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 顏は見えなかった。でも声だけですぐにわかった。  靴を履くのももどかしく、入口に顔を出すのと、駐車場に停めた軽自動車の鍵をかけたその人が振り向くのは同時だった。  海風がざわざわと雑木林を揺らし、色あせたのぼりがばさばさと音を立てる。その中で、彼は信じられないものを見るかのようにこちらを見ていた。  黒いのに透明度が高い、驚くほど澄んだ目で。  背筋を伸ばした綺麗な姿勢。細い首。夕日に照らされた白い頬。    間違いなかった。 「さ……」  口を開きかけたとき、唐突に彼は会釈した。きっちりと美しい姿勢で。 「鈴木と申します。初めまして」 「は?」  ぽかんとした月人に、彼はにっこりと美しく微笑んで言った。 「どこかでお会いしましたでしょうか? すみません、覚えがなくて」 「なに……なに言ってんの……」  やっとのことでそう言い、月人は彼の傍に駆け寄った。 「朔夜じゃん、どこからどう見ても。なんでそんな嘘……」 「すみませんが。本当に覚えがなくて。お間違えじゃないですか」  慇懃に呟き、彼はかけたばかりの車の鍵を解除する。 「申し訳ありません。急ぎますので、これで」 「ちょっと!」  慌てて彼の腕を掴む。その手を振りほどこうと暴れる彼に月人が声を荒げようとしたとき、店のほうから少年の声が響いた。 「さくやせんせー、送ってくれてありがとぉー」  がくっと彼の腕から力が抜ける。車の屋根にすがった彼に、月人は恐る恐る声をかけた。 「朔夜、だろ」  細い肩は返事をしない。なあ、と呼びかけると、彼はやっと声を発した。 「なんでこんなとこにいるの」  声は硬い。こちらを向こうともしない。月人は言葉をいろいろ探したが、結局、言えることなんてそんなにたくさんはなかった。 「朔夜を探しに」 「なんのために」  後ろを向いたまま、朔夜はくっと肩を震わせる。 「文句を言いに? それとも復讐? もう七年経ってるんだ。勘弁してよ」 「質問ばっかりだけど……聞きたいのは俺のほうなんだ」  静かにそう言うと、やっと彼は振り向いた。険しい顏をしている。 「なに」 「なんで、あんたそんなに嘘つきなの?」  大きな目が見開かれる。月人はふうっと大きく息をついてから言った。 「大体、鈴木ってなに。塾の教師が偽名ってまずくない?」 「ちょっと」  朔夜がぎょっとした顔をする。彼はそこでようやく、店のほうから興味深そうにこちらを見ている少年と老女の存在を思い出したらしく、彼らに頭を下げた。 「すみません、じゃあ、今日はこれで」  言いながらドアを開ける。おい、と言いかけた月人を鋭く一瞥して、彼は無造作に顎をしゃくった。 「乗って」
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