粉々の鑑賞魚

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あれはどしゃ降りの雨の日。 ……いや、どしゃ降りなんて生易しいものではない。 水槽の中にでも落ちたかのような雨の中。 俺は油断していた。 こんな雨の中、歩行者など存在する筈が無いと。 水の中、ゆらめく赤。 慌ててブレーキを踏むが、間に合わない。 赤は赤い液体を、血を飛び散らせながら倒れる。 慌てて車を止めるが、雨の中転がるソレはどう見ても人間で。 俺は慌てて車内に戻り、懇意にしている闇医者に電話を掛けた。 滝川 蒼依。 ミュージシャン。 サポートベーシスト。 両親とは子供の頃に死別。 祖父母に養育されたが、数年前に相次いで他界。 親族もいない、天涯孤独の男。 丁度仕事に区切りがついた所で、今彼が姿を消しても、誰も不審に思わないだろう。 ベーシストとしての腕は確かだが、目立たない男だった。 魔が差したのだ。 滝川が記憶を失っていると知った時、隠してしまえと思った。 傷が癒えたら別荘にでも閉じ込めてしまえば、誰も滝川を探さない。 男一人を生涯養う程度、自分の財力であれば容易い。 前科がつく方が、俺にとっては深刻なダメージだ。 俺は記憶障害を抱えた滝川を言いくるめて、都心部から離れた田舎の別荘に閉じ込めた。 最初は従兄弟か血縁者だと説明するつもりだった。 だが、二度目の失敗。 あの時の俺は冷静さを欠いていたとしか言えない。 俺は記憶を失った滝川に、不倫相手だと告げたのだ。 そして俺は滝川を抱いた……抱けてしまった。 滝川の裸体を見て、恥態を見て、勃起してしまったのだ。 滝川 蒼依は名実共に、俺の不倫相手となってしまった。 普通の不倫と違うのは、妻の麗花も蒼依の存在を、蒼依も麗花の存在を知っているという事だ。 麗花は極道のお嬢で、肝の据わった女だ。 蒼依の存在を隠すと伝えても動揺せず、生家のツテを使って蒼依の痕跡を消す事に協力してくれた。 闇医者の元で治療を受けている蒼依の世話をしたのも麗花だ。 麗花の服のコーディネイトで、地味な大学生のようだった蒼依が妖艶な青年へと変貌を遂げたのには絶句した。 ほんの少し、良心が痛んだ。 今のこの艶やかな蒼依なら、ベーシストとして大成するのではないかと。 しかし結局、良心より保身の方が勝ってしまった。 俺は当初の予定通り、蒼依を世間から隠した。 蒼依の存在を抹消してしまった。 目論見通り、蒼依の失踪は話題にも上らなかった。 一人の人間の存在など、こんなにも簡単に消し去ってしまえるのだ。 俺は自分の所業に戦慄したが、同時にほの暗い快感も抱いていた。 この蠱惑的な男の存在は俺とごく一部しか知らず、そして俺は彼の支配者として君臨できる。 だが、その快感もすぐに消え去った。 蒼依の精神が壊れたのだ。 事故ではなく、俺との不倫が原因で……。 別荘に、明かりは灯っていない。 溜め息を吐いて、鍵を差し込んだ。 家政婦が作った食事は、全く手がつけられていない。 蒼依の名を呼びながら、リビングに入った。 毛布にくるまった蒼依は、澱んだ瞳で水槽を眺めている。 何も入って居ない水槽に。 もう少し、下調べをしておけば良かった。 水槽を買った翌日、小さな赤い金魚は逆さになって浮いていた。 露天の金魚はショップで販売出来ないと判断された虚弱なもの。 もしくは傷や病を抱えたもの。 これは当然の結果だった。 蒼依の為を思うなら、蒼依の抱える孤独と傷を癒す事を考えるなら、血統書つきの健康な犬や猫を買い与えた方が良かった。 後悔しても……もう遅い。 蒼依を必死で宥めて、逆さに浮いている金魚の遺骸を、水ごと瓶に詰めた。 せめて埋葬するつもりだった……蒼依と共に。 これが失敗だった。 同行させるべきではなかった。 判断ミスが重なる。 蒼依と相対すると、俺はいつも冷静さを失ってしまう。 埋葬用の穴を掘っている間に彼は消えた。 「蒼依っ!」 痕跡を頼りに必死に追い掛けた。 自力で、こんなに走ったのは学生の頃以来かもしれない。 面倒事はいつも、部下にやらせていたから。 崖に出た。 海を臨む崖に。 「蒼依!?」 ふらふらと崖に向かう蒼依の腕を掴み、抱き寄せた。 蒼依は壊れた機械人形のように崩れ落ちる。 蒼依の足元には空の瓶。 「蒼依……金魚はどうした?」 蒼依は崖の下を指し示す。 「俺が……殺した」 「……殺した?」 蒼依はコクリと頷く。 「あいつは淡水魚。海では生きていけない。それ以前にきっと、小さなあいつの身体は波に叩きつけられ四散した。俺が殺した。俺が……あいつを……」 「違う、あの金魚は元々……」 「苦しいのは嫌だった。頑張るのも疲れた。だから楽になりたかった。一瞬で、四散して、肉片に……」 「…………蒼、依?」 おかしい。 気づいた時には……もう。 「尊人さん、俺も疲れた……もう、楽になりたいよ……」 「蒼依……まだ食べていないのだろう?」 蒼依はゆっくりと、澱んだ瞳をこちらに向ける。 「尊人さん……」 「あぁ」 「麗花さんは?」 「俺が此処に居る事を知っている。了承している」 「早く帰ってあげて。麗花さんもきっと苦しい……窒息しちまう……」 「お前は…………」 毛布を掴む手首には……包帯。 昨日浴室で手首を切っていたと、家政婦から連絡があった。 蒼依はずっと窒息しそうな苦痛を抱えて生きていたのだろう。 俺の前では妖艶な面を被り、蠱惑的な鑑賞魚のように優雅に泳いでいるように見せながら、涙を冷たい水槽の中に溶かし続けていた。 「心配するな。お前が食べたら麗花の元に帰る」 「後で食べるから大丈夫。だから麗花さんの所に早く戻ってあげて。一人はきっと苦しいから……痛いから……いっそ、この四肢が引き千切れてしまった方が楽だ」 視線の先を空の水槽へと戻し、淡々と語る蒼依。 きっとこのまま帰っても、蒼依が食事に手をつけることはない。 キッチンに戻り、食べやすそうな粥を選び、リビングに戻る。 俺は蒼依の命を繋ぐ事に必死になっていた。 例えそれが、彼の望みとは逆の願いだとしても。 蒼依に、生きて欲しかった。 「蒼依……ほんの少しでもいい、食べてくれ」 粥を匙で掬って口に運ぶと、蒼依は金魚のように小さく口をぱくりと開けた。 その口に匙を滑り込ませる。 5回程繰り返したあたりで、蒼依がゴホッと噎せた。 ろくに食べてない蒼依の胃は食物を拒否し、しかし生を望む蒼依の身体が餓死を許さない。 ……これはもう、ただの呪いだ。 「…………すまない、蒼依」 粥の器を置いて、蒼依を抱き締める。 麗花は愛人の一人や二人で動じる事はない。 だが、蒼依も麗花と同じく豪胆な男だと……軽々しく判断してはならなかった。 記憶障害を抱えているなら尚更だ。 もっと大切に扱わなければならなかった。 干からび凍えた水槽の中で、緩やかに死を待ち続ける蒼依。 「生きろ……生きてくれ蒼依…………頼むから、生きてくれ」 俺の呟きは、懇願は、今の蒼依には届かない。 蒼依の身体はこの腕の中に在っても、魂はもう決してこの手の届かぬ水槽の中。 誰の手も届かぬアクアリウムで、真っ赤な尾ひれを揺らして優雅に妖艶に泳いでいる。 「許してくれ、蒼依……」 どんなに謝罪の言葉を繰り返しても。 …………蒼依にはもう、届かない。 これが、罰なのだろうか? つまらない責任逃れをした、蒼依の人生と天秤に掛けて、自分の保身を優先した罰なのだろうか? ならば何と残酷な罰なのだろう。 俺への罰ならば、蒼依ではなく俺を壊してくれれば良いのに。 空っぽの水槽の中のように空虚で凍えた部屋の中。 蒼依を抱き締める俺を嘲笑うように、深紅の影が揺らめきながら横切っていった。
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