誕生日症候群

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           ・・・ 「ありがとうございます、先生。あの子の変わった症状を見抜いてくれて……」  雑多に物が置いてある小部屋で、女性が深々と礼をした。なかなか頭を上げようとしない。対面して椅子に座っている眼鏡の初老男性はふっと微笑んだ。 「いえいえ。それで、どうですか、首尾の方は」 「うまくいっています。昔から誕生日ははしゃぐなぁと思っていたのですが、本当に気分がハイになって、周りが見えなくなる症状になっていて、いつもの自分を捨てることができていたんですね。恥ずかしながら、気づいていませんでした……」 「今はもう知ったのですから、恥じることはありませんよ」  男性は優しく微笑み、眼鏡をくいっとかけ直した。周りに髭が生えている口が柔らかく動く。 「この症候群になるくらいですから、今までも誕生日をかなり祝ってあげていたんですね。愛を感じます」 「ええ、それはもう」と女性は得意そうに胸を張った。  机の上に、左上がクリップで留められた一組の紙が置いてあった。印字された文字が写っている。そこに書かれていたのは、以下の通りだった。 『誕生日症候群』――誕生日のときだけテンションが著しくハイになり、常識的に物事が考えられなくなる。その日だけ自分が特別だと信じ、普段の自分の考えなどから逸脱できる。  女性は一息ついた後、ふうっと息を吐きだした。表情を真剣なものに変え、「先生」と男性に声をかける。 「訊きたいんですけど、確かにあの子は奇妙な症状を持っていて、世論では『頭がおかしい』なんて言われてますが、そんなに後ろ指さして笑われなきゃいけないんでしょうか。あの子をいじめる人の方が、頭がおかしい、そう思いませんか」 「同感です。学校側からの対策とかはないんですか」  初老男性は訊いたが、その言葉の途中で女性は小刻みに首を振った。膝の上の拳がぎゅっと握りしめられる。 「あったらこんなに苦労していません。いじめている同級生たちは、器用に隠しているみたいですから。私だって知ったのはあの子の日記を盗み見しちゃったからですもん、あの子自身も自分から言おうとしない。私が学校にどんだけ訴えても、学校側はあり得ないの一点張り。尽くせる手は尽くしました。けど、無理なんです。私みたいなちっぽけな存在が、どうこうできる相手ではありませんでした」  早口で、怒涛の言葉列だった。感情の向くままに口を動かしたのだろう。女性はしゃべり終えた後、軽く口元を押さえたが、言いすぎたと思っているようには見えなかった。 「腐ってますね」  初老男性は同意を示す。それでさらにヒートアップしたのか、女性は口元にやっていた手を元に戻すと、さらに口を動かし続けた。 「本当に。あの子は真面目だから、成績にかかわるし学校には行くと言い張って、私が止めても聞きません。自分で決めた『進まなければならないレール』みたいなものがあるらしく。休んでほしいのに……。極端なんです、あの子。学校に行くか、死ぬか、みたいな。だから、今回の誕生日症候群を利用するのはよかったです。かなり無理やりだったのに、休むことにすぐ納得してくれたので」  その言葉に、初老男性は腕を組んで頷いた。「一年を待たず、毎日を誕生日だと偽っていくのはいい作戦でしたね」と言うと、彼は女性を褒めるように目尻を下げた。すると女性は前のめりになりながら口を開く。 「先生、これからどうすればいいんでしょうか。このまま、毎日あの子の誕生日を迎えさせてもいいんですか。いくら症候群のお陰で常識的に物事を考えられなくなっているとはいえ、限界が来ませんか」  男性は返答として「住む環境を変えるのは一つの手です」と人差し指を一本立てた。そして「まああなたが、逃げることを良しとしないのなら話は別ですが」と苦笑いした。 「いいえ」  全てを貫き通すような、芯の太い声が部屋中に響いた。女性はすくっと立ち上がった。 「向こうが変わってくれない以上、こちらが逃げるしかないでしょう。私はもともと逃げることが悪いことなんて思ってませんし」  女性の瞳が、部屋の安っぽい白色蛍光灯を反射してギラリと光った。決意と覚悟に満ち溢れた瞳だった。 「私はあの子のためなら何でもやります。あの子を守るためなら、たとえあの子を利用してでも」            ・・・  鳥もまださえずっていない時間帯。慣れた手つきでスポンジを焼き、生クリームを泡立て、うまくデコレーションをする。毎日やっていればこんな作業、短時間にして完璧にできる。  女性はテレビ横の日めくりカレンダーをちらりと見た。曜日部分が黒いペンで塗りつぶされている。そうしないと、カレンダーの曜日と実際の曜日がおかしなことになってしまうからだ。女性はもう何日も、カレンダーをめくっていない。  ガチャリとリビングの扉が開く音がする。女性は、スリッパの足音を軽快に立てながら、愛しい息子が立っている扉付近の方に向かって歩いていった。 「誕生日おめでとう、ツトム! プレゼントはね、新しい家だよ! 遠いところに買ってあって、引っ越しするから、……」 〈完〉
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