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「伊勢君、契約の時にいってたじゃないですか」
隣で人好きのする笑みを浮かべている気配がする。ともすると鋭く見られがちな瞳が緩やかに解ける瞬間がある、と知ったのは最近だ。噂だけでは知りえない彼を見つけてしまうたびに、積もりかける何かを無視しなければならなかった。
あの日からもうそろそろ二か月が経つ。周りからのいらない気づかいもあってかなりの時間を一緒に過ごしてきて、伊勢真偲という人物がいかに猫かぶりで、見栄っ張りで、まっすぐな人間なのかがわかってしまった。本当はおしゃべりが苦手なことも、本当は無表情がデフォルメなことも、そのくせ人一倍周りに気を遣っていることも。凝り固まっていた心が動き始めていることに気がついてしまった。
だからこそ、きちんと線を引くようなことを、あえて口にする。
「これはあくまでも契約で、win-winの関係なんだって」
単なる利害の一致なのだと、あなたなどに私が動じることはないのだと、口にするたびに心が軋む。
それでも、これ以上私のせいで人が苦しむのを見たくはなかった。
実際に話してみるまでは、彼について知っていることなどほぼないに等しかった。お家がこの地区の大きな神社だということ。理系で隣のクラス、背は高い、人気も高い。弓道部。
みんなが知っていることをなんとなく知っていて、きっと関わることはないだろうと。
「ごめんね、芽蕗さん」
屋上に上がる階段の一つ手前、ほんの少し暗い踊場で私たちは向かい合っていた。僕のことわかる?と、どう考えても告白なんかではない空気感に、私も余所行きの顔を張り付けたままで応える。
「有名人だし、名前くらいは」
お昼休みの廊下は、授業の合間の休み時間よりほんの少し騒がしい。足の裏を伝って、がやがやとしたざわめきが体を抜ける。
私の受け答えを見て何を思ったのか、空気が少し張った気がした。ゆるりと動く伊勢君の口元を見つめる。空気がざわめくのを感じて、スカートのプリーツをぎゅっと握りこんだ。
「まどろっこしいのは苦手だからストレートに聞いちゃうけど」
ワントーン下がった声に肩が震える。
「芽蕗さん、“神力持ち”でしょう」
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