初めての住人

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初めての住人

その一 住人の個人情報をむやみに詮索してはいけない。 その二 勤務時間外に働いてはならない。 その三 住人の部屋にはあがってはならない。 契約会社の社長からもらった紙を見つめながら、ほたるは電車を降りた。 駅の横にはスーパーマーケットがある。家に着けば買い物に行く元気もなくなってしまうかもしれない。キャリーケースの上に置けばまだ運べるな、とペットボトルのお茶やパンをいくつか買っておくことにした。 道すがら薬局もコンビニも見つかった。日が少しだけ傾いたこの時間は親子連れや学生達でさかえている。 駅から歩いて15分。ここまでくると辺りは住宅地になって人通りもまばらだ。 一軒家やアパートが立ち並ぶ静かな通りを進んでいくと、ようやくお目当ての建物を見つけた。 外見は築20年の古びたアパート。建てたころはおしゃれだったのだろう、一階はクリーム色、二階はチョコレート色のまるでケーキのような塗装だ。しかし、クリーム色は汚れて二階部分と変わらない。壁は洗えないもんなと思いながら、事前にもらった鍵で101号室を開ける。 「失礼します……」 これから自分の家になるのに思わずおじゃましてしまった。靴を脱ぎスーツケースをごろごろと転がし進んでいく。玄関から続く廊下には小さな台所があって、二口コンロと冷蔵庫がある。 契約する時に家財道具は以前住んでいた祖母がそのまま残してくれていると聞いていた。冷蔵庫もテレビも洗濯機も残してある。すぐに生活が始められるのはありがたい。 台所を過ぎると少し広い部屋のある1DK。テレビと食事がとれるようなローテーブル。そして、壁際にデスクもある。押し入れも広く収納は十分だ。スーツケース1つしかない自分の荷物には大きすぎるくらい。 部屋の窓を開けると小さな庭が見えた。洗濯物もよく乾きそうでいい場所だと思う。吹き抜ける風が気持ちいい。 窓は大きいものが一つ。落ち着いたレースのカーテンと黄色のカーテンがついている。 窓を開けると小さなベランダとそれに続く庭。洗濯物は十分干せそうだ。 心地いい風が吹き込んでくるのでそのまま開けておくことにした。 自分しかいない部屋には風邪で揺れるカーテンの音と服が擦れる音しかしない。あまりに静かすぎてそわそわしてしまう。そういえば、クラス替えをしたばかりの教室もこんな感じだったなと思い出した。 「さてと……」 ぐいっと伸びをして、まずは片付けから始めることにした。 まずは先ほど買ってきたものを冷蔵庫に入れることにした。シンクの隣にある冷蔵庫は腰くらいの高さしかないので物を入れるためには座らないといけない。ほたるは買ってきたものを床に置き、正座をして冷蔵庫のドアを開けた。ひんやりとした空気が顔を包む。スーパーの袋から取り出したペットボトルのお茶を詰め込んでいく。 すると、玄関のドアノブが一度動いた。 「……え?」 顔がこわばる。体が固まった。小さい音だったが、静かすぎる室内には十分すぎた。 冷蔵庫からくる冷気が逆に体に這って寒い。 その場から動けずに固まっていると、ノブがガチャガチャと動く。外側から誰かが開けようとしているようだ。 治安が悪いとは聞いていないけど、と思いながらほたるは意を決した。冷蔵庫から玄関へと足音を立てずに向かった。ごくりと唾を飲みこんで、のぞき穴を覗いた。 そこには若い男が一人立っていた。 金髪にピアス、襟首の大きく開いた白いシャツ。 年齢はほたると同じくらいに見えたが、ほたるとは違って見るからにガラが悪い。 ほたるは思わず自分の服装を見直す。 染めていない黒髪、なめらかな生地で首元がしっかりとした丸襟のシャツ。足の見えないロングスカート。清楚というか地味とよく言われるその服装を。そしてもう一度の簿記穴の向こうの男を見る。何度見てもやばいやつだ。 どうしよう。何者だろうか。開けないでおこうと思っていたのだが、 「おい、ばばあ!いるんだろ」 近所に響き渡る声だ。その風貌から借金取りかもしれないと思った。もちろんほたるには借金はない。もちろん祖母だって借金はしていないはずだ。しかし、自分の知らないところで誰かの借金を肩代わりしているのだとしたら、もうここには住んでいないことを伝えないと、また別日に来られるかもしれない。 ほたるは意を決してノブを回した。キィ……と軋む音がしてドアがゆっくりと開く。 金髪男はほたるを睨みつける。 ほたるの頭は彼の肩までしかなく、見上げるしかない。 「ど、どちらさまですか?」 「ああ?あんだ誰だ?」 同時だった。思ったよりも低くてドスのきいた声。 「……」 縮みあがってしまって答えることができない。 しばらくの沈黙ののち、先に口を開いたのは金髪男だった。 「……ここに住んでいるのは、ばばあだろ?」 彼もまた、ほたるの登場に戸惑ったようだ。 「あの、それは私の祖母だと思います。私は今日引っ越してきたばかりなので……」 「ばばあの孫?」 「ええ」 「ああ……そう言えばそろそろ変わるって言ってたな。じゃあ、あんたが新しい管理人か」  そう、ほたるはこのアパートの雇われ管理人なのだ。 「……そうですけど」 金髪男は、ふうんと言いながらほたるを値踏みするように見た。 「な、なんですか……」 「俺の部屋の前の電球がきれちまってさ。管理人のばばあに新しい電球もらおうと思ってき  たんだけど」 「住人の方ですか?」 「だったら?」 「……分かりました。少しお待ちください」  ほたるは部屋に戻り押し入れに向かう。押し入れの中に大きな箱があった。契約時に教えてもらったものだ。ステンレスの箱を開けると工具や電球などが入っている。組み立て式の踏み台も見つけて一緒に持っていく。 「場所、案内していただけますか?」 「……おう」  正直、ガラの悪い住人がいることは嫌だったが、これがほたるの初仕事だ。 金髪男の後に続いて、カンカンと音が鳴る金属の階段を上がり、二階に行く。年季が入っている。すこしさびている。このさびを綺麗に落とせたら掃除のし甲斐があるな。先を進んでいた足音が止まる。 「おい、何考えてんだよ」  ざらざらとした手すりを撫でていたので不審な目で見られてしまった。男は、手すりを見ると、ああと納得したようにつぶやいた。 「ばばあはもう歳だったからな。力仕事とかはあんまりしなかったから、やりがいがあるだろ」 「そうですね」  まるでこちらの心を読んでくるようだ。 「なあ、あんたいくつだ?」 金髪男はぐいぐいと聞いてくる。 「……27です……」 「年上じゃねえか、見えねえな」  年齢相応に見られないことはよくあることだった。童顔なのだ。大学生に間違えられるのは悪い気はしなかったが、経験が重要視される前職では若く見られることは必ずしもいいことばかりではなかった。 「……すみません」  昔の癖で、つい謝ってしまう。 「あー、いや、別にいいけどよ」 金髪男はバツが悪そうにガシガシと髪をかき上げた。金色のネックレスがじゃらじゃらと音を立てて揺れた。  二階に上がると廊下に三部屋が続いて見えた。その真ん中の部屋の前に電気のついていない電球がある。 「これですね」 「ああ」 ほたるは、電球の下に踏み台を置き、その上に登った。 「届くのか?」 「ええ、たぶん」 身長は160センチだ。前職では背の高い方だったので、何でも一人でできた。だから、たぶん 「あ、届きましたよ」 少し背伸びをすれば電球に手が届いた。電球はほこりが吸い付いてべたべたしている。ぞうきんを持ってくればよかったと後悔したがもう遅い。きゅるきゅると回して外す。新しい電球を取り出そうとしたが、手がふさがってしまい、箱が開けにくい。 「持っとくよ」 金髪男が手を差し出したので、すみませんと言いながら古い電球を渡す。 フリーになった両手で箱を開け、ビニル袋を開け、新しい電球を取り出した。 割らないようにと慎重に、また少し背伸びをして電球を取り付ける。接続が悪くてなかなかつかなかったが、 「あ、ついた」 ぴかっと光ったのがまぶしくて、思わず目をつぶる。 足元がぐらりと揺れた。落ちる……!と思ったが、衝撃は訪れなかった。 「大丈夫か?」 金髪男が背中を支えてくれていたおかげで、落ちずに済んだ。背中に感じる手のひら。大きくてあたたかい。 「あ、ありがとうございます」 少し、どきまぎしてしまった。 「お、おう……」 顔を背けられたが、耳が赤い。照れているのはお互い様だとわかって、少し安心した。 ぴょんと踏み台から降りる。ありがとうございました、と言って古い電球を受け取った。それを箱に入れていると 「ばばあは電球くらい自分で変えろって言ってたから、まさかお姉さんが自分で変えてくれるなんて思ってなかったよ」 と言われた。 「はあ……」 そうはいってもこれは管理人の仕事だ。住人にさせるわけにはいかないだろう。 「まあ、たすかったよ」 金髪男はガチャリと自分の部屋の扉を開いた。 「あ、お姉さん今日来たばっかりなんだろ?なんか食ってく?」 「いいえ、お気遣いありがとうございます」 「なんだ、かてえな。これから一緒に住む仲間なんだから仲良くしていこうぜ」  仲間、という言葉が心に刺さる。 「いえ、住人の方のお宅には上がらない契約なので」 「契約?なんか分からないけど変なもの結ばされてるんだな」 金髪男は首を傾げ、じゃあなと部屋に入っていった。 不思議な住人だった。 いったいいくつなのだろう。ほたるのことを年上と言ったのだから年下には違いないだろうが……。25くらいだろうか。  一階に降り、荷物の片づけを始めた。先ほどのように住人から電球を変えてくれと言われることがあるだろう。その時にすぐに動けるようにと、押し入れの奥に入っていた用具セットを手前に置いた。スーツケース1つ分の荷物をその奥にいれると、30分ほどで片づけがすんでしまった。 引っ越しというのは山盛りの段ボールを数日かけて片付けていくイメージだったから、あまりのあっけなさに驚いてしまう。 そもそもすべての荷物をスーツケースにまとめて、逃げるようにあの町を出て行った自分が悪いのだが。 「まあ、こんなもんかな」 デスクの横にある上着かけにかけた上着のポケットから契約書を取り出す。契約書には続きがあった。 その四 住み込み業務を推奨する。 その五 業務は掃除が基本、余計なことはしないこと。 その六 地域の行事ごとには積極的に参加すること。 変な契約だとは思うが、従えないほどではない。地域の行事に参加することは前職でもよくあったことだ。その五の「余計なこと」とはなんなのかが明確にされていないことが怖い。
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