張昌伝

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二郡覆没。 2. 太安二年,昌于安陸縣石岩山屯聚,去郡八十里,諸流人及避戍役者多往從之。昌乃易姓名為李辰。太守弓欽遣軍就討,輒為所破。昌徒眾日多,遂來攻郡。欽出戰,大敗,乃將家南奔沔口。鎮南大將軍、新野王歆遣騎督靳滿討昌於隨郡西,大戰,滿敗走,昌得其器杖,據有江夏,即其府庫。造妖言云:「當有聖人出。」山都縣吏丘沈遇于江夏,昌名之為聖人,盛車服出迎之,立為天子,置百官。沈易姓名為劉尼,稱漢後,以昌為相國,昌兄味為車騎將軍,弟放廣武將軍,各領兵。于石岩中作宮殿,又於岩上織竹為鳥形,衣以五彩,聚肉於其傍,眾鳥群集,詐云鳳皇降,又言珠袍、玉璽、鐵券、金鼓自然而至。乃下赦書,建元神鳳,郊祀、服色依漢故事。其有不應其募者,族誅。又流訛言云:「江淮已南當圖反逆,官軍大起,悉誅討之。」群小互相扇動,人情惶懼,江沔間一時猋起,豎牙旗,鳴鼓角,以應昌,旬月之間,眾至三萬,皆以絳科頭,撍之以毛。江夏、義陽士庶莫不從之,惟江夏舊姓江安令王傴、秀才呂蕤不從。昌以三公位征之,傴、蕤密將宗室並奔汝南,投豫州刺史劉喬。鄉人期思令李權、常安令吳鳳、孝廉吳暢糾合善士,得五百餘家,追隨傴等,不豫妖逆。 (訳) 太安二年(303)、 張昌が郡から八十里離れた 安陸(あんりく)県の石岩山に屯集すると 流民達及び戍衛の兵役を避けた者の 多くが訪れ、これに従った 張昌はそこで姓名を易えて 「李辰(りしん)」となった。 (江夏?)太守の弓欽(きゅうきん)は 軍を派遣して討伐しようとしたが その都度破られてしまった。 張昌の徒衆は日毎に多くなり、 とうとう郡に来攻した。 弓欽は応戦に出るも 大敗を喫してしまい、 かくて家族を引き連れて 南方の沔口へと奔った。 鎮南大将軍・新野王の司馬歆(しばきん)は 騎督の靳満(きんまん)に郡の西方にて 張昌を討たせた。 大いに交戦したが 靳満は敗走してしまい、 張昌はその器杖を手に入れると 占有した江夏に據り その府庫に即き、 「まさに聖人が出現するであろう」 との妖言を流布するに至った。 山都の県吏である丘沈(きゅうしん)と 江夏で遭遇すると、 張昌はこれに名付けて聖人と為し、 豪華な車や服で彼を出迎えると 天子として擁立し、百官を配置した。 丘沈は姓名を易えて劉尼(りゅうじ)となり 漢の後裔を称すると、張昌を相国に、 張昌の兄の張味を車騎将軍に、 弟の張放を広武将軍に任命し、 各々が兵を統領した。 石岩(山)中に宮殿を作る一方で 岩上に於いて竹を織り、鳥の形を為して 五彩(五色の衣服)を着せ、 肉をその傍らに集め、 大勢の鳥が群集すると 「鳳凰が降りてきた」と詐言した。 また、珠袍、玉璽、鉄券、金鼓が 自然に至ったのだと述べた。 そこで赦書を下して 「神鳳」の元号を建て、 祭祀や服色は漢の故事に依った。 その募集に応じぬ者がいれば 一族は誅滅された。 また、訛言を流して言った。 「長江、淮水以南でまさに 反逆が図られんとしていたが、 官軍が大挙し、その悉くを誅戮した」 群小は互いに扇動し合い 人々の心は恐懼して、 江水・沔水の間が一時(いっとき)(つむじかぜ)の如く蜂起した。 牙旗を()て、鼓角を鳴らし、 張昌に呼応するする衆人は 旬月の間に三万にまで至り、 ※皆が科頭(剥き出しの頭)を(あか)くして これを摘み、毛(マゲ?)としていた。 (※資治通鑑では、 皆が絳い帽子をかぶり 馬の尾で髷を作した、とあるが…… どっから「馬」が出てきたんだろう?) 江夏・義陽の士人や庶民で これに従わぬ者はなかったが、 ただ、江夏の旧姓(土豪)である 江安令の王傴(おうう)、秀才の呂蕤(りょずい)のみは 従わなかった。 張昌は三公の位を以って 彼らを招こうとしたが、 王傴と呂蕤は密かに宗室を率いて 揃って汝南(じょなん)へと奔ると 豫州刺史の劉喬(りゅうきょう)のもとに身を寄せた。 郷里の人である、期思(きし)の令の李権(りけん)常安(じょうあん)令の呉鳳(ごほう)、孝廉の呉暢(ごちょう)は 善良なる士を糾合して 五百余家を得ると、 王傴らに追随して 妖しき逆賊には与らなかった。 (註釈) (義陽郡から?)80里離れた (江夏郡の)安陸県へ移動した張昌。 1節で「江夏で大豊作」って書いてあったし 食糧と人材を求めて ホームを離れたんだろう。 流民や兵役を避けた者を集め、 江夏太守と、新野王の派兵を返り討ち。 規模が大きいのもあるんだろうけど、 ふつうに強い。 さらに山都の県役人を担いで 「漢王朝の末裔」と偽称させ 完全なる独立勢力と化していく。 匈奴が漢の兄弟を主張するのも 正直なんじゃそりゃって 感じだったけど…… これに比べたら全然マシだと思える。 李氏、劉淵、そして張昌、 漢王朝滅んでから80年経つのに 異民族がみんな 「漢」を名乗ってくるんだから やっぱ、漢王朝の印象の強さは 魏晋と比べ物にならないほど 圧倒的なんだってことと、 傍目から見てても 身内同士で殺し合ってる司馬一族には 王者の資格がないものと 思われてたんだろう。 漢の末裔を名乗ったほか、 神秘的な演出を数々施して 人々の心を掴むことに成功? 秦末の陳勝(ちんしょう)に近い事をやっている。 張昌集団のファッションについて、 晋書では 「皆以絳科頭,撍之以毛」 資治通鑑だと 「皆著絳帽,以馬尾作髥」 で、結構ちがう。 資治通鑑は 「赤い帽子をかぶり、馬の尾で髷を作す」 だけど、晋書にある 「科頭」は何も頭につけてない状態を指す。 「(あか)い」何かを頭に装着したなら わざわざ「科頭」って書くかな。 頭部のどこかを赤く染めていたのか? 光武帝と戦った、赤眉軍みたいな感じで。 「撍之以毛」は… 撍の意味が、 「手で動かす」「手に取る」 「かんざし」「尽きる」 「急速」「摘む」らしい。 たぶん、毛を赤く染めて まげを結っていた、という 意味だと思うんだけど……どうだろう? 司馬光の方が専門家なわけだし、 資治通鑑の解釈を是とした方が いいと思います。 民衆を味方に付けて 江夏郡と義陽郡を乗っ取った張昌、 僅かな土豪が反抗を続けるが、果たして。 2022.5.26
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