顧栄伝

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顧栄、死す。 8. 六年,卒官。帝臨喪盡哀,欲表贈榮,依齊王功臣格。吳郡內史殷祐箋曰:昔賊臣陳敏憑寵藉權,滔天作亂,兄弟姻婭盤固州郡,威逼士庶以為臣僕,于時賢愚計無所出。故散騎常侍、安東軍司、嘉興伯顧榮經德體道,謀猷弘遠,忠貞之節,在困彌厲。崎嶇艱險之中,逼迫奸逆之下,每惟社稷,發憤慷愾。密結腹心,同謀致討。信著群士,名冠東夏,德聲所振,莫不回應,荷戈駿奔,其會如林。榮躬當矢石,為眾率先,忠義奮發,忘家為國,歷年逋寇,一朝土崩,兵不血刃,蕩平六州,勳茂上代,義彰天下。伏聞論功依故大司馬齊王格,不在帷幕密謀參議之例,下附州征野戰之比,不得進爵拓土,賜拜子弟,遐邇同歎,江表失望。齊王親則近屬,位為方嶽,杖節握兵,都督近畿,外有五國之援,內有宗室之助,稱兵彌時,役連天下,元功雖建,所喪亦多。榮眾無一旅,任非籓翰,孤絕江外,王命不通,臨危獨斷,以身徇國,官無一金之費,人無終朝之勞。元惡既殄,高尚成功,封閉倉廩,以俟大軍,故國安物阜,以義成俗,今日匡霸事舉,未必不由此而隆也。方之于齊,強弱不同,優劣亦異。至於齊府參佐,扶義助強,非創謀之主,皆錫珪受瑞,或公或侯。榮首建密謀,為方面盟主,功高元帥,賞卑下佐,上虧經國紀功之班,下孤忠義授命之士。夫考績幽明,王教所崇,況若榮者,濟難甯國,應天先事,歷觀古今,未有立功若彼,酬報如此者也,由是贈榮侍中、驃騎將軍、開府儀同三司,諡曰元。及帝為晉王,追封為公,開國,食邑。 (訳) 六年、在官中に卒した。 帝は葬式に臨んで哀しみを尽くし、 斉王の功臣としての格に依りて 顧栄への追贈を表さんとした。 呉郡内史の殷祐(いんゆう)(てがみ)にて述べた。 「昔、賊臣の陳敏は 恩寵を(たの)み、権威を()りて 天まで(はびこ)る程の乱を作し、 兄弟姻戚が入り乱れて州都を固め、 士庶に威をもって(せま)る事で 臣下や下僕と為しており、 当時は賢者も愚者も 計を出す所がありませんでした。 もとの散騎常侍、安東軍司、 嘉興伯の顧栄は、徳義を(つね)として 自ら正道を履みおこない、 謀略は遠大で、忠貞の節義は 困難に在りてますます (はげ)しくなりました。 艱険の中に崎嶇し 奸逆の下に逼迫しながら 常に社稷の事を(おも)い、 憤りを発して慷慨しており、 密かに腹心と結び 共謀して討伐に至ったのです。 信義は群士の中で著明となり、 名望は東夏に冠絶して、 徳声の振るわれる所に 応答せぬ者はなく、 戈を荷い駿馬を奔らせる者が 会同する様は、あたかも 林の如くにございました。 顧栄は躬ら矢石に当たり、 衆人の為に率先し、 忠義を奮い起こして 家庭を忘れて国家の為を思い、 年を歴た流賊も一朝にして土崩させ、 刃を血に塗れさせずに勝利を収め、 六州を平定いたしました。 勲は上代よりも(すぐ)れ、 義は天下に彰らかでございます。 伏して論功を聞きますに もとの大司馬斉王の格に 依られるとの事ですが、 帷幕におらずして 密謀参議を行った例と 州を下付して 野戦に赴いた事を比較すれば 爵位を進め封土を拡張して 子弟へと賜らねば 遠近は同様に(なげ)き 江表は失望してしまいます。 斉王は位は方嶽を為し 節をついて兵権を掌握し 近畿をすべて監督して 外部には五国の援護があり 内部には宗室の補助があって 挙兵から時久しくして 役は天下に連なり、 元勲を建てたと雖も 喪う所もまた多かったのです。 顧栄の手勢は一旅もなく 任は藩屏程ではなく 長江の外部に孤絶して 王命も伝わらぬ状況でしたが、 危険に臨みて独断し 身を以て国に殉じて 官品は一金の費なく、 人品には終朝の労もありませんでした。 元締めの悪を殄滅した後 高尚なる功績を成し 倉廩を閉め切って大軍を俟ったため 国は安定し、万物は豊かとなりました。 義を以て好き風俗を形成し 今日の覇道を匡け挙国に事え、 この事に由らずば間違いなく (東晋の)隆盛はありませんでした。 彼と斉王を(なら)べるに 強弱は同一でなく 優劣もまた異なるのです。 斉王の役府で参謀補佐に至り 義・強を扶助した者は 創謀の主にあらずとも 皆、めでたき錫珪を受けて 或いは公、或いは侯になりました。 顧栄は初めに密謀を建て 方面の盟主となり 功績は元帥よりも高いものです。 卑しき者(司馬冏)を賞して 佐けし者(顧栄)を低く見れば、 上は経国や功績を記す班を 欠くこととなり 下は忠義や命を受けた士を 孤立させることになります。 そもそも幽明(優秀か否か)を 考査する事で、王の教化は 尊崇される所でありまして、 況してや顧栄のごとき 者ならば尚更でございます。 艱難を救い国を安寧にし 天に応じて 古今の者を暦観しても いまだに彼ほどの功績を打ち立て かくの如くまで酬報した者はおりません」 この事に由り顧栄に 侍中・驃騎将軍・開府儀同三司の位が 追贈され、「元」と諡された。 帝が晋王となるに及んで 追封されて公となり、 開国され、食邑を与えられた。 (註釈) 「不在帷幕密謀參議之例,下附州征野戰之比」 「至於齊府參佐,扶義助強」 「上虧經國紀功之班」らへんの訳が ちょっとあやしい。 要約すると、功績については 顧栄>>司馬冏なんだから 司馬冏基準で顧栄に追贈するの やめたほうがいいですよ、って事かな。 顧栄が評価されれば 江南人士の発言力も高まるだろうしね。 孫権と東晋の皇帝とで 江南の名士との付き合い方を 比較してみると、 見えてくるものがありそうです。 2022.6.5
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