第一部:恋の終わりは

2/53
前へ
/54ページ
次へ
 「大学生活はいかがですか?K大の理工 学部に通われていると伺っていますが」  「はい。化学科に在籍しております。 来年は交換留学を予定しているので、いま は英語の中でもSpeakingのスキルアップ に力を入れているんです」  「交換留学ですか。それは期待に胸が 膨らみますね。留学はどちらの方に?」  彼と父の顔を交互に見ながら、悠然と そう語った紫月に、答える一久の物腰も 柔らかだった。  「クィーン・カレッジ・ロンドン大学 ですよ。向こうで触媒開発の研究をするん だとか。海外へ出て世界のレベルを知るの は良いことですが、父親の身としては一年 も娘と離れなければならないのが、寂しく て仕方ない」  顎を擦りながら、けれど、誇らしげに そう答えた父に一久は目を細める。その笑 みに、また、紫月の鼓動はとくりと鳴った が、もっと彼と言葉を交わしたい思ってい た紫月の願いは叶わなかった。  社員らしき男性が一久の背後から近づき、 何やら言託けている。彼はさりげなくその 声に耳を傾け、小さく頷いた。  「どうやら……係りの者が私を探してい るようです。私はこれで失礼しますが、 どうぞゆっくり楽しんでいってください」  目を瞠るほどの美しい傾斜角で一礼し、 爽やかな余韻をその場に残して一久が去っ てゆく。紫月は、彼の背中を恍惚とした 眼差しで見やりながら、ほぅ、と細く息を 吐いた。  「実に聡明な青年だ。榊幸四郎氏が養子 に迎えたくなる気持ちもわかる」  手にしていたワインを煽るように飲みな がら、唸るようにそう言った父に頷く。  そう。榊一久は、元々は榊幸四郎の義甥 だったのだ。高校生の時に母親を亡くし、 子供のなかった伯母夫婦が養子に迎えたと 聞いている。紫月はすでに遠くなった背中 を眺めたままで、呟いた。  「お父様。私、いつかあの人の隣に立ち たいわ」  その言葉に父は一瞬、驚いたような顔を して見せたが、すぐに複雑そうに眉を寄せる。  「いや、彼自身は申し分のない男だがな、 その、サカキの経営状態を考えるとだな……」  最後の方は、聞こえるか聞こえないかとい うほどの、小さな声だった。その声に、ええ、 わかっています、と頷き、傍らの父に微笑を 向ける。いまはまだ、ただの願望に過ぎない。  けれど数年後、一人の女性として成長した 自分が、彼の隣に立つことを許されるなら。 ーー安永の権力と財力。  その二つを借りることになっても、この恋 を成就させたかった。  それから、約5年。  一年の留学期間を終え、無事に大学を卒業 した紫月は、財閥系列の大手化学企業に就職 し、研究職に就いた。  父に一久との縁談を持ち掛けて欲しいと 頼んだのは、社会人として二年目を迎え、 女性としても成長できたと思えた時だった。
/54ページ

最初のコメントを投稿しよう!

108人が本棚に入れています
本棚に追加