付、羅尚伝

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李特との死闘。 4. 尚字敬之,一名仲。父式,牂柯太守。尚少孤,依叔父憲。善屬文。荊州刺史王戎以尚及劉喬為參軍,並委任之。太康末,為梁州刺史。及趙廞反于蜀,尚表曰:「廞非雄才,必無所成,計日聽其敗耳。」乃假尚節為平西將軍、益州刺史、西戎校尉。性貪,少斷,蜀人言曰:「尚之所愛,非邪則佞,尚之所憎,非忠則正。富擬魯、衛,家成市里;貪如豺狼,無復極已。」又曰:「蜀賊尚可,羅尚殺我。平西將軍,反更為禍。」時李特亦起於蜀,攻蜀,殺趙廞。又攻尚于成都,尚退保江陽,初,尚乞師方岳,荊州刺史宗岱率建平太守孫阜救之,次於江州,岱、阜兵盛,諸為寇所逼者,人有奮志。尚乃使兵曹從事任銳偽降,因出密宣告於外,克日俱擊,遂大破之,斬李特,傳首洛陽。特子雄僭號,都於郫城。尚遣將軍隗伯攻之,不克。俄而尚卒,雄遂據有蜀土。 (訳) 羅尚(らしょう)は字を敬之(けいし)、一名を(ちゅう)という。 父の羅式(らしき)牂柯(しょうか)太守であった。 羅尚は少くして孤児となり 叔父の羅憲(らけん)を頼った。 作文が得意であった。 荊州刺史の王戎(おうじゅう)は 羅尚及び劉喬(りゅうきょう)を参軍とし 一切を彼らに委任した。 太康(たいこう)年間の末期に梁州刺史となった。 趙廞(ちょうきん)が蜀で反乱を起こすに及んで 羅尚は上表して述べた。 「趙廞には雄才なく、 何も成す事が出来ぬは必定です。 期日を計って彼の敗北を お耳に届けられるものかと存じます」 かくて羅尚は節を仮されて 平西将軍・益州刺史・西戎(せいじゅう)校尉(こうい)となった。 性格は貪欲で、決断力に乏しく、 蜀の人はこのように言っていた。 「羅尚が親愛しているのは 狡賢くて口がうまい人間であり、 羅尚が憎悪しているのは 忠義を抱いていて正直な人間だ。 魯、衛に(なぞら)えられ、 家は市里を成せるほど富裕だが、 貪欲さは豺狼の如くであり、際限がない」 また、 「蜀の賊すらまだましというもので 羅尚は我々を殺そうとする。 平西(西方を平らげる)将軍らしいが、 反対に新たな禍を為している」 当時、李特(りとく)もまた蜀で決起しており 蜀を攻めて趙廞を殺害した。 一方で李特は成都に羅尚を攻め、 羅尚は退却して江陽(こうよう)を保った。 当初、羅尚は方面司令官に 軍事要請をしており、 荊州刺史の宗岱(そうたい)が 建平太守の孫阜(そんふ)を率いてこれを救援し 江州に宿次した。 宗岱、孫阜の兵は強盛であり、 侵略者たちは追い立てられて 人々の気持ちは奮い立った。 羅尚はそこで兵曹従事の任鋭(じんえい)に 偽って投降させ、その折に外へ出て宣告し、 期日を定めて共に出撃、 とうとうこれを大破すると 李特を斬り、首を洛陽へと送った。 李特の子の李雄(りゆう)が帝号を僭称し 郫城を都とした。 羅尚は将軍の隗伯(かいはく)にこれを攻めさせたが 勝利する事が出来なかった。 俄かに羅尚は卒してしまい 李雄はかくて蜀の地を占拠した。 (註釈) 匈奴や羯族が中原で暴れてた頃、 蜀では李氏による成漢(せいかん)王朝が興った。 347年に東晋の桓温(かんおん)に滅ぼされた。 羅憲の子、羅尚は人望はなかったけど 王戎(おうじゅう)に従って孫呉を征伐し 西方の長官に任じられた。 黎明期の李氏と死闘を演じ、 敗北を喫する事も多かったようですが 親玉の李特を討ち取ったとこはスゴイ。 人望はないけど……。 ・羅尚評価 戦闘 ★★★★★★ 6 戦略 ★★★★★ 5 内政 ★★★★ 4 人格 ★★★ 3 コーエー査定だと 統率 64〜80 武力 56〜72 知力 51〜67 政治 38〜54 魅力 26〜42 指揮官としては羅憲も羅尚も優秀。 二世代で蜀を守ろうとした羅憲伝でした。 続いて、久々に 晋書の100巻を読んでみます。 2022.5.24
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