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 汗に湿った前髪をかき上げて起き上がった月人は窓を開ける。  海辺の温泉街特有の、潮の香りとどこか甘臭い硫黄の香りとが入り混じった空気が流れ込んでくる。  観光客にとっては非日常を感じられて旅気分を満足させるものかもしれないけれど、産まれたときからこの町で育った月人にとってみれば、息苦しさを増長させるものでしかない。  ただ重苦しくて、逃げ出せない。小さな瓶に閉じ込められたような、そんな気がいつもする。  殺したいほど憎んでいる人、俺にはいるんだ。  ふっと耳の傍に蘇った声に、月人はどきりとする。額を拭ってから、そろそろと机の上のスマホを手に取った。  ぎこちなく画面を操作して、月人は迷う。  表示されているのは十一桁の電話番号。火野朔夜の電話番号だ。  あの日、図書館で人生初のナンパが成功した後、月人は朔夜とコーヒーを飲んだ。と言っても、思ったより会話は盛り上がらなかった。それはまあそうだろうとは思う。もともと話下手な自分と、どろどろのサスペンス小説を書くかなり年上の小説家の二人で、一体どんな話をすればいいものなのか、月人にはさっぱりわからなかったのだから。あなたの考えていることを知りたいなんて言ったところで、やはり初対面は初対面なのだ。当然朔夜もその時間を居心地悪く思っていたはずなのに、なぜか彼は去り際に電話番号を教えてくれた。またね、と笑って。  面と向かっていたときはなにを話していいのかさっぱりわからなかったのに、彼に手を振られたとたん、なんだかもっと話がしたくなってしまった。  そのどうしようもないほどの焦燥感は三日経った今も続いていて、あんな夢を見たせいだろうか、彼の声が聞きたいというその思いはおかしいほどに膨れ上がっていた。  少し指がさまよった。けれど気がついたら発信ボタンを押していた。 『はい』  コール二回で電話が繋がり、月人は言葉をなくす。 『もしもし?』  不思議そうに呼びかけてくる声を聞いて、月人は必死に平静さを取り戻そうと息を吸う。 「あの」 『ああ』  たった一言を発しただけなのに、聞こえてきた声に温度が含まれる。 『この間はありがとう』  こちらが誰かわかり切っているかのような言い方に、月人は驚いた。 「俺が誰かわかってます?」 『鳥海月人くん』  フルネームで呼ばれ、月人は今度こそ仰天した。 「なんでわかったんですか。俺、まだ連絡先伝えてないのに」 『だって』  電話の向こうで彼がかすかに笑うのがわかった。 『ちょっと待ってたから。君からかかってくるの』 「……は……」  なにを言うんだ、この人。  スマホを取り落としそうになり、月人は抗議した。 「からかわないでもらえますか」 『君さ』  聞こえてくる彼の声に笑みが含まれる。 『なんのためにかけてきたの?』 「それは」  直前まで見ていた夢の中で夕日の中で笑った風花の顔が過り、月人は首を振ってその残像を追い払う。 「話が、したかったから」 『うん』  電話の向こうから短い返事が返ってくる。そのまま彼は沈黙する。妙な間だったけれど不思議と気詰まりではなかった。 『俺も話してみたかった』  ややあって聞こえてきた声に、月人はわけもなくどきりとした。やっぱりなにも言えなくて黙ったままの月人に、彼はさらりと言った。 『土曜日、ごはん食べませんか?』  ふうっと息を吸って、月人は返事をした。躊躇いはなかった。 「はい」 『よかった』  ほっとしたように言い、じゃあ十一時に図書館で、と告げて彼は電話を切った。  通話の終わったスマホを耳から離し、月人は会話を反芻する。  この間初めて会ったばかりの人なのに、こんなに会いたいと思うなんておかしいだろうか。  カレンダーに目を走らせ、土曜日を確認する。あと四日もある。  一週間長いな、とごちて、月人はふと気づく。  なにかを心待ちにしたことなんていつ以来だろうかと。
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