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2.仮初めの結婚
和服の着流しに海老茶色の袴を身につけた平田奈津は、帯ををぐっと結んだ。強く結ぶことで背筋がシャキッとし、いつもきゅっと気持ちが引き締まる思いがする。女学校に向かうため朝の身支度を整えた奈津はいつも通り「いってまいります」と家の奥の方に向かって告げた。玄関の引き戸をガラガラと開ける。
柔らかな風が吹く、心地良い朝だった。
「待ちなさい、奈津」
「はい?」
ふいに呼ばれハタと足を止める。
振り向けば、難しい顔をした父が腕を組み、いつも以上に威圧的に立っていた。父に呼ばれるときは大抵ろくでもないことばかりだ。嫌な予感を感じながら、何の用だろうかと奈津は眉根を寄せる。
「今日は桐ヶ崎様がいらっしゃる。戻って着替えなさい」
「桐ヶ崎様?」
聞いたことのない名前に奈津は首を傾げた。父の仕事相手だろうか。だったら、なぜ自分に関係あるのかもわからない。だが――。
「お前の結婚相手だ」
そう告げられたとたん奈津は息をすることを忘れるくらいに絶句した。その言葉を徐々に頭に取り入れるとともに、カッと頭に血が上る。
「お父様、何度も言っていますが私はまだ結婚するつもりはありません」
感情のまま父にたてつけば、奈津よりも感情的に父の怒号が飛ぶ。
「ふざけるな。女学生のうちに結婚するのが女の幸せだろう。今までも何度か見合い話をいただいたのに断りよって」
父は吐き捨てた。
実際、奈津は見合いの話を何度か断っていた。それも毎回会いもせずにだ。その度に両親の顔を潰しているのは申し訳なく思ってはいるのだが、その話題が出るたびに平田家は険悪な雰囲気になる。
だが奈津とて結婚したくないのだから仕方がない。親の言うことに素直に従うほど、自分は従順ではないことを自覚している。それを両親が良く思っていないことだって理解しているし、毎回小言を言われるのがオチだ。だからといって親に忖度することなど考えられない。自分の人生は自分で決めたいのだ。
奈津はぐっと拳を握った。
「私は結婚よりも勉学に励みたいのです。卒業後は師範学校に行くつもりです。だからお断りを」
「お前、世間から老嬢と呼ばれてもいいのか」
「言いたい者には言わせておけばよいのです」
「なんだと!」
父はこれでもかと目を見開いた。
額には青筋が立つほどである。
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