43人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
美術館、肖像画。次から次へと投入される新しい情報の処理に手間取っていると、斎藤さんが慣れた手つきで鍵穴に鍵を入れて回した。
ガチャッと音が鳴れば開く扉。
「ただいま戻りましたあ、ロイジさーん」
さあ、と彼女に促されて入った石張りの玄関。そこから見える階段からとんとんと降りてきたのは、四十代くらいの男性だった。
彼の手には、毛先に色の付いた筆が一本。頬にもその色と同じインクが一筋伸びている。まるで本物の画家みたいだな、と私は思った。
「おかえりなさい小雪、斎藤さん。今日は同行できなくてごめんね。どうしても明日までに仕上げたい絵があって」
「承知しておりますよ。明日は特別な日ですものね」
「こら斎藤さん。小雪にはまだ内緒なんだから」
「ああ、そうでしたそうでした」
私が靴を脱ぐ間、交わされたこんなやり取り。スリッパに足を忍ばせて、ひとり会話についていけない私が身の置き場に困りおろおろしていると、斎藤さんがロイジと呼んだその男性がおもむろに私の手をとった。丸く大きな瞳で見つめられ、息を飲む。
「おかえり、小雪。僕は君の夫のロイジでここは僕たちふたりの家だ。愛してるよ」
あなたは誰で、どうして私がここへと帰ってきたのか。全ての謎が払拭される言葉で頭がクリアになるのと同時に、突然された愛の告白で燃えていくのは顔。「え、え」とおかしな挙動をしていると、彼は再び「愛してるよ」と告げてきた。
「わ、私はあなたと結婚したのですかっ……?」
「そうだよ」
「私はあなたを愛して、あなたも私を……?」
「そう」
「だ、だってそんなっ。たったの五分なのにっ」
信じられなかった。まさか自分が僅か五分で恋に落ちたなんて。
信じられなかった。まさかこんな不都合だらけの自分を愛してくれる人が現れたなんて。
しかしこの胸の高鳴りがもう、その答えだと思った。
最初のコメントを投稿しよう!