女房が死んだ話

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女房が死んだ。 恋女房だったというわけでもないが、居なくなるとあっけない。 戦前、恋人の頃から動物園が好きな女だった。 特に象がいいらしい。あの大きな体躯と、穏やかなところが良いのだそうだ。 ひたすらにゆっくりと柵の中を回遊する象を、言葉なくただ見ていた。 でも可哀想ね、きっとあッたかいところからいらしたのでしょ。 お友達もいなくて、窮屈で、寒そうね、と彼女が言った。 日本に連れてきて長いだろうから、慣れることもあるだろうと私が言うと、 それもそうね、きっと慣れるわ、と笑った。 わたしと同じよ。わたしだって、貴方の傍から離れられやしないんですから、と言いながら、どこか嬉しそうにしていた。 回遊する象は誰にも迷惑をかけない。 女房はあまり料理をしなかったが、朝に作る味噌汁だけは旨かった。 出汁をとって、豆腐に何かを足したぐらいの粗末なものだが、その味にひどく馴染んでしまった。 戦渦では島に飛ばされた。敵を見つけるどころか、ただ逃げ回りながら食うに困る日々を過ごした。 名も知れぬ虫を食べ、雨つゆで喉をしのぎ、どうにか味噌汁の味を思い出せないかとしたものの、土台無理な話であった。 しかし、その頃のことはあまりよく覚えていない。 終戦を知ったのもだいぶ後になってからだったのだろう、日本に戻ると落ち着いたような様子で、軍服姿もほとんど居なくなっていた。 迎える者はないかと思ったが、近所の人は気にかけてくれていたようで、やはり味噌汁と飯を用意してくれた。 労いながら涙を流すものもあり、ひとしきりそれまでの話をした。 皆が帰った後、隣でずっと黙っていた女房に気づく。 汁椀に三割ほど残った味噌汁があったので、お前も飲まないかと差し出すと、女房が受け取るような仕草をした。 確かに手に渡ったはずの汁物は、からりと音をたてて溢れた。 二人で行った動物園は、象すら居なくなっていた。 誰に迷惑をかけることもなかろうに、可哀想なことだ。 女房はもうずっと話さずに、部屋の隅に座っている。 俺が塞ぎ込みがちなのを心配して、たまに近所の人が顔を出すようになった。 やれ、どこそこに何を出す店が出来た、酒を出しているらしい、など噂を話て帰っていく。 誰か添う者が居ないのかと言われ、自分には女房がいるからと言うと、皆揃って奇妙な顔をした。 その話を、部屋の隅で女房がずっと聞いている。 女と言えばだが、何丁目かの長町の端の未亡人が色っぽい、どうも戦地で夫を亡くしたらしい、一度顔を見てはどうかと強く勧められた。 近所の者があまりにも強く言うので、未亡人のいる店とやらに行ってみることにした。 俺を見る人は皆避けて通っていく。こそこそと、わざと聞こえるように話す者もいる。 「戦争に行った軍人さんは、頭がおかしくなっちまうこともあるようだよ」 果たして、未亡人の店はすぐに見つかった。 店と言ってもあばら屋の前に机を椅子を出したようなものだ。 未亡人は女房の顔に似ているように思えた。 これなら味噌汁も作れるのではないかと、汁物を一つ頼むと、未亡人は憐れむような顔をした。 少しして出てきた汁物は、豆腐に少し油揚げが入ったようだった。 味は、あの味噌汁とは全く違うものだった。 出汁が薄い。そう未亡人に告げると、呆れたように笑われた。 「そりゃね、この配給では作れるものも作れやしませんよ」 女房が居て、作る味噌汁が旨いのだと言うと、へぇ、と驚いたような顔をした。 「ちゃんとした奥さんが居たら、いつまでも旦那さんに軍服なんか着せておくものかしら。ねぇアンタ、もう他のものに着替えた方がいいですよ。ワタシなんて、今さっき戦地から帰ってきたものとばかり思ったもの」 そうか、女房が居たら旦那の服をどうにかするものなのか。 しかし、彼女は部屋の隅にじっと黙って座って居る。 そのことを言うと、未亡人はなおさら憐れむような顔をした。 「そんなの、本当は居やしないんじゃないですか。アンタ、ちょっと垢を落とした方が良いですよ」 未亡人はそれからもあれこれと話をしてきて、他にも何か出すと言ったが、長居をするつもりはなかったので帰ることにした。 そう言えば、女房は死んだのだったか。 帰る道すがら、いつ死んだのか思い出そうとして、それも曖昧だ。 未亡人に、奥さんはなんと言う名前なのですかと聞かれて、言葉に詰まったのを思い出した。 呼びかけることをしなかったから、名前をつけていなかったのだ。 確かに今日が、女房が死んだ日である。
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