3.喜びと不安と

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*** 結婚に学生に仕事のお手伝いと、目まぐるしく充実した生活も板についてきたある日のこと。 女学校へ行く準備をしている奈津に成臣が声をかけた。 「奈津、すまないが一ヶ月ほど家を空けるよ」 「はい、どちらへ?」 「神戸だ」 「神戸?」 成臣の後ろには大きなボストンバッグを抱えた使用人が控える。最近神戸では貿易が盛んだと聞く。きっとその関係なのだろう。羨ましさを覚えるが、さすがに奈津を神戸までは連れて行ってくれないらしい。 「神戸に来る外国商人とようやく会える目途がついたんだ。これは大きな商談になるだろう。ぜひ成功させたいと思っている」 「そうなんですね。わかりました。お気をつけていってらっしゃいませ」 「奈津も、気をつけて」 成臣を笑顔で送り出し、自分もいつも通り桐ヶ崎家の運転する車で学校へ通う。まだ自動車が高価で珍しい存在だったため毎回同級生に羨ましがられるが、それもそろそろ慣れてきた。 学校では勉学の傍ら小夜たち同級生と談笑し、いつもと変わらない日常を過ごす。帰宅後は使用人の用意してくれた食事を取り、その後は自室で書物を読んだり勉強をしたりと何かと忙しい。入浴し夜着に着替えて寝室へ行くことだって、普段と何ら変わらない。これはいつも通りの奈津の行動。 それなのに――。 ベッドに潜り込むとひどく背中が凍えた。 「……寒い」 最近の夜は少しばかり冷えてきたとはいえ、体がぶるりと震えることはないのに。 奈津はいつも以上に身を縮こまらせて布団を手繰り寄せる。いつもは背中越しに成臣がいる。どんなに仕事が遅くなっても、成臣はこのベッドで眠るのだ。彼に触れなくとも、その気配や温度は知らず知らずのうちに奈津に安心感を与えていたようだ。本当に、どうしたことか今日はやけに冷える。 「……成臣さん」 呼んでみるも当然返事はない。 今頃成臣は何をしているだろうか。 もう神戸には着いただろうか。 頭に浮かぶのは成臣のことばかり。 一人の夜はこんなにも冷たいものかと奈津はひしひしと肌で感じたのだった。
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