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「もし、坪井がこの〈カプグラ症候群〉であったとするのならば、家に押しかけてきて馴れ馴れしくしてくる実の弟と妹を他人だと誤解して、かっとなって殺してしまうこともあるかもしれない。半年ほど、そんな風に付き纏われればノイローゼ気味にもなるだろうしね。この病気だと立証できれば、坪井には犯行当時事理弁識能力がなかったと無罪が言い渡されるおそれもある」
「でも、それだったらアリ慧ちゃんは起訴しないんじゃあ……」
「坪井は実の弟妹を別人だと誤解して殺した。でも、奥さんは殺さなかった。仲がいいはずの奥さんを別人と思わないのに、どうして〈カプグラ症候群〉を主張できるんだい?」
「あ、そうか……」
「この病気の特徴は、親しい知人や家族が別人に見えてしまうという精神的なものなんだ。だったら、当然、結婚して二年余りとはいえ、一緒に暮らしている奥さんは新婚期間が過ぎても親しすぎる相手といえる。真っ先に別人に見えこそすれ、そのままというのはあり得ない」
「そりゃあ、まあそうですね」
「だから、そこの矛盾を捉えて、長谷川検事は坪井が佯狂だと推理したんだ」
坪井には、殺された弟妹と妻以外には親しいものはいない。
だから、他にも〈カプグラ症候群〉で別人に見える人がいたとは証明できない。
坪井にとっては、弟妹だけが別人見えたというのはこの病気の定義からするとあり得ない。
「ところが、坪井の弁護士側はそこを精神鑑定によってはっきりさせれば勝てると踏んでいる。万事自信たっぷりの長谷川検事が嫌な予感を覚えるほどにね。そこで、君に再捜査を命じたんだ。なにかあるのかも、と」
ようやく繋がった。
アリ慧にしては珍しいと思ってたんだけと、よもやそういうことだったとは。
だったら、最初から説明してくれればいいのに。
そうすればこっちも下手な頭を使わずに済んだのだ。
「それでは、僕は坪井が〈カプグラ症候群〉ではないということを立証できる証拠を見つければいいんですか? でも、それって悪魔の証明だなあ」
「いや、それは必要ない」
「どうしてですか?」
「間違いなく、坪井巳一郎は〈カプグラ症候群〉の患者ではないからだ」
さすがに驚いた。
ブレーキの代わりにアクセルを踏みそうになる。
「え、どういうことですか?」
なのに警視は平然と指示した。
「それを証明するために、坪井の妻に会おうというんだよ。あと、少しパトカーを止めてくれたまえ。連絡しなくてはならない事項があるのでな」
―――事件は僕のわからない方向に向かおうとしていた。
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