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奈津が桐ヶ崎邸に戻ると、何やらざわついて異様な雰囲気になっていた。使用人たちは慌ただしくしており、どうしたのだろうと首を傾げる。やがて奈津の姿に気づいた者が慌てて駆け寄ってきた。
「ああ、奥方様、大変でございます」
「どうしたの?」
「それが……。旦那様が何者かに襲われて負傷されたようなのです」
「え……」
事態を飲み込むのにたっぷり数十秒はかかった。持っていた鞄が自然と手から滑り落ちる。
「……な、成臣さんは?」
声が震えた。急に嫌な予感がふつふつとわいてきて、自分の体からまるで波が引くように血の気がサーッと引いていくのがわかる。
一体どういうことなのだろう? 襲われたとは? 負傷したとは? 無事なのかどうかすらわからない。
「まだ詳細はわかっておりません。先ほど一報が入ったのみでございます」
使用人たちも少ない情報に翻弄され、右往左往としていた。この状況で他の誰かに事情を聞いても埒があかないのは目に見えている。
奈津はカタカタと震え出す自分の手を、もう片方の手でぎゅっと握った。
「どうしましょう、奥方様」
使用人たちは慌ただしくしながらも、奈津の指示を待っている。
そうだ、自分は成臣の妻なのだ。この家で今指示を出せるのは他でもない自分なのだと、奈津は身震いした。それはまるで武者震いのようでもあった。
どうしようと考える前に、奈津は声を上げていた。
凛と透き通る声ではっきりと。
「今すぐ私も神戸に向かいます」
「ですが……」
「一人でも行くわ。準備をしてちょうだい!」
奈津の剣幕に、あたふたしていた使用人たちも我に返る。
「はい、承知致しました」
成臣の安否はわからない。何も情報がない。けれど奈津はじっと家で待っていることなど考えられなかった。一刻も早く成臣の元へ行きたい。何があったのか知りたい。どうかどうか、無事でいてほしい。
成臣の笑顔を思い出すと鼻の奥がツンとしてくる。「奈津」と優しく呼びかけてくれることも今はもうずいぶん遠いことのようにすら思えて胸がきゅっと締めつけられた。
奈津は込み上げてくるものを必死にごまかして、急いで出かける支度をする。つい先刻授かった夫婦守りだけは巾着袋にしっかりと忍ばせた。
(神様、どうかどうか成臣さんをお守りください)
ああ、自分はなんて無力なのだろう、祈ることしかできない。だからこそ精一杯の祈りを、奈津は心の中で唱える。そうやって、自分の気持ちも無理やり落ち着かせていった。
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