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翌日、出社したばかりの私は、窓際の自席へ腰を下ろし、パソコンを起動した。向かって斜め前のデスクに座る田中さんの姿が、視界に入り込む。田中さんはパソコンのモニタの小さな文字を見るために目を細め、キーボードを打つときだけ視線を手元に落とし、またモニタを睨む。手元、モニタ、手元、その交互運動が、田中さんの全身に逃れられない老いを纏わせた。
その姿を見ていると、私は胸の底から居た堪れない気持ちになる。思わず私は立ち上がり、誤魔化すようにトイレへと向かった。
「よお」
トイレで用を足し手を洗っていると、真横の手洗い場から声が飛んできた。向くと、同僚の滝岡だった。
「ああ、滝岡か」
「なあ、お前聞いたかよ」
滝岡は一大ニュースを独占取材した記者よろしく、ジャケットの胸ポケットから取り出した手帳に目を落としながら、鼻息を荒げている。
「聞いたって何がだよ」
「田中さんいるだろ、お前の部署の。あの人な、今年も会社、退職出来なかったみたいだぜ」
聞いて、私はげんなりした。またその話か。田中さんの老いた姿がちらつき、自分の頰の端が痙攣するのが分かった。
「俺の情報だとな、田中さん、五十年間こつこつ真面目に働いてきて、今期には念願の退職を勝ち取るものだ、って巷では騒がれていたんだ」
「巷ってどの界隈だよ」
「でもな、俺の情報だと、少しだけ足りなかったみたいなんだよ、積立金が。だから渋々もう一年、ってことらしいから、巷はもう大騒ぎだよ」
だから巷ってのは。言いかけて、言葉を飲み込んだ。滝岡はいつもこんな調子だ。どこからか仕入れてきたゴシップを拡散することを生き甲斐としている。
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