9章 ただいま

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9章 ただいま

 学校から電話があった。私が犯罪者の娘だと知られてから休んでいたのだが、このままでは単位が足りなくなるので、今後のことを話し合いたいとのことだった。 『ご両親と一緒に』と言われたのだが、お母さんは朝陽くんと会った日から、私を見るなり『あの子と関わるんじゃないよ』と、そればかりだ。今までどんな理不尽な扱いを受けても耐えてきたというのに、朝陽くんといたいという些細な私の願いすら受け入れてくれないお母さんに、心がささくれ立っていた。 「陽菜、制服着てどこに行くのよ? 学校、ずっと休んでたじゃない」  玄関で靴を履いていると、お母さんが慌てたように駆け寄ってくる。今までなら私がどこへ行こうと興味なかったくせに、そんなに朝陽くんに関わってほしくないのか。 「……呼び出されたの。このままじゃ卒業できないって」  お母さんを視界に入れないようにしながら、つま先をトントンと慣らし、ローファーに踵を入れた。そのままドアノブに手をかけると、お母さんに腕を掴まれる。 「……なに」 「あの子がいるから、学校に行くんじゃないわよね?」  ため息をつき、私は「いい加減にして!」と、お母さんの腕を振り払った。 「私が目が見えなくなるって先生から言われてショックを受けてたときも、生活費に手術代……お金が必要で必死に働いてるところを学校の人に見られて、貧乏だって笑われたときも、そばにいてくれたのは朝陽くんだった!」  突然叫んだ私に、お母さんは気圧されたように動かなくなった。 「ひとりで生きていかなきゃって、そう思ってた私に、誰かに寄り掛かってもいいんだよってこと、教えてくれたのは朝陽くんだったんだよ!」 「でも、 あなたは全部を知ったんでしょう? あの子の身内がお父さんや私たちになにをしたのか!」 「うん、そうだよ」  お父さんの刑務所の場所を聞いた辺りから、私が真実を知ることをお母さんは予感していたのかもしれない。朝陽くんと一緒にいたことで、きっとそれを確信した。 「どうして逆の立場で考えられないの? 私たちは加害者家族だからって、なにもしてないのに関係のない人たちからも責められた。そのつらさがわかってて、どうして青砥聖也さんのお兄さんだからというだけで朝陽くんを拒絶するの?」  同じ経験をしていても、なぜだか人間は相手の痛みに鈍感だ。 「お母さん、これから先……目が見えなくなる私は諦めなくちゃいけないものが増えていくんだと思う」  将来の夢を決めるときや道を歩くとき、高校や家庭での生活……今まで当たり前にできていたことが、当たり前に選べたことが、私にとっては特別になる。 「だけどね、朝陽くんのそばにいることだけは絶対に諦めないって決めてるの。心からそばにいたいって思えた人だから、朝陽くんの手だけは絶対に離さない」 「世界には腐るほど人がいるのに、どうしてあの子じゃないと駄目なのよ……」  私にしがみつきながら、お母さんは崩れ落ちるように座り込んだ。 「どうしてだろう。世間の人たちが揃って私に背を向ける中、朝陽くんだけはずっと私を見ていてくれたから……かな」  うん、きっとそうだ。自分の言葉が胸にすとんっと落ちてくるのを感じながら、私はお母さんに背を向けて家を出た。 ***  私の噂は学校中に知れ渡っていたようで、好奇の視線を浴びながら職員室の前までやってきた。  隣には朝陽くんがいる。朝陽くんと薫には、学校に行くとメッセージを送っていた。すると、朝陽くんがアパートの下まで迎えにきてくれたのだが、驚くべきことに先生に呼び出されていたのは私だけではなかったのだ。 「なんで朝陽くんまで呼ばれたのかな」 「僕たちの関係が知られたのかも。事件の関係者だって」  生徒たちのざわめきが遠くで聞こえる中、私たちは川辺でもそうしたように手を取り合う。  私は深く息を吐き、なんとか気を鎮めようとするが、手足の震えが止まらなかった。そんな私に気づいた朝陽くんは「大丈夫」と繋いだ手に力をこめる。 「なにかあれば、ここから連れて逃げるんで」 「朝陽くん……」  張り詰めていた頬が緩んだとき、朝陽くんの手も震えているのに気づいた。  私は、なんて馬鹿なんだろう。朝陽くんだって怖いんだ。これから突き付けられる言葉はなんなのか、この部屋から出てくるときも私と朝陽くんの関係は変わらずにいられるのか。 「朝陽くん、大丈夫だよ。なにかあれば、私もここから朝陽くんを連れて逃げるから」  彼がしてくれたように、私も朝陽くんの手を強く握る。私たちはなけなしの勇気を振り絞って、目の前の扉をノックし、中へと足を踏み入れた。その瞬間、先生たちはぱたりと会話をやめ、一斉にこちらを向いた。  咎めるような厳しい視線や好奇の視線が無数にたかれるフラッシュのように、無粋に私たちへと注がれる。 「あ……三葉さん、百瀬くん、ここじゃなんだから……こっちに」  パーテーションの向こう側に連れてこられると、長机と席がいくつか用意されていた。  朝陽くんの隣に座れば、目の前には学年主任の前澤先生、そして私と朝陽くんのクラス担任がそれぞれ並んでいる。  パーテーションの外で他の教師たちが聞き耳を立てているのが静まり返った空気から感じ取れ、胃がきゅうっと絞られるように痛んだ。 「今日、お前たちを呼んだのは、例の……事件に関することの事実確認と、学校側の対応を話しておきたくて……だな」  前澤先生は担任教師たちを顔を見合わせ、それから重い口を開く。 「本来であれば、お前たちの親御さんも交えて話をしなければならないことだ。親御さんはどうして来れないんだ?」  私が「それは……」と言い淀んでいると、朝陽くんが代わりに答えてくれる。 「すべての親が子供を育てる責任を果たせるとは、限らないでしょう? それが理由です」  そうだ、子供を守ってくれる親ばかりじゃない。子供のために戦ってくれて、盾になってくれる強い親ばかりじゃない。見たくないものから目を逸らして、現実から逃げる親もいる。子供よりも自分の保身が大事な親もいるのだ。 「そうか……子供だけでどうにかできることじゃないんだが……お前たちに伝える以外に現状できることがない。今後のことを話してもいいか?」  私と朝陽くんは「はい」と頷く。 「実はな、数日前に高校に記者が来たんだ。四年前にあった小学生の殺人未遂事件の犯人の娘が三葉で、その被害者の兄が百瀬だと」  記者がここにも……。  目がチカチカするほどのフラッシュと、私やお母さんを質問攻めにした記者の姿が脳裏に蘇り、身体が震えた。 「百瀬が少年院に入っていて、それで名前を変えたことは受験のときに聞いていたが、まさか四年前の事件にも関わっていたなんてな」  そんな……朝陽くんが犯罪者みたいに言わないでよ……。朝陽くんが少年院に入ったときの事件も、私のお父さんが捕まったときの事件も、どちらも朝陽くんは被害者なのに。 「それから三葉、ここまでお父さんの事件のことを学校に知られてしまっては、今まで通り高校に通うのは難しいと思う」 「つまり、転校してほしいって……ことですか?」  そう尋ねれば、うちのクラスの担任が言いにくそうに切り出した。 「これはね、あなたと全校生徒のためでもあるのよ。事件のことを知った生徒たちからイジメられるかもしれないし、生徒たちも落ち着かないし……ね? 生徒の親御さんたちからも、学校に対応を急かされてるから……」  私のためと言いながら、犯罪者の娘と同じ学校に通う生徒たちの不安を取り除かないと、保護者から訴えられるので転校してほしいというのが本音なのだろう。 「あとな、もうひとつ確認しておきたいことがあるんだ」  今度は朝陽くんのクラス担任が責めるような目で、私たちの顔を見比べる。 「お前たちが恋人同士……というのは本当か? もし事実なら、被害者の兄と加害者の娘がそういう関係なのはまずいんじゃないか?」 「どうしてですか」  朝陽くんの声に抑揚がなくなり、本気で怒っているのが伝わってくる。 「私たちは親御さんのためにも、一緒にいないほうがいいんじゃないかって思うのよ。だってほら……いい心境とは……言えないでしょう?」  わかるでしょう?と先生は宥めるふりをして、面倒事を連れてくる私たちを責めている。  悔しい……ただ一緒にいたいだけなのに、周りが私たちを引き離そうとする。ただそばにいたいだけなのに、誰からも祝福されないばかりか責められる。  唇を噛んで俯くと、長机の下で朝陽くんが私の手を握ってきた。 「親のため? 僕の人生は僕のものだし、陽菜先輩の人生は陽菜先輩のものです。子供は親を幸せにするために生きてるんですか?」 「百瀬、ちょっと落ち着け。そうは言ってないだろう」  朝陽くんの担任が宥めようとするが、その態度こそが神経を逆撫でする。  私たちが冷静じゃないみたいな言い方をしないでほしい。私たちはいつだって真剣に、自分の大切な者を守ろうとしてる。それを壊そうとするのは、いつだって大人だ。  自分の人生論を演説して、子供を意のままに操ろうとしたり、勝手な価値観を押し付けて、まるでそれが世界の心理であるかのように正論だと洗脳しようとしてくる。  未完成な私たちがその虚言に振り回されて、本当に自分が望んでいるものを手放しそうになりながら、それでも離さないようにと必死に掴み続けることがどれだけ大変なことか、大人はわかっていない。 「先生も、私たちは出会っちゃいけなかったって、そう言うんですか?」  お母さんみたいに、『駄目よ……そんなの認められない……だって、出会っちゃいけなかったのよ……あなたたちは……』と、勝手に私たちの運命を決めつけるの? 「俺たちは疫病神ですか。不幸しか連れてこないって、そう思ってるんですか!」  朝陽くんはお父さんの『お前は疫病神だ……不幸しか連れてこない』という言葉を思い出しているのだろう。 「私たちは先生が考えるよりずっと途方もない時間、私たちなりに罪と向き合ってきたんです。それなのに、まだ足りないんでしょうか? 私たちはもっと傷つかなければ、苦しまなければならないんでしょうか? 周りのことも考えろって、責められ続けなければならないんでしょうか? 私たちは、自分の幸せを望んではいけないんでしょうか?」  言っていて悲しくなってきた。この恋は許されないものなのだろうかと、涙がつうっと頬を伝っていく。 「私は朝陽くんと一緒だから、つらいことも頑張って乗り越えていこうって思えるんです。私には朝陽くんしかいないのに、その希望すら私から奪うんですか?」  唯一の光を奪われてしまったら、私の世界は真っ暗だ。その闇の中をひとりで歩いて生きて行けというのか。 「子供だからって、俺たちの幸せを決めつけるなよ!」  ガンッと長机を叩きながら、朝陽くんが立ち上がる。手が強く握られるのがわかり、私は彼の心を理解した。  ──世界にふたりだけになったとしても……絶対に離れないよ。  朝陽くんの手を強く握り返し、私たちは駆けだす。景色がゆっくりと流れていく中、私はおぼろげな視界に朝陽くんの頼もしい背中だけを映し、学校を飛び出した。 *** 『遠くに行こう。僕たちのことを誰も知らない場所に』  その朝陽くんのひと言で、学校をサボった私たちは電車に乗り込んだ。できるだけ学校から、家から離れた駅で降りる。すると朝陽くんが私の手を引きながら、駅の壁に貼られていた張り紙に駆け寄った。 「陽菜先輩、観覧車がある人気のショッピングモールだって。ここに行ってみませんか?」 「でも……私、遊べる気分じゃ……」  考えなきゃいけないこと、向き合わなきゃいけないことが山積みになっている。それを片付けられないうちは、なにをしてても上の空になってしまうだろう。 「陽菜先輩、この世界は僕たちにちっとも優しくないですよね」 「……うん、そうだね……ちっとも優しくない」 「でも、僕は陽菜先輩に失望してほしくない。こんな世界でも日の当たる場所があるんだって、そう思えるような希望を残したいんです。そのために頑張るから、今日一日、陽菜先輩の時間を僕にください」  朝陽くんはわかってない。朝陽くんがいるだけで、そこは日の当たる場所になるのに。陽だまりのそばにいるみたいに、胸がぽかぽかするのに。 「中学時代に、できなかったことをやろう」 「できなかったこと?」 「デート。僕、中学のときから陽菜先輩のことが好きだったから、いつかは……って想像してたんだ」  彼といる名目がデートに変わるだけで、胸が高鳴る。じわじわと頬が熱くなる私になど気づいていない朝陽くんは、まるで神様に手を合わせるみたいに拝み始めた。 「盛んな高校生の切ない妄想で終わらないためにも、ここはどうか頼みます」 「あ、朝陽くん……こんなところで拝まないで。は、恥ずかしいから!」  私たちは顔を見合わせると、同時に「ぷっ」と吹きだした。 「じゃあ、僕としてくれますか? デート」  差し出される手を照れ臭く思いながら取る。 「うん、させていただきます。デート」  恋人同士のように手を繋いで、ショッピングモールへ向かう。あれほど胸が重たくなるような出来事があったのに、彼と過ごすうちに心も足どりも軽やかになっていった。 「あ、見て先輩。ポメ子がいる」  ショッピングモールの中のペットショップに立ち寄ると、ケージにポメラニアンがいた。朝陽くんが「おーい」と指を動かせば、それを追ってちょこまかと走っている。 「やばい、可愛いって罪だね。ここで何時間でも眺めてられるなあ、私」 「そういえば陽菜先輩んちのポメって、どうしてるんですか?」  朝陽くんの口から我が家の愛犬の名前が出た途端、頭の中で声がした。 『おい。なんだ、その……ポメって』  目の前のポメラニアンが私のよく知っているポメの顔に重なり、嵐のようなデジャブが襲ってくる。 『いなくなっちゃったの……ポメ』  夏の蒸し暑い日、川の土手沿いで私は朝陽くん──夜尋くんと向き合っていた。不機嫌そうな面立ちの彼の手には、どろどろと溶けかけているアイスの棒が握られている。  そうだ、あれはポメが家から逃げ出してしまったときのことだ。必死にポメを探していたところに、彼と遭遇した。 『飼い犬がいなくなったくらいで、よくそんなに落ち込めるな』  そのひと言は、滅多に怒らないと自負していた私でも聞き流せなかった。  青砥夜尋、彼とは同じクラスだったけれど、この時までまともに話したことはなかった。中学では素行の悪さで有名で、周りの人を一切寄せ付けない。『飼い犬がいなくなったくらい』発言に、噂通り冷たくて薄情な人なんだろうなと思った。でも──。 『家族がいなくなったんだから、心配するのは当然でしょう』  カッとなって、そう言ってしまったときの夜尋くんの瞳を見たら考えが揺らいだ。悲しいくらいに無機質だったのだ。親鳥に忘れられ、長らく温かみに触れていない卵のように。  きっと彼には、私が怒っている理由は伝わらない。漠然と、彼との間に越えられない境界線のようなものが見えた気がした。  だけど、怖くて冷たい人だと思っていた夜尋くんは、汗だくになってポメを見つけてくれた。その不器用な優しさや寂しげな目が忘れられなくて、静かな孤独に耐える夜のような彼が気になってしょうがなくなった。  思えば、この時から私は夜尋くんに惹かれていたのかもしれない。 「先輩?」  突然、朝陽くんに顔を覗き込まれて我に返る。 「あ、ごめん、ポメの話だったよね。今住んでるアパート、ペット禁止でね。引っ越す前におばあちゃんちに預けてきたの」  慌てて答えながら、内心動揺していた。今のは私が失っていた記憶だ。  私は朝陽くんと出会ってから、忘れたい過去をあえて掘り起こしてきた。今の私には朝陽くんや薫がいて、死にたくなるほどつらい経験もしてきて、四年前は受け止めきれなかった真実に少しずつ向き合えるようになってきたのかもしれない。だから、眠っていた記憶が目覚め始めた。 「そうだったんですね……陽菜先輩、すごくポメのこと大切に想ってたから、寂しいですよね……」 「うん。私たちが行くと迷惑がかかるから、おばあちゃんちにもなかなか行けないし、今どれくらい歳とったのかな……とか考える。わんちゃんの一年って、人間の四年分なんだよ」  ふたりでペットショップを出ると、手芸屋の前を通りかかる。店頭に並んでいるフェルトキットの前で足を止めれば、また記憶が蘇ってくる──。 『この間、ポメを助けてくれたでしょう? そのお礼がしたくて』  ポメを探してくれた夜尋くんにお礼がしたいと思った私は、無理やり手作りのポメラニアンマスコットをプレゼントした。  学校で話しかけられるのは嫌なのか、夜尋くんは人目を気にしているように見えた。 『周りの目、気にならねえのか? 俺と話してると、お前も不良の仲間だと思われるぞ』  顔はいかついのに、やっぱりその目は寂しげで、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。  ひとりでも平気な人だと思ってたけど、違うんだ。誰かと繋がりたいのに、その見た目のせいで人が離れていってしまう。だけど引き止める方法がわからない、そんなふうに感じた。だから私は……。 『青砥くん、オラオラ系でしょ? だから、せめて可愛いものを持ってたら、怖さも半減すると思う!』  夜尋くんが気にしないように、わざとからかうような口ぶりで言った。  マスコットに『ポメ子』とあだ名をつけた夜尋くんに、『私もそう呼ぶことにしましょう』と言えば、『変なやつだな』とはにかむような笑顔が返ってきた。  夜尋くんが笑った!  あのときの喜びといったら、言葉に例えようがない。それと同時に、こんなふうに笑える彼がいつもムスッとしていなければならないことが気になった。なにが夜尋くんから笑顔を奪っているのか、彼が強がっていなければならない理由を知りたい、ほっておけないと思ったんだ。 「やひ──朝陽くん、 あの変なマスコット、今さらだけど私の手作りだったんだね。それで大事にしてくれてたの?」  涙ぐみそうになり、私は下を向く。すると朝陽くんはポケットからスマホを取り出して、あのいかつい顔をしたポメラニアンマスコットを取り出した。 「この世で唯一の僕の宝物です」 「花壇で会ったときも、そう言ってたよね。なんで唯一なの?」 「父さんから誕生日に貰ったヘッドホンも、生まれ育った家も、家族も、友達も……僕の宝物と言えるものは全部、聖也に壊されたから……。僕の手元に残ったのは、陽菜先輩がくれた、このポメ子だけ」  私が贈ったなんてことないマスコットが朝陽くんの心の支えになっていた。世間から罪人の烙印を押されてきた私にとって、その事実はこんな自分でも誰かの役に立てるのだと、存在を認めてもらえたようで、いよいよ泣きそうになる。 「このポメ子と陽菜先輩の想いだけが孤独を癒してくれた。人生を諦めそうになったとき、このポメ子を見ると、こんな自分を見ていてくれた人がいたってことを思い出して、救われるんだ。陽菜先輩がこんな世界でも日の当たる場所があるってことを教えてくれたんですよ」  本当に陽だまりを見つめるように目を細めた朝陽くん。私をデートに誘ったとき、朝陽くんが言っていたことの意味がようやくわかった。 『でも、僕は陽菜先輩に失望してほしくない。こんな世界でも日の当たる場所があるんだって、そう思えるような希望を残したいんです』   日の当たる場所というのは、人そのものなのだ。人の優しさに、私たち人間は生かされている。 「先輩、広場のほうに行ってみませんか? 日差しが気持ちよさそうですよ」  建物の中から外へ出ると、光がやけに眩しく感じた。それどころか、突き刺すような痛みを感じて、私は思わず目を押さえる。 「……っ」 「あ、向こうに観覧車も──陽菜先輩? 大丈夫ですか!」 「ごめん、なんか……光が突き刺さるみたいで、目が痛くって……」 「それなら木陰に、あそこにベンチがありますから」  焦ったように私の肩を抱き、朝陽くんはベンチに連れて行ってくれる。ふたりで腰掛けると、木陰に入ったからか痛みが和らいだ。 「陽菜先輩、まだ痛みますか?」 「……ん、もうちょっと休めば平気になると思う」  そうでなきゃ困る。今までは視界がぼやけたり、夜になると見えにくい程度で済んでいたのに……。昼間に、こんなふうに光を痛いほど眩しく感じることは、今までなかった。私の目に、なにが起こってるの……? 「陽菜先輩、帽子でも買ってきましょうか? もしくはサングラスとか……気休めにしか、ならないかもしれないけど……」 「ううん、大丈夫。このまま、少し目を閉じてるよ。だから朝陽くん、面白い話でもして?」  でも、朝陽くんはいっこうに話し出さない。不思議に思って目を閉じながら顔を上げると、朝陽くんの両手が私の頬を包み込んだ。 「陽菜先輩、大丈夫じゃないんでしょう? 怖いって、心が怯えてる……」 「なんで……朝陽くんにはわかるの?」 「たとえこの目が見えなくなったとしても、僕はあなたの気持ちを感じる。あなたを知りたい、痛みに寄り添いたい、そう思ってずっとそばにいたから」  朝陽くんは今、私と同じように瞼を閉じているんだろう。同じ立場に立って、私が見ている世界を理解しようとしてくれている。そういう人だ。  滅多に笑わなかった彼を私が笑わせてあげたい、寂しそうな彼のそばにいてあげたい。そう思っていたのに、今では私が彼に守られている。 「朝陽くん、私……怖いな。見えなくなったら、朝陽くんの顔も思い出せなくなっちゃうかもしれない」 「……そんなこと、絶対にさせない」  やけに重たく放たれたひと言に、私は「え?」首を傾げる。深刻な響きを纏っているように感じたのは、気のせいだろうか。 「言ったでしょう、陽菜先輩の希望を残すって。だから悲観しないでください。僕にできることは、きっとこのくらいだから」  朝陽くんの手が私の顔の輪郭をそっと撫でていく。ときめきとほんの少しの不安に胸が騒いだが、その理由はどれだけ考えてみてもわからなかった。 ***  しばらくして目の痛みが引いた私は、朝陽くんと広場にある観覧車に乗っていた。  十五分間の空中散歩が楽しめるらしく、ぐんぐんと地上へと上がっていく観覧車からは夕日に赤く染まる街並みが一望できるのだろう。残念ながら、私にはぼやけてよく見えないけれど。 「綺麗ですね……」  窓に張り付いている朝陽くんの横顔のほうが綺麗だ。差し込む茜色の光に縁取られた輪郭はおぼろげで、まるで幻のように浮世離れした美しさがある。 「そうなの? 私にはよく見えないや」  朝陽くんは『やってしまった……』という顔になった。私は慌てて「違う違う!」と否定する。 「景色が見えなくても、気にしてないよ。まあ、残念だなあとは思うけど、私は朝陽くんの顔を見つめられるだけで十分。それだけで、お腹いっぱい」  朝陽くんの顔が夕陽よりも赤い気がする、なんて……。少女漫画みたいなベタな感想を心の中で呟いてみる。彼が照れているのは、落ち着かなそうにしている様子からひしひしと伝わってきて、私はついくすっと笑いをこぼした。  朝陽くんは、ばつが悪そうな表情をしている。あの頃の彼なら、ここで『うるせえ』『ほっとけ』とか、文句のひとつくらい出るところだ。  夜尋くんと朝陽くんは同一人物なのに、全然違う。朝陽くんは私に真実を話してくれたとき、青砥夜尋では駄目だったと言っていた。  お父さんを陥れた人間の兄だと知られたら、私が朝陽くんに心を許さないだろうと。だから時が来るまで絶対に気づかれないように、名前だけでなく振る舞いも言葉遣いも別人になりきると決めたのだと。  自分を殺して他人として生きるのは、どれだけ苦しかっただろう。これまで築いてきた思い出も、家族も失って、それでもまた私と出会ってくれた。朝陽くんだけだ、こんな私にそこまでしてくれるのは。 「デートなんて生まれて初めてだったので、どうなるかと思ってたんですけど……なんとかロマンチックに終われそうで、よかったです」 「うん。嫌なことも忘れて、朝陽くんにときめいてばっかりだったよ」  そして、取り戻せた夜尋くんとの思い出もあった。私にとって、最高の贈り物だ。これからも朝陽くんといれば、失ったすべての記憶を取り戻せるんじゃないだろうか。 「最後は陽菜先輩の心に残るシチュエーションにしたかったんです」 「最後?」 「あ……デート終わりのって意味です」  にこっと笑われ、私は胸を撫で下ろす。これが初めてにして最後のデートだなんて、悲しすぎる。お願いだから、幸せ最高潮の私をどん底に突き落とすような紛らわしい発言はやめてほしい。  私を翻弄する朝陽くんを少し恨めしく思いつつ、ふたりで空中散歩楽しんだ。そして、観覧車を降りる頃には、辺りは黄昏の気配に包まれていた。 「名残惜しいですね。今日が終わるの」 「そうだね。朝陽くんといると、あっという間に一日が終わっちゃう」  帰り道、他愛ない会話をしながら駅に向かっていると、その途中でパトカーとすれ違う。そのとき、『違うの!』という叫び声が聞こえた気がして立ち止まった。 「陽菜先輩?」  隣を歩いていた朝陽くんが少し先で足を止め、私を振り返る。 「ごめん、なんでもない!」  そう言って彼の元へ一歩を踏み出せば、再び頭の中に映像が流れ込んでくる。 『やめて! 夜尋くんは悪くないの!』  あれは聖也さんに傷つけられた私を見て、夜尋くんが聖也さんを殴ってしまったときのこと。その様子を見かけた誰かが通報し、警官はなんの迷いもなく夜尋くんに手錠をかけた。 『午後五時一分、傷害罪で現行犯逮捕!』  あの日、気づけば夜尋くんのことばかり考えてしまう理由がなんなのか、カラオケで友達に相談するはずだった。けれど、私は夜尋くんが警官に取り押さえられる姿を目の当たりにした最悪のタイミングで、自分の心に気づいた。  私の大切な人を奪わないで、どこへも連れて行かないで。激しい怒りと半身をもがれたような痛みに、私は夜尋くんが好きなのだとわかった。  でも、自覚したときには、夜尋くんは手の届かないところに行ってしまっていた。  どれだけ『夜尋くんは悪くない』と訴えても、誰も耳を貸してくれなかった。ただ、見た目がいかついというだけで、みんなが夜尋くんを犯人だと信じて疑わなかった。  どうして? こんなのおかしいよ……。  悔しかった。こんなにそばにいたのに、好きな人ひとり守れない自分が許せなかった。  声が枯れるまで彼の無実を訴えたが、それでも私の言葉は届かず、唇を噛んだのを覚えている。  聖也さんは夜尋くんが逮捕されるのを笑って見ていて、気づきたくないことに気づいてしまった。私のピンチに夜尋くんがタイミングよく駆けつけたのは、どう考えたっておかしい。私と聖也さんがあの橋にいたことは誰も知らないはずなのに、あの場に来れたのも誰かが手引きしたとしか思えない。そう、あの事件は聖也さんが仕組んだことだったのだ。 『ごめんっ、ごめんねっ、私がこんなところまで、のこのこついてきちゃったから……!』  あのときの絶望を思い出すと、心が散り散りになりそうなほど痛んで、私は「……ふ、うっ……」と嗚咽を漏らした。  私が記憶を失った理由はこれだったんだ。目の前で大切な人を助けられなかったことがショックで、心が壊れてしまいそうだったから──忘れた。事故はきっと、忘れるためのスイッチに過ぎなかった。  口元を手で覆い、その場に蹲る。気持ちが溢れだすまま泣き出す私に、朝陽くんは慌てだした。 「ひ、陽菜先輩? 目、また痛くなりました?」  そばに膝をついた朝陽くんが私の背に手を添えて、顔を覗き込んできた。私はずっと鼻をすすりながら、ゆっくりと顔を上げる。  往来で座り込む私たちを横切る人々は見向きもしない。親子連れ、恋人、サラリーマン……皆、自分の幸せや大切な人のことでいっぱいで、ちっぽけな私たちになど興味がないのだ。 「あのマスコット……ポメ子、さ。結構、年季入ってるし……私、新しいの作るよ」 「え? そ、そう……ですか? それなら頼もう……かな……?」  私は苦笑いしながら、戸惑っている朝陽くんを見上げた。 「それとね、やっぱり……そのキャラ変だよ。なんで一匹狼系ヤンキーから、王子様キャラに転向? ふふ、謎すぎるよ」  笑いたいのか、泣きたいのか、あるいはどちらもか。流れる涙もそのままに、私は朝陽くんの頬に手を添えた。  すると、朝陽くんは私の手の甲に震える手をゆっくりと重ねてくる。目に頼れないぶん、私は声や体温、匂いから彼の感情を読み解こうとする。  期待と不安……共に積み重ねた時間が消えていなかったかもしれない。そんな朝陽くんの心を感じた。 「まさか……まさか、思い出したんですか?」 「私は、こんなにもあなたが大切だったんだね。どうして、忘れることができたんだろう」  空いた手で胸を押さえると、手のひら越しに取り戻した想いをどくどくと感じる。 「失ってしまったものはたくさんあるけど、あなたとの思い出だけは、あなたへの想いだけは取り戻せてよかった。もう、絶対に離さない」  朝陽くんを見つめる。 ずっと私の中にあった夜尋くんへの想いと、朝陽くんと出会って大きく育まれた想い。記憶が戻ったことで夜尋くんと朝陽くんが寸分違わず重なり、この想いもようやくひとつに溶けあった。 遠回りしたけれど、ただひとりだけに向けられていた想いを告げる。 「あの頃よりも、今のほうがずっと──あなたが好き」  朝陽くんの顔に触れている私の手に、温かい雫が落ちてきた。泣いている朝陽くんの涙を拭っていたら、その指先をまとめてぎゅっと握られる。 「陽菜先輩を守れれば……それでよかったんだ。なのに……陽菜先輩に好きだって言ってもらえて、やっぱりそれだけじゃ足りなかったんだって、わかった」  想いが通じ合っていることはなんとなくわかっていた。けれど、私は朝陽くんに言わせるばかりで、ちゃんと言葉にしていなかったんだ。それで随分と不安な思いをさせてしまった。 「朝陽くん……あのね、朝陽くんはたくさん我慢してきたと思うんだ。だから欲しいものは欲しいって言っていいんだよ。もっとわがままになっていいんだよ」  朝陽くんはなにかを言いかけるように口を開き、そして歯を食いしばった。私の両腕を痛いほど掴んで縋りついてくる。  まだ自分を解き放てないでいる彼に、私は言葉を重ねた。 「だからこれ以上、自分を責めないでよ。自分を戒めるみたいに、他人を演じなくていい。あなたは、あなたの人生を歩んでいいんだよ」  びくりと、朝陽くんの肩が震えるのがわかった。  夕陽の眩しさに邪魔されて、朝陽くんの顔はよく見えない。彼の表情を確かめるようにその唇に指先で触れると、微かに震えながら、ゆっくりと開かれるのがわかる。 「……っ、陽菜先輩……俺……」 「──もう、本当のあなたに戻っていいんだよ」  迷う彼の背を押すように、最後の一声をぶつける。 「陽菜先輩……陽菜。もう一度、青砥夜尋として陽菜に会えるなんて、思ってもみなかった。あのときは巻き込んでごめん、悲しませてごめん。それから──俺、あの頃からずっと陽菜が好きだった」  涙声で一気に気持ちを伝えてくる彼をまるごと受け止めるように、私はその身体を抱きしめた。 「おかえり、〝夜尋〟くん……っ」 「──っ、ただいま」  私たちの間に薄いけれど、確かにあった壁が崩れ去ったような感覚だった。ひしっと隙間なく身体をくっつけて、お互いの心を感じる。 「誰にも祝福されないかもしれない。でも、陽菜が好きだ」 「私も……誰に許されなくてもいい。私たちの幸せは、私たちで決めるものだよ。なにがあっても、一緒にいよう」  周りが決めた幸せや価値観に従う必要はない。私たちは私たち自身のために生きる。  見つめ合うと、時間が止まり、世界が透明になったような気がした。ふたりの呼吸や鼓動までもがぴったりと同調するような、彼と一体になれたような感じがする。  今、私たちは同じことを考えている。きっと、ふたりでひとつのことを考えている。その答えが同じであることを証明するように、お互いの顔が近づいていき──。 「俺、もう……陽菜とこうなれただけで、十分だ……」  触れる間際に聞こえてきた呟き。過ぎていく時間を防ぐように重なった唇は、なかなか離れることはなかった。
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