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「あの人って……」
『火野さんだよ』
どきり、と胸が鳴る。スマホを握る手がじわりと汗ばんだ。
「長崎……?」
『有紀、今、長崎にいるの。やたらめったらあの子、写真撮りまくるじゃない。その中に交ざってた写真にあの人っぽい人が写ってたから。詳しい場所まではわかんないし人違いかもしれないけど』
風花はそこまで言って、言葉を切った。
火野さん。彼女がたどたどしく名前を呼んだとたんに、月人の脳裏には彼が浮かんだ。
大量の本を抱えて微笑んだあの人。
ブラックコーヒーをすすって朝日の中で目を細めているあの人。
大丈夫、と笑って月人の頭を撫でた、あの人。
「風花」
掠れた声で名を呼ぶと、ぶっきらぼうに、なによ、と返事があった。
「ありがとう」
『お礼なんて言わないで』
ぴしゃりと言い、風花は苦々しく付け加えた。
『別に罪滅ぼしになるなんて思ってやってるわけじゃないし。私、あの人のこと、嫌いだもの』
言い捨てて電話はかかってきたときと同様に一方的に切れた。
風花らしい、と口元をほころばせた月人の手の中で再びスマホが震える。届いたメールは風花からだった。本文はなく画像ファイルだけが添付されている。
せわしなく鳴る胸を持てあましながら、月人は添付ファイルを開いた。
閑散とした道路が写真の手前側から奥へと緩くカーブを描きながら伸びている。写真の右手は雑木林、左手に海、そして、雑木林を背に道路に面して入口を向けた小さな商店があり、車三台ほどを停められる駐車スペースが商店の横、ちょうど写真の手前に写っている。
その駐車スペースには車が一台停まっていた。白い軽自動車だ。そしてその車の横に一人の人物が写っていた。
遠目だったが、すっきりと伸びた背筋も、海風になびいた黒い髪も、はっきりと写っていた。
七年経っていたけれど、見間違えるはずなんてなかった。
彼だった。
月人はスマホを額に押し当てる。
うれしいのか驚いたのか、自分で自分の感情がわからない。ただ、心の底から安堵した。
長崎のどこなのかよくはわからないが、関係なかった。
生きていた。
死んでいるはずがない、そう思って七年探し続けた。でも時折心の奥で彼はもうどこにもいないんじゃないか、とそんな風に言う自分がいた。
婚約者を奪っていったこの世界に彼はきっと絶望していたはずだから。すべてを終わらせてこの世界から旅立ったとしても、不思議じゃない気がしていた。信じたくないのに、何度も頭を過った。暗い暗い闇に落ちていく彼の姿が。
でも、彼は生きていた。
今もこの空の下で息をしていてくれる。
それだけで十分だった。
生きてこの世界にいてくれただけで。
無人の編集室で、月人はスマホを額に押し当てて泣き出した。
久しぶりに流した涙が頬に熱かった。
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