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「これ?」  きょとんとした彼の手からガラスの器を取って、月人はそれを手近のテーブルに置く。月人?と不思議そうに呼ぶ彼の腕を引くと、予想していなかったのか、細い肩が月人の胸に抵抗なく落ちてきた。  ぎゅっと腕を回して抱きしめると、胸の辺りで彼が囁くのが聞こえた。 「もしかして……今俺はピンチなのかな」 「ピンチって?」 「襲いかかられそうになってるとか」  囁く声が胸を震わせる。月人は赤面して彼を咎めた。 「だから……警戒しろと言ったのに」 「だってまさか……そんなの思わないし」 「どうして」  月人は彼を抱きしめたまま、声を荒げた。 「ナンパだって言ったじゃないですか。最初に」 「うん、言ってた」 「それでも応じたのは火野さんのほうだ」 「君、見た目通りじゃないね。案外狡猾だ」  くすっと彼が笑う。大人の余裕のようなものが滲む声に、月人は苛立ち、口を開きかけたけれど文句は言葉にならなかった。 月人の胸を軽く押して隙間を得た彼が手を伸ばす。細い腕がするりと月人の首に回され、引き寄せられる。火野さん、そう言いかけた月人の言葉を封じたのは朔夜だった。  なにが起きたのかしばらく理解できなかった。朦朧とした頭でただ見ていた。  真っ黒く、潤んだ彼の瞳を。 「正直に言う」  月人の唇から唇を離して彼は微笑んでみせた。それはいつものあっけらかんとした笑みではなかった。もっと妖艶な、ぞっとするほどの色気のある微笑だった。 「今日うちに呼んだのは、少し下心があった」 「したごころ……」  朦朧と呟くと、朔夜は細い腕をそっと月人の首から解き長い睫毛を伏せる。 「キスしたいって思った」 「どうして」  呟いた月人に、朔夜は迷うように睫毛の下で視線をさまよわた。 「そういうの、理由必要かな」 「だって、あんた、さんざん俺のこと子供扱いして。襲いかかるかもって言ったら馬鹿笑いしたじゃないか」 「君のほうこそ、俺をからかってると思ってた」  ぼそりと言い返され、月人は、え、と目を上げる。だって、と彼はふいっと横を向く。 「ナンパなんて十二も年下の男の子がしてくるはずないし、きっとからかってるんだろうなって」 「からかってなんていない」  憤然と言い返すと、朔夜はゆっくりとこちらに顔を向け、微笑んだ。なぜだろう、少し悲しそうに見える微笑に息を呑んだとき、 「そうだろうね。今、キスして……そう思った」  さらりと彼はそう言った。その言葉に月人は言いようのない怒りが湧きあがるのを感じた。彼はようするに試したのだ。月人の本心を。 あんまりだ。 唇を引き結び、月人は背中を向けた。  台所を出ようと歩を踏み出したけれど、背後から唐突に抱きしめられて月人は動きを止めた。 「ごめん。試して……。でも、キスしたかったのは、本当。触れてみたかった。君に」  背中から声が響く。振りほどくこともできるはずなのに、月人はそうしなかった。いや、できなかった。腕が、体が動かなかった。ただ胸の鼓動だけが大きく響いて、振りほどこうとする力を奪っていく。その場に縫いとめられたように立ち尽くす月人に、彼は謝罪を重ねた。 「試して、ごめん」
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