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◇
それからサーシャは急降下することなく『中立の家』の上空を大きく旋回しながら高度を落としていった。その十分にも満たない時間は正に空中散歩と呼ぶにふさわしい時間だったと思う。改めて空を自在に飛べるというのは羨ましく思ったりもした。
やがて部屋に辿り着いたサーシャは丁寧に俺を下ろしてくれた。たった数分の時間浮かんでいただけなのに、自分の足で体重を支えるのが何だか不自然に感じる。
「それでは、出動の時間まで準備を始めましょう」
凛としてそう言ってくれるサーシャには悪いのだけれど、俺としてはまだ聞きたい事があるのだ。
「もう少し聞きたい事があるんだけど、大丈夫?」
「ええ。勿論です、何でしょうか?」
「『サモン議会』の事じゃなくて、サーシャの事をもっと知りたいんだけど」
「え? わたくしの事をですか?」
「うん」
「履歴書でよければ事務室に用意がありますが」
「そういうのも確認は必要だとは思うけど…」
思わず気が抜けてしまった。実際、ガクッと膝が折れた。真面目すぎる故に少し抜けたところがあるのかもしれない。ならばもっと言葉正しく伝えるまで。
「例えば天使族の事とか?」
「どのような?」
「ええと……さっきも気になったんだけどサーシャの翼の大きさって変わってない?」
さっき飛んでいたときと比べて明らかに小さくなっている。まあそれでも十分すぎるくらいの大きさではあるのだけれど。ここまで部屋にモノを置かないのは翼が邪魔になるって理由もあるかもしれない。
「ああ、それですか? わたくし達、天使の翼は魔力を調整することである程度の大きさを変えられるのです」
「へえ」
「こうして室内で過ごす時にも大きいと何かと不便ですからね。とは言ってもこのくらいの小さくするのが精一杯ですが」
「あれ? それなら小さくすれば狭い所でも飛べるんじゃないの?」
「それは無理です。飛ぶために最低限の大きさというモノもありますから」
「あ、そっか」
「しかし、うっかりしていました。今後わたくしをウィアード討伐に活用して頂くためには、そう言ったこともお伝えすべきでしたね」
「え?」
どういうこと? と聞く前にサーシャは意気揚々と語り始めた。
「わたくしは剣も使えますが、やはり直接的な戦闘は不得手と言わざるを得ません。どちらかといえば白と青の魔法を使って敵を拘束したり、妨害をしたりするのが得意です。しかし…」
「しかし?」
「それもウィアード相手には何の役にも立たないでしょう」
「まあ、分は悪いかな」
この世界の妖怪相手に魔法が通用しないのは既に周知の事実。だからこそ、俺に価値を見出してもらえたわけだけど。サーシャからしてみれば、手をこまねくばかりで消沈してしまうのも仕方がないことだろう。
「ですが、それは他の派遣されてきているギルド員も同様です。なので他の皆さんとの差別化という点では…わたくしを防御防衛にお使いいただくのも手かもしれません」
「防衛?」
「はい。今しがた天使の羽は魔力で大きさを変えられると説明しましたが、飛ぶ以外にもこういう使い方があります」
サーシャはそう言いながら俺に歩み寄ってきた。そして再びギュッと抱きしめられた。さっきと違うのは足が床から離れなかったことだ。代わりに彼女の背中の翼が大きく膨らみ、俺ごと包み込むように閉じてしまう。さながらサーシャと一緒に巨大な繭の中に入ってしまったようだった。
「この翼での防御性能は魔法、物理の両面から見ても、今回派遣されてきている十人の中で最も強固であるという自信を持っています」
「確かに、凄いなこれ」
「それと治療にも使えます」
「治療…?」
「こうして包み込めば翼の中に魔力が充満して、極めて効率的に傷病を治癒させることが可能です」
翼の内側にはサーシャの発した白の魔法が満ちている。それは見る見るうちに体に染みこみ、不思議な多幸感に溢れていく。心なしか花の香りも漂ってきたような気さえする。それくらいの安らぎがあった。
例えるなら母親の腕の中で何の心配もなく眠る赤ちゃんのような心境だ。つまりはアレだ、いわゆるバブみってやつか?
腕の温かさと鼻をかすめる香気とで、いつの間にか睡魔に対抗する術をなくしてしまった。気が付いた時には俺は意識を手放して夢の世界に入ってしまう。連日、睡眠時間を削ってでも作業をしていたのも災いした。
「あれ? ヲルカ君? ヲルカ君?」
俺を起こそうとするサーシャの声と肩から伝わってくる揺さぶりすら心地いい。軽い揺さぶりくらいでは微睡は一向に覚めず、結局は『グライダー』の事件を捜査するために出かけるまでずっと眠りこけてしまった。
しかも起きた時、サーシャが腕枕をしてくれていたので心臓が止まりそうなほどビビった。いくら声をかけても起きない俺を投げ出すわけにもいかず、仕方なく自分の寝室に運んで寝かせてくれたらしい。
サーシャの寝室は隣のリビングと同じくらい何もない部屋だった。だからこそ枕元に置いてあるぬいぐるみの存在感が凄かった。これほど無駄を省いて生活している彼女がぬいぐるみを持っているということはそれほど大切な一品なのだろう。本人の厳格さと相まってのギャップが激しく、やけに可愛らしく思えてしまった。
それと同時になぜかヤーリンの顔が頭に浮かんでしまい、俺はお礼を言いながらいそいそと部屋を後にして、大急ぎで出発の準備を整えた。
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