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 鼓動がうるさい。ただ近づくそれだけで足元が揺れる。ふわふわと頼りなく揺れる足を踏みしめて彼の前に立った月人は小さく息を吸い込み、そして声と共に吐き出した。  普段の自分なら決してしないのに。 「あの」  声をかけると、本に向かっていた顏をゆっくりと上げて彼は月人を見た。  大きな目が確かめるように一度瞬きをする。 「なにか?」  首を傾げた彼は月人のことを見覚えてはいないようだった。  月人は軽く呼吸を整えてから口にした。これまでの人生で一回も使ったことのない、いわゆる誘い文句を。 「よかったら、お茶でも飲みませんか」 「なぜ?」  不思議そうにこちらを見る彼に、月人はいまさらながら顔が熱くなるのを感じ、自分で自分の言葉にのたうち回りたくなった。同性に使う台詞でもない。だが、他に適切な言葉も浮かばなかったし、この場を取り繕う文句も浮かばない。もうやぶれかぶれだった。 「いわゆるナンパです」  彼はしばらく唖然とした顔で月人を見上げたまま黙っていた。たっぷり一分黙ってから、彼はふいに軽く息を吐いた。 「君いくつ? 高校生?」 「十七。高二ですけど」 「ああ、じゃあ十二歳年下なわけか。干支、一緒ってことだね」  朗らかに告げられ、月人は驚く。年上だろうとは思っていたけれどまさかそんなに離れているとは思わなかった。 「おじさんをからかうのはやめなさい。そこまで暇でもないし」 「殺人の勉強に忙しいから?」  机に積まれた本を見下ろして問うと、彼は視線を本に向けてからくすくすと笑った。 「そうそう、殺人の勉強に忙しいから」  なんだか適当に煙に巻こうとしている。 「勉強しても実践しないんでしょ。だったら無駄だと思う」  憤然と言い捨てると、彼は大きな目をすうっと眇めた。開いたままだった本をぱたりと閉じ、彼は片肘で頬杖をついて月人を見上げた。 「思い出した。この間、物騒な本読んでた子か」 「物騒なのはあんたも同じじゃん」  負けじと言い返すと、彼は軽く目を見張ってから興味深そうな顔をした。 「おもしろいな。最近の子って変わってるね。こんなとこでおじさんナンパしたりするの」 「最近の子がどうとかは知らないし、大体、おじさんって感じでもないと思いますけど」  ぼそぼそと言ってから月人はふっと口を噤む。真っ黒な大きな目がじっとこちらを見据えていたから。  おじさん、などと卑下した言い方をこの人はしたけれど全然そんな感じではない。  むしろそう、むしろ。 「美人だし」  ぽろっと本音が零れてしまい、月人は焦って口を押える。そろそろと彼を窺うと、彼は表情の読めない目でこちらを眺めている。やっぱり長く押し黙ってから、唐突に彼は立ち上がった。 「出ようか」
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