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【序】
蓮の花も満面に咲んでしまう、まばゆい望月夜であった。
白光をあびる水辺の高殿で、朱塗りの欄干に腰かけた影がひとつ。
網代笠をまぶかにかぶり、ふちから帳のようにおりた白い妙の布が、音もなく風になびいている。
ひとたび重心を間違え落下しようものなら無事ではすまない蓮池を目下にしつつも、影の主はしゃんと背を伸ばして、あかるい夜のなかにあった。
後生大事に、ひと張りの琵琶をかかえて。
白漆の一面には、翠い梅花の螺鈿細工がほどこされている。
雪のごとく儚い指が、銀色に月光を反射する弦を爪弾く。
水面に波紋をひろげるような、しめやかな音律。
「魔教の者だな」
ふいに、低い不協和音が背後にせまる。
右の頚動脈に押しあてられた無慈悲な感触は、硬い硬い鋼のものだ。
されど琵琶の音はやまない。我関せず、と。
これに、髭をたくわえた壮年の男は、つばを散らし憤慨した。
「貴様! 楽人のくせをしてその耳は飾りか! 醜音弾きごときが!」
いかに怒号が轟こうと、なにが変わるわけでもない。
池をかこむ枝葉は沈黙し、風は乱れない。水面の月影さえも。
ただ月と夜と琵琶の音だけが、凛然と存在する。
「よいか、俺が魔教だといったら魔教なのだ。来い、正派にあだなす邪教のやからを罰してやる!」
つと、白雪の指が弦上にとめ置かれる。
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