いいこと

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 風など吹いていないのに僕の目の前のソレ(・・)がゆらゆらと揺れているのは、ぶら下がる瞬間にかかったチカラがゼロになるほどの時間が経過していないから。  もちろん、僕が無理やりさせた訳じゃないよ?  どっちかといえば、僕はいつだって希望を与える存在だと思うんだ。希望を失った人達に安らぎを与える。幸せを与える。恨まれるより感謝される立場なんじゃないかな。でも、そういうふうに思わないヤツもやっぱりいるんだよね。  たとえば、今こっちに向かって全速力で走ってきてるアイツ。アイツは『自分こそが希望を与える存在だ。キミは不幸をもたらす存在なんだよ』っていつも大きな声でいうけどさ。それってどうなんだろう。僕からすればアイツこそ不幸をもたらす存在に見えるんだけど。 「ちょっと。何やってるのさ!」 「え?何って、これが僕の仕事なんだけど……」 「そんなことはわかってるよ!」  アイツはぼうっと突っ立っている僕を押しのけ、そう言いながらがぶら下がっているソレ(・・)のロープを切ると地面へとゆっくりと下ろした。 「わかってるなら、そんなに大きな声を出さなくてもいいんじゃない?それにさ、このやり取りするの、何回目?もう飽きちゃったんだけど」  アイツは下ろしたソレに向かって優しく微笑みかける。 「よかった。間に合ったみたいだ」 「あーあ。あとちょっとだったのに。可哀そうに」  両手を上げ、残念だというポーズを取りながらそう言った僕をアイツはキッと睨みつけた。 「あのさ、どうしてそういうこと言うわけ?」 「だってそうじゃないか。あとほんのちょっとでソイツは幸せな時間を手に入れることが出来たっていうのにさ。オマエなんかに邪魔されちゃって可哀そうに」 「ぼくが邪魔をした?何言ってるんだよ。ぼくは救ってあげたんじゃないか。あの人が逝ってしまう事で無くなるはずだった、あの人の未来を取り戻してあげたんだよ」 「未来ねえ……」  僕は横たわっているソイツを見下ろしながボソッと呟く。 「それにこの人が逝ってしまったら、それをマネする人間だって山のように現れるに決まってる。現に年々自分の命を絶ってしまう人の数は増える一方じゃないか」 「本当にそう思ってる?」 「ああ。小さな芽を摘んでいくこのちっぽけな活動こそが最後には大きな花を咲かせるんだよ。キミにはちょっと難しい話かもしれないけどね」  鼻で笑いながらアイツは僕に向かってそう言った。  アイツはいつもそうだ。  自分こそが一番ものを知っている。自分の意見こそが正しい。それ以外の意見は認めない。でも本当にそうなんだろうか。アイツの自信満々の態度にみんな騙されていないだろうか。意見を引かないアイツが正しいんだと思考停止していないだろうか。 「でもさ、小さな一歩が大局を動かすというのなら、そろそろオマエのその活動も実を結んでもいい頃だとは考えないのかい?」  アイツはその言葉を聞くと僕から目を離し、空を仰ぐような体勢になると吐き捨てるようにこう言った。 「それはぼくの知るところでは無いね」  やっぱりアイツだってそこまでは考えてないような気がする。正論だから全てが正しいのだと、アイツ自身が思考停止しているんじゃなかろうか。 「ふうん」  僕もアイツから目をそらし、そろそろこの場所を離れようとアイツに背を向け歩き始めた。すると、僕の背後からアイツの声が追いかけてくる。 「でもさ、ぼくはこれが仕事なんだよ。人を救うことがぼくの役割だ。正しい行いなんだ。キミのように殺しはしない。救ってやったんだ。だからやっぱりぼくが正しいんだよ」  足を止めた僕は振り返り、アイツに向かってこう言った。 「それは本当なの?オマエはソレを救ったといったけど、それは本当かい?ソレは僕が見たところ、これから動かない体に閉じ込められたままになるだろ。ということは、ソレはこれからずっとだれかの重荷になり続けるし、もうそこからは逃げ出せないってことなんじゃないの?」 「そんなことは無い。救われた命に周りの人間は感謝するんだ。それは今までだってそう。ほぼ全員が『助かってよかった』と口にするんだから」  真っ赤になりながら言い返すアイツに、僕は淡々と答える。 「でもさ、それって初めのうちだけじゃない?時間が経つにつれ、ソレも周りも苦痛の方が大きくなるんじゃないのかな。殺してくれって口には出さなくても、心の中でそう叫び始めるんじゃないの?」  何か思い当たることがあるらしく、アイツは拳をグッと握ると僕を睨みつけ、そしてゆっくりとかみしめるようにこう吐き出した。 「でも、死者を出さないこと、死を止めることはいい事なんだ。そう。とてもいい事なんだよ」 「へえ。でもさ、いい事って何?誰にとっていい事なの?ソレにとって?ソレの周りの人にとって?社会にとって?それともオマエにとって(・・・・・・・)?まあ、ソレみたいに失敗した時の悲惨さを知れば、そういったことに手を出そうとする人間も減るから、そこはいい事(・・・)になるのかもしれないけどな」  僕はもう一度アイツに背を向け歩き始める。  アイツが何か言ったような気がしたけど、その声は僕の耳には言葉としては届いては来なかった。 <終>
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