顧栄伝

6/10
前へ
/118ページ
次へ
陳敏討伐。 5. 屬廣陵相陳敏反,南渡江,逐揚州刺史劉機、丹陽內史王曠,阻兵據州,分置子弟為列郡,收禮豪桀,有孫氏鼎峙之計。假榮右將軍、丹陽內史。榮數踐危亡之際,恆以恭遜自勉。會敏欲誅諸士人,榮說之曰:「中國喪亂,胡夷內侮,觀太傅今日不能復振華夏,百姓無復遺種。江南雖有石冰之寇,人物尚全。榮常憂無竇氏、孫、劉之策,有以存之耳。今將軍懷神武之略,有孫吳之能,功勳效於已著,勇略冠於當世,帶甲數萬,舳艫山積,上方雖有數州,亦可傳檄而定也。若能委信君子,各得盡懷,散蒂芥之恨,塞讒諂之口,則大事可圖也。」敏納其言,悉引諸豪族委任之。敏仍遣甘卓出橫江,堅甲利器,盡以委之。榮私于卓曰:「若江東之事可濟,當共成之。然卿觀事勢當有濟理不?敏既常才,本無大略,政令反覆,計無所定,然其子弟各已驕矜,其敗必矣。而吾等安然受其官祿,事敗之日,使江西諸軍函首送洛,題曰逆賊顧榮、甘卓之首,豈惟一身顛覆,辱及萬世,可不圖之!」卓從之。明年,周圮與榮及甘卓、紀瞻潛謀起兵攻敏。榮廢橋斂舟于南岸,敏率萬餘人出,不獲濟,榮麾以羽扇,其眾潰散。事平,還吳。永嘉初,徵拜侍中,行至彭城,見禍難方作,遂輕舟而還,語在紀瞻傳。 (訳) 広陵の相・陳敏(ちんびん)の反乱に属して 南へ長江を渡ると、 揚州刺史の劉機(りゅうき)と丹陽內史の王曠(おうこう)を 追い出し、兵によって州を占拠した。 子弟を分けて配置して列郡を為し 礼によって豪傑を集める様には 孫氏が鼎立していた時代の計略があった。 顧栄は右将軍、丹楊内史に仮された。 顧栄は滅亡の危機に幾度か立たされたが 常に恭遜を以って自らを奮い立たせた。 ちょうど陳敏は 諸士人を誅戮しようと考えており 顧栄は彼に説いた。 「中原は喪乱し、胡夷が 国内を武力で侵略しておりますが、 太傅を観ますに、今となっては 華夏を再び振るわせる事かなわず、 百姓が跡継ぎを遺す事も出来なくなりました。 江南は石冰(せきひょう)の侵略が有ったと雖も 人物はなお健在であります。 栄は竇氏・孫・劉の如き策のなき事を 常に憂えてまいりましたが、 これを生存させる方法がございます。 今将軍は神の如き武略を抱き 孫呉の材能を有しておられ 功勲はすでに顕著、武略は当世随一であり、 武装兵は数万、舳艫(じくろ)は山積みとなり、 お上がまさに数州を占有していると雖も なお檄を伝えて平定する事が可能です。 もし君子を信任する事が出来れば 各々を盡く懐附させる事がかない、 蒂芥の恨み(内心の不満)を散らし、 讒謗の口を塞ぐこととなり、 則ち大事を図ることが可能となりましょう」 陳敏はその進言を納れ、 豪族らの悉くを引き連れて これ(顧栄?)に委任した。 陳敏はかくて甘卓を横江へ出向かせ 堅甲・利器(いい鎧と武器)の 盡くをこれに委ねた。 顧栄は密かに甘卓に述べた。 「もし江東を救済できるなら 共にこれを成そうと考えている。 しかるに卿は情勢を観望しているが 切り抜ける理非は有るのか? 陳敏は凡才でもとより大略などなく 政令は反覆し、計画が定まっておらぬのに 彼の子弟はそれぞれ驕り高ぶっており その敗北は必至である。 我らは寧然とその官祿を受けているが 事が破れた日には、江西の諸軍が 『逆賊の顧栄と甘卓の首』と題して 首を(はこ)詰めにし、洛へと送るだろう。 どうして一身のみが 転覆するだけに止まろう、 辱めは万世へと及ぶ。 図らずにはいられんぞ!」 甘卓はこれに従った。 翌年、周圮と顧栄、及び甘卓は 紀瞻の密謀により 兵を挙げ、陳敏を攻めた。 顧栄は橋を壊し、 船を集めて岸を南下したため 陳敏が一万余人を率いて出撃しても 捕える事も渡過する事もできなかった。 顧栄が羽扇で指図をすると 陳敏の軍勢は潰散していった。 事が済んだのちは、呉に帰還した。 永嘉年間の初めに 徵されて侍中に拝され 彭城へと向かったが、禍が 今にも起ころうとしているのを見て 結局軽船に乗って帰っていった。 この事は「紀瞻伝」にて語られている。 (註釈) 「若江東之事可濟,當共成之。然卿觀事勢當有濟理不?」 の訳がいまいちわからんかった。 あとは多分合ってると思います…… 司馬家に見切りをつけた顧栄は 揚州で旗揚げして 第二の孫権の座を狙う? が、首魁の陳敏に 器量なしと見て、切り捨てた。 陳敏の列伝は100巻に 王弥やら張昌と一緒に載ってますが、 「榮廢橋斂舟于南岸,敏率萬餘人出,不獲濟,榮麾以羽扇,其眾潰散」 とあるように、 三國無双の諸葛亮みたいなノリで めっちゃ鮮やかに倒しています。 カッコいいな。 「孫・劉」は 三国時代の孫呉と蜀漢だろうけど 「竇氏」ってのは誰を指してるんだろう? 光武帝に味方して 大した損害もなしに 高位にのぼった(とう)氏か。 確かに、勝ち馬に乗るタイミング 絶妙だったイメージがあるけども。 その後、永嘉年間に 中央から招聘を受けたが さすがに危険を察して呉に帰った。 そのまま行ってたらたぶん 石勒や王弥に殺されてたでしょう。 弱冠で呉に仕えたとあったので 年齢的にはもう50から60の筈ですが 判断は冴え冴えです。 2022.6.2
/118ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加