2.仮初めの結婚

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*** 桐ヶ崎成臣は二十八歳。財閥の御曹司であり今は実業家として名を馳せている。若くして欧州に留学しており、その経験と知識を生かして商社を起こし貿易業でも富と名声を上げた。その界隈では有名人だ。自宅には国内外の賓客をもてなすために専用のホールまで作ったというから驚きだ。 奈津は桐ヶ崎邸を前にして開いた口が塞がらないでいた。奈津の家も旧家でそれなりに裕福な暮らしをしていたが、文明開化で西洋文化が浸透してきた今も父親は新しいものを取り入れようとはせず、西洋文化は奈津に取って憧れでしかなかった。人や新聞から見聞きした情報しか持ち合わせていない。 それが、今、奈津の目の前にあるのだ。 胸が躍らずにいられようか。 大きな門をくぐれば綺麗に整えられた庭が玄関まで続き、さらに大きく開かれた玄関を入ると客をもてなすためのホールがある。 「す、すごい」 感嘆のため息しか出てこない。奈津の語彙力などどこかへ吹き飛んでしまったかのようだ。 「一階は客間と使用人の部屋でございます。奥方様のお部屋は二階になります」 使用人に連れられて二階に上がると、大きな窓からは光りが燦々と降り注ぎ、行く手を明るく照らした。まっすぐな廊下に、いくつかの扉。奈津の暮らしてきた環境とはまるで違う。 「こちらが主寝室になります」 案内された部屋に入ると見たこともない大きなベッドがひとつ。畳張りに布団を敷いて寝ていた奈津にとって、桐ヶ崎邸は見るものすべてが異国に思える。 「主寝室ってことは、もしかしてここに桐ヶ崎様も?」 奈津の呟きに使用人は怪訝な顔をし、慌てて奈津は「なんでもないです」と口をつぐんだ。 仮初めの結婚だというのは二人だけの秘密なのだ。使用人にも知られるわけにはいかない。 ーーまがりなりにも夫婦だ。自由にやってくれて構わないが、社交場ではそれなりに振る舞ってもらおう。 自由に勉強をしこれまで通り女学校へ通う。さらに師範学校に進学することも許可してくれた成臣だったが、最後にそう付け加えた。奈津は自由勉学を許される代わりに、表向きは夫婦を演じなくてはならないのだ。抵抗はあるけれど、そこは致し方ないといえようか。
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