4.仮初めを卒業したく

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「奈津は以前に俺と会ったことを覚えてはいないかい?」 「以前、ですか……?」 成臣と初めて会ったのは、父から結婚相手だと告げられたあの日だ。それ以前に会った記憶はない。奈津は首を傾げる。 「出資の話は一度は断ったんだ。だけど一回でいいから研究を見てほしいと頼まれてね、平田家にお邪魔したことがあるんだよ。父上の書斎に案内されたときに、部屋の隅で奈津が真剣に本を読んでいた」 「えっ、じゃあその時にお目にかかっていたということですか?」 「そうなんだけど、奈津は俺のことは見えていなかったかもしれないね。本に夢中だったし、すぐに父上に追い出されてしまっていたし」 成臣はその時のことを思い出してくすりと微笑む。 「しかも勝手に父上の書斎に入って怒られていただろう?」 「た、確かに、よく父の書斎に忍び込んではいろいろな書物を読んでいました。でもそれを成臣さんに見られていただなんて」 女学生が研究資料を読むなんて珍しい。気になった成臣は父にあれは娘さんなのかと尋ねた。勉強ばかりして結婚もしない困った娘なのだと父は眉根を寄せたが、成臣は逆に興味を持った。 成臣こそずっと見合いの話を断っていたのだ。青年実業家として名を馳せ財を築いていた成臣には、ありがたいことにどこかの令嬢ばかりが名を連ねた。だがそこには損得勘定が見え隠れし、それに振り回されるのは本意ではないと思っていた。 その時出会った奈津は、今まで成臣が出会った女性とはまったく違って勉強一筋。なにより書物を目で追う真剣な姿が成臣の脳裏に焼きついて離れない。 「正直、父上の研究にそれほど魅力を感じたわけじゃない。だけど真剣さは伝わってきた。こちらも商人なんでね、ほいほいと出資するわけにはいかないんだ。だから奈津と結婚させてくれるなら出資しようと持ちかけた」 「それは成臣さんに何の得があるのですか……?」 「今思えば一目ぼれだったのかもしれないね」 「ひ、ひとめ、ぼれ?」 カアアッと体の奥から熱くなる。 言葉すら交わしていない相手のことをそんな風に思うだろうか。 「で、でも、成臣さん仮初めだって……」 「うーん、だって奈津の態度があれだったし」 「えっ、私のせいですか?」 「それに、そう言わないと結婚をしてくれなかっただろう?」 少し意地悪そうに、成臣は眉を下げる。奈津のことなら何でもお見通しだと言わんばかりで、奈津は大人げなく頬を膨らませた。 「そうかもですが、そんな賭け事みたいに」 「商売は賭け事だ。俺は手に入れたいと思った物は何としても手に入れたい主義でね」 「私は物ではありませんよ」 「それはそうだな」 成臣は穏やかに笑う。 つられて奈津もクスクスと笑った。
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