邵続伝

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1. 邵續,字嗣祖,魏郡安陽人也。父乘,散騎侍郎。續樸素有志烈,博覽經史,善談理義,妙解天文。初為成都王穎參軍,穎將討長沙王乂,續諫曰:「續聞兄弟如左右手,今明公當天下之敵,而欲去一手乎?續竊惑之。」穎不納。後為苟晞參軍,除沁水令。 (訳) 邵続(しょうぞく)は字を嗣祖(しそ)、魏郡安陽県の人である。 父の邵乗(しょうじょう)散騎侍郎(さんきじろう)であった。 邵続は朴素で烈しい志操を有し、 経史を博覧しており、 善く理義について談論し 天文の理解に明るかった。 当初は成都王・司馬潁(しばえい)の参軍となり、 司馬潁が長沙王・司馬乂(しばがい)を 討とうとした際、邵続は諫言した。 「続は、兄弟は左右の手の如くと 聞き及んでおります。 今、明公は天下の敵に当たっておりますが 片腕を取り去ろうとなさるのですか? 続は密かに、この事に当惑しております」 司馬潁は納れなかった。 その後、邵続は苟晞(こうき)の参軍となり 沁水の令に除された。 (註釈) 邵続も八王の乱に巻き込まれた一人。 上司がだいたい石勒にやられてしまう 可哀想な役回りの人です。 成都王・司馬穎は、武帝の子。 曹操が五箇所に分けていた匈奴を 一箇所に集めてしまうという 結構な暴挙をやらかして 劉淵(りゅうえん)に独立のきっかけを 与えてしまった。 司馬穎がコケた後は 「屠伯」こと苟晞(こうき)の部下になった。 県令に任じられた沁水県は 司州河内郡に属する。 苟晞のホームも河内郡の山陽県。 苟晞は司馬越の侍中から 司州陽平郡の太守、行兗州刺史、 (左遷されて)領青州刺史。 官渡で汲桑・石勒に勝利したが 蒙城で石勒と再戦、敗れた。 更に謀反を起こそうとして落命。 2022.7.20
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