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「俺は」  思わず言い返しかけて月人は言葉を飲み込む。  俺は、憎んでいるのか?   彼はしばらく黙って月人を見つめてからゆっくりと息を吐いた。強い視線から力が抜け、ほっとした月人の耳に彼の声が唐突に落ちた。 「名前」 「は?」 「名前も聞いてなかった」  そういえばそうだ。ずいぶん失礼な話だ。 「鳥海(とりうみ)月人(つきと)です」  名前を言ったとたん、彼がわずかに表情を止めたように見えた。あれ、と思ったのとほぼ同時に、彼は頭を下げて名乗った。 「火野(ひの)朔夜(さくや)です」 「……どんな字書くんですか」 「炎の火に野原の野、朔は新月のことを朔月って言うだろ。その夜で朔夜」 「そのままでもペンネームになりそうなのに」 「冗談」  ひらひらと手を振って、朔夜は肩の鞄をゆすり上げる。 「あんな内容の本で本名名乗るなんて、恥さらしもいいところだろ」 「そんな言い方することないでしょう」  思わず反発すると、朔夜は軽く目を見張ってからゆるゆると首を振った。 「小説だけど自分の心だから。本名でなんて語れないよ」  風がざわざわと頭上の木の葉を揺らす。彼は一瞬口を噤んでから、静かに囁いた。 「さっき君言ってたね。殺したい人がいるって小説のネタだったのかって」 「言いましたけど……」  黒い目が冴え冴えとこちらを映す。さっき一瞬見えた、金縛りさえ引き起こしそうな強い目に月人は息を呑んだ。 「それは正しいよ。でも間違ってる」  整った唇にゆっくりと笑みが刻まれる。 「殺したいほど憎んでいる人、俺にはいるんだ。だから小説を書いてる。実際に殺す代わりに、繰り返し繰り返し、ね」  風に乱れた前髪をそっと抑えて彼は微笑んだ。ぞっとするくらい鮮やかに。 「それ、一体、誰を……」  恐る恐る問いかけた月人に、朔夜は目を伏せて答えず、ただ柔らかく言葉を紡いだ。 「君が俺の本を何冊も積んでるの見て思った。君にもそういう人がいるんじゃないかって。知りたくなった。君の心が」  ふっと彼は前触れもなく手を伸ばす。目を剝く月人に、彼はわずかに微笑んでから月人の肩についた落ち葉をそっと払う。 「君はなんで俺に声をかけたの?」  なんで声をかけたのだろう。  見たことがないくらい綺麗な人だったから? それも確かにあるかもしれない。けれど、それだけじゃない。  外見を裏切るその内面。自分が見たいのは多分。 「同じだと思う。あなたと」 「同じ?」  頷いてから、月人は急に恥ずかしさを覚え、顔を背けて答えた。 「あなたの考えていること、知りたくなったから。だから」 「そう」  短い答えにそちらを見ると、彼は先ほどまでとは違う穏やかな表情を浮かべていた。 「いずれにしても立ち話で、しかも初対面同士で話す話でもないね」  苦笑いしてから朔夜は月人を見上げて提案した。 「とりあえず、お茶でも飲もうか」
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