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「……せっかくだから」
と、ホテルに残ることを彼に告げたの
は、これ以上一緒にいるのが辛かったか
らで……決してこんな風に、ひとりこの
部屋に泊まりたいからではなかった。
なのに、
「せめて宿泊費だけでも」
そう言いながら、手際よくフロントで
支払いを済ませる彼の姿はやはりスマー
トで、どんなに傷ついても嫌いになれそ
うに、ない。
ロビーを去ってゆく彼の背中を見送り
ながら、そう思った紫月の胸は息ができ
ないほどに苦しく、いま髪を解いたこと
で、やっと少し呼吸が楽になった気が
した。
紫月はガラス窓に手を伸ばした。
ひんやりと、硬く冷たい感触が伝わっ
てくる。煌びやかな夜景が、窓の向こう
に広がっている。その景色の中に映り込
む自分は、たったいま、恋を失くした
ばかりだというのに、涙を流してはいな
かった。
ーー自嘲に似た笑みが零れる。
気付かぬフリを、することもできた。
彼の気持ちに気付かぬフリをして、
そのまま、縛り付けてしまうことも、
自由を奪ってしまうことも、容易に
できた。
けれど、心のない人形のような彼を
手に入れたところで、幸せになれる筈
もない。
ーー幸せになれないなら、要らない。
そう思ってしまった自分は、おそらく、
プライドが高いのだろう。
だから、涙のひとつも流せない。
5年も好きだった人を失ったという
のに、泣いてしまえば自分の中の何か
が崩れてしまう気がする。紫月は細く、
長く息を吐き、呟いた。
「……たった3回、か」
婚約者として彼に会えたのは、たった
3回。そして今日はその3回目で、きっと
彼に会うことは二度とない。
紫月は僅かに笑みを深め、また、
息を吐いた。
ーー忘れてしまおう。
熱いシャワーでも浴びて、美味しいシャ
ンパンでも飲んで、そうして、ふかふかの
ベッドで心ゆくまで眠って、忘れてしま
おう。
そう思い至った紫月は、くるりと窓に
背を向け、バスルームへと向かった。
その足が、ぴたりと止まる。
デイベッド型のソファの横を歩き、
広い広い部屋の入り口付近に立った紫月
は、足元に一枚の紙切れが落ちているこ
とに気付いた。
何だろう?
さっき、部屋に入った時にはなかった
ものだ。
そう思いながら紙切れを拾った紫月は、
二つに折り畳まれたそれを開き、目を見
開いた。
そこには、英文が綴られていた。
The end of love, that it leave from
his.
(恋の終わりは、自分から立ち去ること)
ボールペンで走り書きのように記された
それは、確かフランスのデザイナー、
ココ・シャネルの名言だ。
「……どうしてこんな物が?」
紫月は不思議に思い、その紙を手にした
ままそっと部屋のドアを開けた。
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