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「おかえりなさい、ことの。」
『ただいまです、真偲くん』
あのメッセージの通り、早々に潰されてしまった藍佳を放置し、帆乃実を集中砲火したのちに解散したのはちょうど九時半。いつも二次会を進める藍佳がもう使い物にならないこともあって、そのままお開きになった。どうやら独り身組は「中てられたから飲み直す」らしい。
藍佳を迎えに来た彼氏さんに託し、車を見送っていると後ろから声をかけられた。振り返るといつも通りの、表情の読めない微笑みが浮かんでいた。また余所行きの顔して、としかめっ面をするとゆるりと氷が融解するように解ける。この瞬間、真偲くんが私の本当の意味での特別になったように思えて、嬉しくて、苦しくなることに彼は気がついているだろうか。
二人並んで、なんとなく歩き出しながらふと空を見上げる。月は陰って雨も降りだしそうなくらいで、そういえば夜中は雨予報だっけ、と靄のかかる頭を探る。濡れずに帰れるだろうか。
そのまま視線を左に逸らす。ヒールを履いてもなお届かない、真偲くんの髪が月明かりを受けて煌めいていた。
「ことの、前見て」
視線に気がついたらしい彼がこちらをみて苦笑する。そっと取られた左腕の、その重みが少し苦しい。
どうしてこんな好物件が私の彼氏というポジションに収まったままなのか。切れ長の瞳はわずかに藍を帯びているような深い夜を思わせて、一度も染めたことがない髪も同じような藍を帯びてさらさらと揺れるさまはとても綺麗だ。身長だって、女性平均ど真ん中の私がヒールを履いても、見上げてるなぁと感じるくらいには高いし、就職もかなりいいところだし。
彼をとらえた肝心の“声”がないのだから、もう解放してあげたいと思い始めて何年も経つ。
「今の琴吹さんの彼氏さん?」
『そう。会ったことなかった?』
「一回だけ、桂さん、であってるかな」
真偲くんは記憶力がいい。そもそも頭の出来が違うのだと思う。あってるよ、と頷くと満足そうに笑って、掴んでいた腕が下りてするりと手を掬った。ひんやりとした自分ではない体温に包まれる。
さりげなく左手を握ってくれるところも、いつの間にか取られたかばんも、迎えに来るときは絶対に車を出さないところも、全部好きだ。駅までの数分を雑踏に紛れて歩く。
もともと真偲くんも私も、そこまで口数が多くない。それでもこの駅までの距離で無言でいるのはなかなかしんどいものがあるのでは、と、来るにしても駅にお迎えでいいのに、と、思っているのに真偲くんの好意に甘え続けてしまっている。いつになったらやめられるのか、長い長い光のトンネルの中に潜ってしまっていて、出口どころか進む方向もわからないまま、ぼんやりとした温もりに身を委ねている。
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