4.仮初めを卒業したく

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*** 神戸の宿場町に降り立った奈津は、療養施設である宿坊を訪れていた。成臣の安否の情報は少なかったが、どうやら怪我をした成臣が運ばれたのがこの宿坊だというのだ。 繁華街から少し離れた静かな宿場町。柔らかな風がほのかに潮の匂いを運んでくる。海が近いこの街で成臣は何を見て何を感じたのだろうか。 宿場町には旅籠だけでなく茶屋や商店も軒を連ねる。普段ならきっとわくわくしたに違いない風景や景色も、今の奈津にはすべて無機質なものに見えた。 早く、早く成臣に会いたい。 高まる緊張は足を速めるが、何度ももつれて転びそうになった。 長く続く宿場町の中で、『玉川屋』と書いた提灯が掲げられている旅籠の前で、奈津は足を止める。ここに成臣がいるのだ。 奈津は一度大きく深呼吸する。ドキンドキンと心臓が口から飛び出しそうなくらい高まる緊張の中、大きく開けられた入口に足を踏み入れた。 「ごめんください」 奥に向かって声をかければ「はーい」と返事がある。やがて年配の女性が一人、上がり端へ出てきた。 「あ、あの、ここに桐ヶ崎がいると聞いて来たのですが」 「はい、どちら様でしょう?」 「私は桐ヶ崎の妻の奈津と申します」 自分の口から"妻"を名乗ることは初めてだ。とてもとても緊張した。得も言われぬ感情が体を駆け抜けていく。 そうだ、自分は成臣の妻なのだと、改めて実感した。 「あらぁ、可愛らしいお方ですね。ご案内しましょうね」 優しい雰囲気の女将さんは奈津を二階へ案内した。女将さんについて階段を一段一段踏みしめる。成臣との距離がどんどん近づいていくことに、奈津は緊張して身を固くした。心臓が痛い。息が詰まる。 「こちらですよ」 「はい、ありがとうございます」 ここに成臣がいる。奈津ははやる気持ちを抑えようと小さく深呼吸してから、襖越しに声をかけた。 「……成臣さん」 しばらくの沈黙の後、「奈津?」と声がする。 その一言だけで奈津は胸がいっぱいになった。まだ成臣の姿は見ていない。ただの襖越しだというのに、成臣の落ち着いて優しい声は奈津の心をあたたかく包んでくれるようだ。 「どうした? 入らないのか?」 「……今、行きます」 込み上げてくるものを抑えながら、奈津はゆっくりと襖を開けた。 その目に飛び込んできたのは奈津の知っている洋服を着た成臣ではなく、ゆったりとした寝巻をまとった成臣だった。布団の上にいるものの、上半身を起こしている。 「……成臣さん」 「奈津、わざわざ来てくれたのか」 「……はい」 「長旅だっただろう。疲れてはいないか?」 「……はい」 「どうした? こっちにこないのか?」 廊下に立ち尽くす奈津に、成臣はこちらに来いと自分の横をトントンと指す。畳張りの部屋は桐ヶ崎邸とは違い、歩くたびにギシギシと小さな音を立てた。和布団を敷いた上に上半身を起こした状態の成臣に近づくにつれ、奈津の胸はドキンドキンと鼓動を増し、さらに締め付けられていく。 待ちわびた成臣がここにいる。 その事実がなによりも嬉しい。 「ここに座りなさい」 言われた通り成臣の横にストンと座ると、成臣と視線が絡み合う。いたたまれない気持ちに奈津は不自然に目をそらした。 「……あの、お体は?」 「うん、大したことはないよ。心配をかけてすまなかったね」 「……いえ」 「アヘンの闇取引きに巻き込まれて負傷しまってね。ああ、俺の身の潔白は証明されているから安心しなさい。すぐに帰ろうとも思ったのだが、ここで療養しろと医者に言われてしまったんだ」 「……そう、ですか」 「おかげでせっかくの商談がなくなってしまったよ」 「……はい」 「奈津?」 「……はい」 「泣いているのかい?」 「……っ」 じわりと滲んだ目頭を目ざとく見つけられ、奈津は瞳を揺らす。キラリと弧を描いてこぼれ落ちそうになった涙を、成臣はそっと指で掬った。 「成臣、さ……ん」 「奈津」 「うっ……ううっ……」 成臣に触れられたのはいつぶりだろうか。ほんのわずかに指が触れただけだというのに、そこから熱を帯びていくように奈津の体の血が巡り出す。ずっと冷え切っていた体がぽかぽかとあたたかくなっていくようだ。
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