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 圧力に押されたように朔夜はたじろぎ横を向く。 「情が移っただけ。ただ、それだけだよ」 「あんたさ」  月人はふうっと息を吐き、椅子の背に体重を預けた。 「嘘つきだよね。昔から。だけど思ったより、嘘が下手だ」 「嘘なんてついてない」  低く答え、カップを机に置く。決してこちらを見ない彼を見ていたら、もう冷静ではいられなかった。月人は椅子を蹴立てて立ち上がると、床に置いていた鞄から封筒を引っ張り出して彼の前にばん、と置いた。  朔夜は机の上のそれがなにかを認めたとたん、ぱっと頬を赤らめた。 「じゃあ、教えてくれる。この小説の意味。どうしてあんたはこれを書いたの」  赤い顔で横を向いた彼に、月人は容赦なく言葉を重ねる。 「答えてくれる」  朔夜は押し黙ったままだ。月人は机を回り込んで朔夜に詰め寄る。はっとして身を引こうとした彼の手を掴み、月人は間近く彼の顔を見下ろした。 「あんたは、俺を待ってたんじゃないの」 「違う……」 「じゃあこれ、なに?」  月人はテーブルの上に置いた封筒をすくいあげ、朔夜の胸元に押しつけた。 「これ、今までのあんたの小説じゃない。あんたはいつも暗くてどろどろしたものをいろんな手段で吐き出してたよね。だけどここにはそんなもの、なにもない。あるのはただ、ずっと一人で、ただ一人で、言うわけにいかない思いを胸にしまって、ただ生きてる。そういうあんたの姿だけだ」  三条に託された原稿。そこに書かれていたのは一人の医師の物語だった。  凄腕の外科医だった男には親友がいた。親友には彼女がいて、その彼女のことを男はひそかに恋い慕っている。だが、相手は親友の彼女、決して口に出すことはできない。気持ちを押し殺していた男は、しかしある日、交通事故に巻き込まれた瀕死のその親友と、そして彼女を手術することになる。手術に向かった彼はしかし、手術中に迷い始める。このまま友が助からなければどうなるかと。彼の迷いは彼のメスを鈍らせ、親友は死んでしまう。反対に命を取り留めた親友の彼女は悲しみ、そして男を憎む。どうして自分ではなく彼を助けてくれなかったのかと。憎まれてそれでも男は彼女を愛することをやめられない。男はただ一人、来る日も来る日も患者の命を救い続ける。決して振り向いてくれない、彼女を思いながら。 「朔夜。あんた本当に、復讐を果たせて幸せなの。それとも今、このときも俺のことも憎いの。どうなの」  朔夜は目を逸らしたままこちらを見ない。その彼の手を揺さぶり、月人は強い口調で迫った。 「言ってよ。あんたの気持ち。俺は聞かなきゃいけない。俺にはその権利がある」  だが、月人はそのとたん、激しく胸を押されよろけた。手近の椅子を掴んで転倒を免れ、ほっとしたとき、声が聞こえた。
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