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鷹山彩羽が「その世界」を始めて認識したのは、その年の夏、最も気温が高い朝のことだった。
七月二十八日、気温三十六度。湿度も高く、額から滴り落ちる汗が止まらない。制服のシャツが肌に貼りついて、冷たい。
アスファルトに囲まれた牢獄のようだ、と彩羽は思った。こんなに不快な思いをしたことはない。
駅のホームで電車が止まり、扉が開く。冷房のよく聞いた車内から、小さな覚悟を持って一歩外に踏み出すとき、見えない「熱の壁」のようなものにぶつかったように感じた。やわらかく、羽毛布団のような肌触りのそれをすり抜けると、そこは酷暑。思わず吐き気のする温度差。
スマートフォンのメッセージアプリでは、この暑さから抜け出せない友人たちがいろいろ理由をつけて、終業式をずる休みすることを算段しあっていたが、彩羽はそれほど勇気のある選択はできなかった。家を出る前に鞄に放り込んできた、三百五十ミリリットル入りのピンク色の水筒――中には氷のブロックで冷やされた冷たい麦茶が入っている。ひと息に飲み干し、駅の階段を下りて改札をくぐる。
朝、七時五十分。始業までまだ時間はある。赤信号の灯った横断歩道の前で、今か、今かと待ち続ける人々の中で、彩羽もローファーで苛立ち紛れに地面を蹴った。
ぶんぶんと目の前を行き交う車。
ふいに、目の中に鋭い刺激が走って、思わず目を閉じた。切り忘れた前髪から滴ってきた汗の雫が、目の中に入ったのだ。
「うわッ、」
思わず目を閉じたその時だった。
瞼の裏側に彩羽が見たのは、何もかも塗りつぶされた漆黒の街並みだった。あれだけ真っ青で雲一つない、酷暑を振りまいていた青空も、目が焼き切れてしまいそうなほど眩しい太陽も、そこにはなかった。
そびえるビル、信号、ロータリー、大型バス、タクシー、電光掲示板、駅のアーケード、横断歩道、信号機と足元に敷き詰められたレンガの歩道――それらはすべて、夜の街に光るネオンサインのような、サイケデリックな色の輪郭で覆われて、意味ありげに点滅し続けている。
彩羽はある違和感に気付いた。ここはとても涼しい――さっきまで散々苛まれていた酷暑がすんなりと、あっけなく消え、その世界はとてつもなく涼しかった。
静かで、漆黒の世界。
彩羽は目を閉じたまま、その世界に見とれてしまっていた。ここは一体どこ……?
どんっと背後からぶつかられると、目の前がいきなり白く明滅した。同時に、耳を打つ轟音に彩羽は思わず身を縮み上がらせた。
その轟音は、高架の上の駅へ駆けこんでくる電車の急ブレーキ音であり、人々のざわめきであり、車のエンジン音であり、歩行者用信号機から流れてくる「とおりゃんせ」のメロディだった。
いつも通りの街。
彩羽はおそるおそる、横断歩道の白い縞模様の上をローファーで歩き出した。
さっきの一瞬、一瞬だけ、見ることができた黒い街。
きっと普通の人間ならこう思うだろう、と、彩羽は考えた。
あれは、白熱電球のフィラメントや、自動車のハイビームを目にしてしまったときに眼球に残る残像のようなものなのだろうと。これだけ眩しい太陽の光のもとでずっと歩いているのだから、さっき、目を閉じた拍子に、それまで見ていた風景の残像が目に残っていて、それを目の当たりにしたのだろうと。
けれど彩羽は、もうひとつ奇妙な感覚を感じていた。
あの街の中に、自分は一体どれだけの時間、留まっていたのだろう? たぶん相当な時間を過ごしていたに違いない。何故なら彩羽はこうして歩いている最中にも、さっき見ていた風景を鮮明に、写真を見るように思い出すことが出来たからだった。まるで何十分も何時間も、その場に佇んていたように。
白黒反転したように黒く染まった風景。サイケデリックに明滅し、色彩が血管のように脈動する輪郭。無機物だけの、ひんやりとした世界。
その残像が、まだ目の奥に残っていた。
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