Brute-force

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Brute-force

 終業式の間中、彩羽の意識は、アリーナの天井から吊り下げられた白色灯へ向けられていた。壇上では、銀色の髪の毛をした初老の校長が、なにかの本を引き合いに出して小難しいことをしゃべっている。  はじめのうちは、彩羽はその話にぼんやりと耳を傾けていた。熱心に聞くわけではないが、さりとて、生徒指導の教員に目を付けられない程度に。整然と並べられたパイプ椅子に座るクラスメイト達はみな、話を聞くふりをしてスマートフォンでメッセージのやり取りをしあっていたり、こっそりと居眠りをしたりしていた。  彩羽はそっちを努めて見ないようにしていたが、ある瞬間とうとう我慢できずにあくびをかみ殺した。目に涙が滲み、頭がふわっと浮かぶような感覚。  体育館のステージ、屋根、白色の照明、それらの輪郭が煌びやかなネオンサインのように光ったかと思うと、罅割れたマイク越しの声が消え、視界から生きている人間たちの姿が無くなったのだ。  また、あの感覚だ。彩羽は確信した。さっき、横断歩道で見たものとはまた、別の景色がそこに一瞬だけ見えたような気がしたのだ。木目調の彩色が施されたステージと、校長が両手を預け身をもたれさせている教壇は、そこだけ別の宇宙に繋がっているように真っ黒に染められ、その周囲から噴き出すような白い光の奔流が見えた。それは白といっても、ピンクや黄色、青といったサイケデリックな色彩を内包し、異様に神々しいもののように見えた。  周りを見ると、生徒や教師たちはどこにもいない。パイプ椅子だけが整然と並び、足と座面がワイヤーフレームのように浮かび上がる。天井からぶら下がっている白色の照明が寒々しくその世界に光をもたらし、アリーナの局面の天井には虹が波打っている。触れればそこから広がった波紋がアリーナ全体を揺るがした。  しかし、それらはほんの一瞬の出来事で、かみ殺した欠伸が断末魔のように遺した脳の遊離感が消えたのと同時に、消えてなくなってしまった。裏側に引っ込むように消えた。今まで見えていた世界の表と裏がひっくり返ったようだった。耳には、古いスピーカーで乱暴に拡張された、校長の声が叩きつけてくる。  もう一度見たい。  彩羽は必死に目を凝らし続けた。もう一度あの、色とりどりの世界が見たいと思った。けれど、そこから十分間、ついに一度もあの世界を見ることができないまま校長の講話は終わった。がっくりと肩が落ちるのが分かるのと同時に、目の前でびくっと、眠っていたクラスメイトの肩が跳ねた。  いったいあの世界は何なのだろう?  黒く、光を吸い込むように映ることと、物体の輪郭がやたらとカラフルに見えることから、彩羽はひとつ仮説を立てた。  あの世界は太陽や白色灯といった、白い光が眼に見せる残像のようなまぼろしであり、実体があるわけではないのだけれど、恐らく、条件さえ満たせばいつでも見ることは可能なのだ。  式典を終えたアリーナからの帰り道、廊下を歩きながら彩羽は窓の外を見た。  猛暑日の太陽がかんかん音を立てながら頭上から降り注いでいる。それを充分に目に焼き付けてから、廊下の中へ視線を戻し、また、目を閉じる。  すると、目論見通りにあの世界へと没入することができたのだ。  彩羽は異常な高揚感を得た。教室の表札、扉、ロッカールームの扉の一枚一枚が、しっかりと輪郭を残して目に飛び込んでくる。くすんだ白い廊下の壁とリノリウムの模様はすべて真っ黒に染まっていて、光も音も吸い込みひとつ残らずすべてを消し去ってしまうような、けれどその空間の中に生れた裂け目がこの空間を形作るネオンサインの輝きであり、完全無欠の漆黒の世界に浮かび上がる空間なのだと感じた。  やがて階段へとたどり着く。小さな段のひとつひとつが色づいて見える。最初の一段目は赤、その次はピンク、橙色、黄色、緑色、青緑、青、藍色、紫――上の段へ向かうにつれて冷たくなっていくその階段を、彩羽はおそるおそる、けれども踏み外して転んだってかまわないという風に軽やかに登っていった。踊り場に右足を最初に乗せると、目に映らない波紋が床を伝わっていくのが分かった。漆黒の「面」には変化はなくても、その隙間から覗く「輪郭」の光が激しく明滅し、彩羽の行く先を示してくれているような気がした。見ると、ただ黒いだけかと思っていた壁や床には、うっすらと何らかの模様が浮かび上がっている。さらに注意深くそれを見ると、数字や図形、文字列といった、意味のあるものであることが分かった。  指先で触れようと手を伸ばすと――  触れる寸前で、なにか、熱を持ったものに触れた。 「熱っ、」  熱せられた金属に触れてしまった時のように、思わず声をあげて、指をひっこめた。 「鷹山さん? ど、どうしたの?」  目を開いた。  そこには、驚いたような、いぶかしむような目でこちらを見るクラスメイトの女子生徒の姿があった。ざわっと、一瞬廊下がざわついたかと思うと、すぐにそれが静かになった。彩羽の背筋を、冷や汗が伝う。 「なんでもない、よ。ごめん」  当たり障りのない言葉でその場をごまかしたつもりで、階段を見た。緑色の滑り止めテープが貼り付けられ、蹴込みの下半分が焦げ茶色に塗られた、何の変哲もないただの白い階段。それから教室に戻るまでは、何度試しても、あの世界へ行くことは出来なかった。 「あそこの階段、『いわくつき』らしいからね」  ホームルームまでの休み時間、ぼうっと窓の外を眺めていた彩羽の耳に、そんな噂が飛び込んできた。さっき、彩羽が通ってきたあの階段のことだった。それらの話は断片的にしか聞こえてこなかったが、教室、廊下、トイレなどで聞こえてくる噂をまとめると、こういうことらしい。 「いわく」、数年前にあの階段で女子生徒が投身自殺したらしく、それ以来、あの階段では何人かの生徒が転落したり、転倒して頭を打ったりするなど、事故が多発しているらしい。中には、あの階段で告白すると必ず不幸になるといったものまであった。が、とどのつまり単なる怪談話の類いであり、非科学的なうわさ話のひとつだと思って、彩羽は特に気にも留めないままでいた。  ただ、スマートフォンで過去のニュースを遡ってみると――  どうやら「階段で女子生徒が投身自殺した」というところまでは、本当のことらしい。  そして、自分がその件で噂の中心になっているらしいということは分かった。あの会談で突然、何かに浮かされたように歩き出し、目の前の女子生徒に手を伸ばした自分が。あの時、あの黒い世界に没頭していた彩羽には知る由もないが、周囲から見ると相当おかしな様子だったのだろう。  彩羽は、急に恐ろしくなってきた。
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