカバンを買った芽衣は月曜日から新しいカバンを使いだした。するとセクハラばかりの嫌な上司が時期外れの部署替えでいなくなったのだ。さすがに驚いて同僚達とその理由を聞いて回ったが皆よく知らないみたいだった。芽衣は完全にもう一人の自分を信じていた。
だがよかったのはそれまでだった。
3回目の課題は『5kmランニングする』。確かに健康に気を遣わなきゃとは思っていた。運動が苦手な芽衣は悩んだ末に翌日5kmを完走した。ご褒美はスーパーの特売に間に合ったこと。
4回目の課題は『ドングリを666個集める』。内容にこれならできると思い、週末の丸一日を費やしてようやく集めた。ご褒美は家の前で500円玉を拾ったことだった。
そして5回目の課題は『仕事を辞める』だった。もはや芽衣が秘める願望ではなく、現実的に実行不可能だ。それにハード化する課題内容に反比例して質が下がるご褒美を得るために努力する理由もなかった。芽衣は初めて課題を無視した。今に続く苛烈な日々を予期できればこんな選択はしなかっただろう。
翌週の月曜日、芽衣は職場への道中、例の駅前を通った。もう一人の芽衣が現れるガラスの前で足を止めた。自分の顔が告げる言葉を無視したことに少しだけ罪を感じていた。ガラス世界には停止する芽衣と一方向へ流れる大量の人だけ――ではなく、またも気づかぬうちにもう一人の芽衣がサラリーマン達の間から顔を覗かせていた。
「ばつ」
「え?」
ニコリと笑う口が一言だけ発して、人々の虚像に飲み込まれた。
芽衣は聞き間違いかと思った。しかし直に脳へ届いた声は間違いなく『ばつ』と言っていた。○×のバツか? それとも……。
その日の仕事は散々だった。担当窓口に来るお年寄りは延々と暴言を撒き散らすし、その苛立ちからか重要書類に大きなミスをしてしまった。普段はこんなミスしない。浮かぶのは今朝のガラス世界の芽衣に言われたあの言葉。
「ばつ」
思い過ごしだ、単なる偶然だと割り切るには不気味すぎた。それから数日、駅前広場を通らないようにした。
6回目の課題を突きつけられたのは突然だった。朝の日課で洗面所に行くと、鏡の中の芽衣の隣にもう一人の芽衣が彫像のように立っていた。瞬時に真横を見たがもちろん誰もいない。だが鏡には分身のごとく同じ姿の人間が2人いる。芽衣は思わず胃液がせり上がってくるのを抑えた。
「課題を与えます」
もう一人の芽衣ははいつもの上品な話し方で定型文を言った。はじめ女神の声にも聞こえたそれは冷たい機械が述べる旧型の自動音声みたいに聞こえた。
「もう、課題はいらないです」
芽衣は初めてもう一人の自分に主張した。だが、
「課題を与えます」
会話は不可能に思えた。もはや鏡世界の芽衣は一方的に己の要求を呟く厄介な別人だった。
「お願いだからッ、もうやめて!」
ガンッと鏡を拳で叩いた。
「自分を3回殴りなさい」
命令する芽衣の別人から笑顔は消えた。
「誰がそんなこと――」
そう言いかけた芽衣を腹部の鈍痛が襲った。
「なんで腕が、勝手に……」
無意識の右腕が腹を殴った。内臓を掻き回された気分だった。加速した呼吸が落ち着く間もなく今度は握った左手が顔面を一発、右手の一発が首に食い込んだ。
「課題達成しましたね」
芽衣の別人は洗面所で血を垂れる芽衣に鏡世界から仮面のように微笑みかけた。
これをきっかけに別人は職場にもレストランにも旅先のホテルにも……どこにでも現れた。そして課題を達成しないと『ばつ』がくる。芽衣は必死に課題を達成しようとしたが課題も『ばつ』も暴力的になっていた。
自分で自分を傷つける毎日。1回目の課題から2ヶ月が経っていた。
2人は相槌も打たず芽衣の話を聞いた。全て真実なら現代に似つかわしくない恐ろしい昔話のようである。沙都美と優子は疑うが芽衣の両腕の包帯を見ると信じなければいけない気がした。よく見れば顔にも生傷が刻まれていた。
「長々とすみません。今日は帰りますね」
怪我のせいか精神的な疲労のせいか、肩から脱力したまま芽衣は駅へ歩いていった。
優子はかける言葉に迷った。沙都美は小刻みに震え両手で顔を覆っていた。変わり果てた後輩の姿が彼女の感傷を生んだのかもしれない。優子は
「うちらも帰ろうか」
と言い、沙都美も小さく返事をした。彼女の目が潤んでいるように優子には見えた。
しばらく2人の頭には芽衣の話がこびりついていた。気づけば芽衣の話を信じきっていた。2人は芽衣を朝夜通勤時に探したが、あの日を境に彼女の姿は見えなかった。芽衣への好奇心と心配を募らせる優子に対して、沙都美は彼女のいない駅前を眺めては哀しいような悔しいような顔で唇を噛んでいた。
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