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粉々の鑑賞魚
手首を切る。
湯に浸ける。
帯のように揺らめく赤はいつかのあの子の尾ひれのようで。
此処はきっと、冷えた水槽。
水槽の中で飼われている俺は、彼が水槽に餌を撒きに来てくれるのを、ただ静かに待っている。
彼が褒めてくれた尾ひれを揺らして。
彼がいつ来てもいいように、優雅に……淫らに。
自分で餌を取りに行く方法は忘れてしまった。
飼い主である彼に存在を忘れられたら、俺はひっくり返って水面に浮いている。
元から俺はこんなに脆弱だったのか。
それともきっかけとなる何かがあって、こんなにも脆弱な存在に成り下がってしまったのか。
もう思い出せないし、どうだっていい。
笑いたきゃ笑え。
笑われようが指差されて見下されようが、今の俺にはもう、こんな生き方しかできねぇんだから。
彼は既婚者だ。
彼には愛する妻が居る。
俺はただの不倫相手で、彼の唯一無二の存在にはなれない。
俺が傷ついたと主張しても、加害者だと罵倒されるのは俺で。
被害者は妻である彼女だ。
俺は自己責任で既婚者の不倫相手になり、嘘と隠し事で彼女を傷つける人権無き加害者。
仮に俺が女で、妊娠して、中絶せざるを得なくなって、その苦痛を週刊誌に暴露したとしても、俺は被害者面するなと罵倒される立場。
…………そう、わかっている。
理解しているつもりだ。
どこに向かって泳いでも光はなくて、その向こうに光があると思ったらガラスの壁に阻まれて。
四角四面のガラスの箱の中で、ただゆらりと踊るように優雅な愛人を演じる俺。
彼がまた餌を撒きに来てくれるように。
……彼に飽きられないように。
艶やかな姿を演じるのだ。
努力して、懸命に、精一杯……。
でも、時々わからなくなる。
どの方向に努力したらいいのか……わからなくなる。
水槽の中から逃げられない俺に会いに、愛する彼が現れる。
彼に愛を囁かれ、温かな腕に抱かれて、ひとつになって。
俺はとても幸せな筈なのに。
翌日にはヘトヘトに疲れ果てている。
疲労はもちろんある。
…………が、それだけではない。
虚しさと不安、自己嫌悪に自己否定に押し潰されるのだ。
その重圧に必死に抗おうと悶えて……そして、起き上がれなくなる。
手首を湯につけながら、思う。
これではもう、面倒くさいメンヘラじゃないか。
でも、疲れきった俺は、こうも思うのだ。
メンヘラでもいい。
加害者でもいい。
指を差されて笑われようが、妻の気持ちを考えろと罵倒されようがかわまない。
だからもう……殺してくれ。
俺をこの凍えきった水槽から、殺して救い出してくれ。
死しか救済が無いのを把握していて、自ら死を選ぶこともできない。
俺は本当に、どうしようもないクズ野郎だ。
あれは何時だったか。
彼と行った夏祭り。
茹だるような暑さの中、久々の彼との外出に、俺は浮かれていた。
立場上、俺と彼が会うのは室内で、外出はほとんど無い。
たこ焼き。
林檎飴。
彼と一緒に居るだけで、代わり映えのない夏祭りすら輝いて見えるから不思議だ。
「……そうか、俺は夏祭りが“久しぶり”なのか。以前……夏祭りに来たことがあるのか?思い出せねぇけど」
呟いて、彼を見る
彼は不快そうに表情を歪めていた。
明らかに楽しくは無さそうだ。
やっぱり彼は、本当は彼女と来たかっただろう。
華やかな浴衣姿の女性たちを見る。
彼女の浴衣姿も、きっと一輪の鮮やかな花のように可憐だろう。
美しい彼の隣に浴衣姿の彼女がいれば、その光景はきっと一枚の絵画のような世界。
…………俺では、役不足だってわかってる。
俺が浴衣を着たって、可憐な彼女の足元にも及ばない。
俺はぼんやりと、花畑のように色とりどりの浴衣が咲く夏祭りの光景を見つめていた。
「あれが気になるのか?」
俺の胸中を知ってか知らずか、彼が俺の視線の先を指し示す。
浴衣姿の女性たちの向こう側、金魚掬い。
上手く説明することが出来ず……いや、説明するのを諦めて、ただただ俺は、頷いた。
…………あの時に、違うと言えば良かったのに。
首を横に振れば良かったのに。
愚かな俺を、心底呪う。
まるで水槽の中に叩き落とされたような、どしゃ降りの雨の中。
商売道具のベースを抱えた俺は、家路を急ぐ。
俺は売れないベーシスト。
ひとつのバンドに在籍することはなく、様々なバンドやミュージシャン、アイドルのサポートベーシストとして渡り歩いている。
薄給で後回しにしていたが、そろそろ運転免許を取得し、自動車を手に入れるべきだろう。
大事なベースを、こんな雨で台無しにしてしまったら堪らない。
…………あれは、誰だ?
一人でも、孤独でも、楽しそうに笑い、人生を謳歌している。
俺に似た、俺ではない……誰か。
あれは、誰なんだ?
金魚掬いは初体験だった。
俺は臆病で、石橋を何度も叩いてから渡るタチで。
いつもは“その後”を考えるのだが……この日は浮かれてしまっていた。
掬ったと思った金魚は、ピチピチと跳ねた。
小さな命が、生きる為に。
赤い体を揺らして、赤い尾びれを揺らして、金魚はピチピチと跳ねる。
跳ねた金魚は、俺の手から零れ落ちた。
和紙を破った小さな命は、小さな赤は俺の手からスルリと落ちた。
零れ落ちた命は、再び水の中へ。
仲間たちの元へ。
これで元通り。
あの小さな赤い命も、俺たちも。
この時点で早々に立ち去れば良かったんだ。
「兄ちゃん残念だったな。ほら、こいつやるよ」
俺の手から零れて逃げた小さな赤が、水と一緒にビニール袋に入れられて、手渡される前に……。
水槽を買って、金魚を入れた。
小さな赤い、艶やかな金魚が一匹、水槽の中で優雅に漂う。
まるで手首を切った後、湯に漂う血のように。
ゆらゆら、ゆらゆら。
漂う赤い命。
彼は、何処か満足そうに微笑む。
これで俺が寂しくなくなると思ったのだろうか?
水槽の中で彼に飼われているだけの俺に、別の生き物の世話なんて出来ない。
だって俺自身、この水槽から逃れられないのだ。
苦しい。
苦しい。
窒息しそうだ。
…………いいや、むしろ。
窒息してしまいたい。
花火のように、一瞬で。
この命を散らしてしまいたい。
苦しまないように…………一瞬で。
水の中。
飛び散る赤と、身体を引き千切られるような痛み。
叫ぶ事さえ出来ない。
口の中、流れ込む大量の水。
息が出来ない。
窒息しそうだ。
いや、むしろ。
窒息してしまいたい。
早く俺を、この苦痛から解放してくれ。
何故、あんな残酷な事をしたのか。
俺は金魚を瓶に入れて運び、崖から海へと放った。
淡水魚は淡水でしか生きられない。
……それ以前に、この高さではきっと波に叩きつけられ、あの小さな体は四散する。
俺は、そんな残酷な事をやってのけたのだ。
あぁ……きっと、もう。
彼の愛した俺は居ない。
此処に居る俺はきっと。
俺の形をした俺の残骸。
俺はもう……愛されない。
彼の愛した俺は、
彼に愛された俺は、
……愛されていたつもりの臆病な俺は。
罪深き罪人となったのだ。
醜くひしゃげた無惨な肉片になったのだ。
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