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10章 その目がなにも映さなくなったとしても
「ああ……またやっちゃった」
机にぶつかった拍子に物が落ちてしまい、バイト前から気分が下がる。
あのデートの日から一か月、視界のぼやけている範囲が広がり、景色はもうモノクロだった。物との距離感がつかめず、見えないぶん、ここら辺に机があったなという感覚だけで移動しているので、こうして家具にぶつかることも多い。
他にもシャンプーやリンスの違いがボトルが一緒だと見分けられなかったり、一度で鍵穴に鍵をさせなかったりと日常生活にも支障が出ていた。
私は拾い上げた物に鼻先がくっつきそうなほど顔を近づける。インキの匂いがして目を凝らせば、角膜移植と盲学校の案内パンフレットだとわかった。
盲学校のパンフレットを取り寄せたのは、自分がこれまで通りの生活を送れなくなっているという自覚があるから。高校からも、私の存在はよく思われていない。この間も単位が足りなくなるのを理由に呼び出され、転校を匂わされた。
四年前から普通とはかけ離れた生活を送っていたけれど、どんどん自分がみんなと違っていくのが怖かった。社会から今以上に切り離されていくようで怖かった。
でも、これからはノートをとるのも、校内を移動するのも、ひとりじゃできなくなる。誰かに頼り切って生きるのは嫌だ。迷惑をかけたくない。だから行くべきなのかもしれない……盲学校に。
変わっていく自分に、心が追いつかないけれど、私は多くの選択を迫られていた。でも、まだ選択肢があるだけいい。
「──三葉さん、あなたの境遇には同情するけど……こう何度も使うクリーナーを間違えて、トイレの壁の塗装を剥がしたり、お客様が歩く道に水が垂れてるのに拭かないまま戻ってきちゃったりとか、困るの」
いよいよ私は『犯罪者の娘』というレッテルに続き、『役立たず』というレッテルを貼られてしまった。
「クレームも来てるし、申し訳ないけど……今日で辞めてもらえる?」
これはお伺いではなく、半ば命令だ。私に「はい」以外の答えは許されていない。こうやって、私は社会に必要ないとレッテルを貼られていくんだろうな。
「今まで、お世話になりました」
私はお辞儀をして、事務所を出る。外に出るとき、私には持ち物が増えた。身体障害者手帳と白状だ。今は弱視者という区分にいるが、いずれ全盲になる。
「かわいそうだけど、仕方ないわよね」
「目が見えないんじゃあねえ……親御さんはなにを考えてるのかしら。あんなふうになってまで、バイトさせて」
〝あんなふうになってまで〟……か。みんなが白状を頼りに歩く私を憐れみの目で遠巻きに眺めているのが、なんとなく空気でわかった。
見世物じゃないんだけど。
親に恵まれなくても、自分の力で生きていってやる。そんな反骨精神で、休むことなくバイトをしてきた。だけど、それすらも叶わなくなった私に、一体なにが残るって言うんだろう。
バイトをクビになった私は、トボトボとまだ日が高い都会の町を歩く。
点字ブロックの意味を知ったのは、つい最近のことだった。障害者手帳を交付してもらってから、盲人福祉協会で歩行や点字訓練を受けたのだ。
点状ブロックは道路の交差点や階段の前など危険な場所の表示に使われることが多く、線状ブロックは進む方向を教えてくれる誘導用表示。足の裏や白杖でブロックの突起を確認しながら歩くのは、まだ慣れない。
「あっ──」
考え事なんてするんじゃなかった。窪みに足を取られ、私はその場に盛大に転んでしまう。
「いっ……」
擦りむいた膝がひりひりと痛んだ。ただ歩くことすらできなくなった自分が情けなくて、惨めで泣けてきた。
なんだか、デジャヴ。お母さんに三万円で売られたあの日も、必死にホテルから逃げ出した私は盛大に転んだ。
私はストラップで首から下げているスマホを持ち上げる。鞄から物を探すのも時間がかかるようになったので、家の鍵もパスケースもストラップで鞄に括り付けて、すぐに手に取れるように工夫した。すべて、盲人福祉協会の人のアドバイスだ。
あのときは誰に助けを求めればいいのかがわからず、誰の連絡先も押せなかった。でも、今は……。
「っ……朝陽くんに電話」
スマホの音声アシスタントを使って、電話をかける。声で指示を出せば、連絡先に登録してある電話番号に発信してくれるのだが、こうして白状を使わなければならないほど目が悪くなるまでは一度も使ったことがなかった機能だった。
プルルルルッと発信音が鳴り、すぐに朝陽くんが出た。
『──もしもし、陽菜? なんかあったか?』
第一声がそれって、朝陽くんには心配をかけてばかりだな。
申し訳なく思うのと同時に、声が聞けてほっとしている自分がいた。
あのデートのあとから、朝陽くんは夜尋くんの話し方に戻った。いや、少し違うな。夜尋くん八割、朝陽くん二割な感じで、気持ち丁寧な話し方にはなった。
『俺は青砥夜尋だけど、自分でつけた百瀬朝陽として生きていく。今度こそ自分の力で、大事な人を守れるように、その決意と一緒に生まれた百瀬朝陽として生きていきたい。だけど、ときどき……過去を懐かしみたくなったら、夜尋の名前を読んでほしい』
ふたりで交わした口づけのあと、夜尋くんは──朝陽くんはそう言った。だから私は、今の彼を朝陽くんと呼び、過去に思いを馳せるときは夜尋くんと呼ぶ。どちらも彼自身で、名前が変わろうと彼の本質は変わらないのだから、些細な違いだ。
その朝陽くんは最近忙しそうにしていて、あまり会えていない。私も白杖と点字の訓練に追われていたので、声を聴くのは久しぶりだった。
「朝陽くん……いきなりかけたりして、ごめんね。今……大丈夫だった?」
『今さら、遠慮する仲じゃないだろ。それより、なにがあった』
「なにかあったって、断言するんだね」
『陽菜の声を聴けばわかる。泣きそうになってるって』
私を理解してくれる人がいるという実感。胸が熱くなり、私はスマホのマイクの辺りを手で押さえて、「ふ、う……」と嗚咽をこぼした。
朝陽くんに泣き縋ってしまいそう。できないことばかりで、社会からお前はいらないと言われているようで、肩身が狭くて……。これ以上、みっともない自分になりたくなかった。だからなけなしの強がりで、息をするように彼にも弱さを隠そうとしてしまう。
電話をかけている時点で、虚勢なんてあってないようなものなのに。
『陽菜、今どこ? そっち行く』
「え……あ、ううん、いいよ。そこで聞いてくれるだけで」
私が黙っているのがじれったかったらしい。自惚れではなく、朝陽くんは私のことに必死すぎる。これから迷惑かけることが多くなるから、できるだけ彼を振り回したくなかった。
「私……今日、バイトをクビになっちゃって」
朝陽くんが電話越しに息を呑むのがわかる。
「清掃員なのに薬剤間違えてトイレの壁の塗装剥がしたり、失敗ばかりで……それだけじゃない。今もなにもないところで転んだりして……ただ道を歩くこともできないの。情けなくて……」
私は「はは」と自分を嘲るように笑った。
「こんなんじゃ、クビになったってしょうがないよね……」
『陽菜……今どこにいる?』
「え……駅近の……たぶん、交差点前……」
『わかった。電話切らずに待ってろ』
朝陽くんの走る息遣いが聞こえる。私はなんとか自力で道の端に寄り、体育座りで待っていた。
今の私、道端のゴミと変わらない。使い道もなくて、いるだけで誰かの重荷になる……いらない人間って言われてるみたい。
しばらくして、走る足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。
「はあっ、はあっ、陽菜! その膝……怪我したのか⁉」
スマホからではなく、すぐそばで朝陽くんの声がした。私の前に誰かがしゃがみ込むのがわかり、びくっとしてしまう。
「驚かせてごめん。俺だ、朝陽」
「あ……朝陽くん……? こっちこそごめん、声がしたなとは思ってたんだけど……自信がなくって……」
「それなら、俺が見える場所まで行けばいい。だから気にするな」
朝陽くんの手が肩に載る。私はその腕にぎゅっとしがみつき、項垂れた。その拍子に、ぽたぽたと涙の粒が落ちていく。
「こういう些細なことが積み重なって、どんどん自分に自信がなくなっていくの。そのうちみんなと同じことができなくなる。テレビや雑誌も見れなくなる。周りの人と共通の話題も持てなくなって、どこへ行っても孤立するんだ」
「陽菜……そんな、なにもかもできなくなるわけじゃないだろ」
「できなくなるんだよ!」
声を荒げた私に、朝陽くんが狼狽したような瞬きをする。朝陽くんにあたるのはお門違いだというのに、行き場のない思いをぶつけてしまう自分がもっと情けなくなった。
「……っ、もう朝陽くんの顔だって、よく見えない」
私は朝陽くんのほうに腕を伸ばし、手探りでその顔に触れる。この距離でも、私の目は大切な人の姿すら映さないのだ。
「あなたと出会って、綺麗に見えるようになった景色も……っ、私の世界から消えてしまった。真っ暗な世界にいるうちに、いつか朝陽くんと見た景色を忘れて、家族や友達の顔も思い出せなくなって……私にはなにも残らなくなるんだ……!」
「なにも残らないなんて……目が見えなくても、陽菜は話せるだろ? 聞けるし、書けるだろ。視力があろうがなかろうが、陽菜自身が変わるわけじゃない! みんな、陽菜の声に耳を傾けてくれる」
「朝陽くんなら、きっとそうしてくれるんだろうね。でも……次々と頭に浮かんでくるの」
真っ暗な世界の中で、ひとりぼっちになる自分の姿が。重荷にしかならない自分から、離れていく大切な人たちの姿が。
寝ても覚めても、真っ暗な闇の中に私はいるのだ。
「『私、これからの人生、ずっとこうやって落ち込んで過ごすことになるのかな』『やりたいことがあっても、見えないからできないって諦めていくうちに、全てのことに興味を失っていくのかな』『それって……生きてて楽しいのかな』って……そういう恐ろしい考えに、どう立ち向かっていけばいいのか、わからないんだよ……っ」
「っ──ごめん、陽菜」
朝陽くんの腕が痛いほど私を引き寄せた。朝陽くんの苦しみを表すように、息が止まるほど強く、私を抱きしめてくる。
この距離になって気づいた。今日は平日なのに、朝陽くんは高校の制服を着ていない。触り心地は厚みがあり、サラッとしたポリエステル──朝陽くんのバイト先のエプロンだ。
平日なのにバイトに行っていたのだろうか。そういえば、朝陽くんは最近すごいバイトに出ていると、一緒に働いている冴島くんが言っていたのをぼんやりと思い出す。
「朝陽くん……もしかして、バイト抜け出して来てくれたの?」
鼻水を啜りながら尋ねれば、「そんなことどうでもいい!」と怒鳴られた。けれど、私を想ってのことだと、背中に回った力強い腕からひしひしと感じる。
「全部、俺のせいだから。俺が陽菜の世界を一筋でも明るく照らすから、だから……っ、頼むから……っ、そんなふうに絶望しないでくれ……っ」
「朝陽くんのせいじゃない。私が弱いだけだから……っ」
ああ、なんで私はこうなんだろう。私の言葉や弱さが、朝陽くんを追い詰めてる。朝陽くんに自分を責めさせてる。
「ごめん……私、こんなふうに朝陽くんを傷つけることしかできない……。私は、朝陽くんと出会っちゃいけなかったんだよ……っ」
「陽菜がなんて言おうと、俺は会えてよかった。自分の幸せを諦めてた陽菜をひとりにしないで済んだから」
朝陽くんは強い……私とは違って。
「陽菜の希望は俺が残すから。どんな手を使ってでも──」
迫りくる闇から守るように、私を抱き込む朝陽くん。その腕の中で、切に願う。どうかこれ以上、私から光を奪っていかないでくださいと。
***
一週間、二週間と経つうちに、私の視力は坂道を転がっていくように急速に落ちていった。
昼間なら近づけば顔の雰囲気がわかるけれど、夜は薄っすらと人のシルエットを感じられる程度だ。
気づけば、季節は梅雨。何日か前に、薫が期末テストの対策ノートを作って持ってきてくれたのだが、テストなんてどこか遠い世界の出来事のように思えた。
それに、私は転校するかもしれない。だから薫には、もう私のためにノートをとらなくてもいいと伝えたのだが──。
『でも、まだ決断してないんでしょ? それなら私は、陽菜の戻る場所を残しておきたい。陽菜が自分で道を選べるように』
住む場所、理想の高校生活……私がなにひとつ選べなかったことを知って、薫が残そうとしてくれたものは、どんな高価な贈り物よりも価値あるものだった。
「陽菜、どこへ行くのよ」
そう言って、お母さんが玄関にいる私に近づいてくる。
最近、私を監視するように家に帰ってくるお母さん。玄関で靴を履きながら、何度このやりとりを繰り返せば気が済むのだろうとうんざりする。
お父さんに言われたように話しをしなければいけないということはわかっているのだが、今のお母さんが私の話をまともに聞いてくれるかは怪しい。
「化粧、落としてから寝たほうがいいんじゃない。何万回言ったか、わからないけど」
見えなくてもわかる。お母さんはマスカラで目がパンダになっていて、しかもぼさぼさの頭で、はだけたキャミソールワンピースを着ている。それが日常だったから。
「また、あの子のところに行くの?」
「……だったら、なに? お母さんが頭ごなしに『朝陽くんに会うな』って言わなくなるまで、ちゃんと話なんてできないから」
朝陽くんのことをわかってくれない。その思いが私の心を頑なにする。私の大切な人を蔑ろにされたら、怒るに決まっている。
そう思った瞬間、お母さんの言葉が蘇る。
『お父さんがなんで罪を犯したのか、あんたはなにも知らないんでしょ? それなのにどうして、お父さんばかり責められるのよ』
──あれは、お父さんを庇っていた?
『お父さんは人を殺そうとしたんだよ? どれだけ誠心誠意接したとしても、その罪は消えない。被害者面? 青砥さんたちは本当に被害者で──』
『そうね、あなたは正しいわよ。どんな理由があったって、なにをしてもいいわけじゃない。けどね、あなただけは、そんなことを口にしないで』
──あれも、私を助けるためにお父さんがしたことを否定されたから怒ったの? お父さんの気持ちも知らないで、お父さんを責めた私を許せなかったの?
「お母さんは……今でもお父さんが大好きなんだね」
「え……」
水面にいきなり手を突っ込まれた金魚みたいに、お母さんの視線が急激に泳いでいるのが想像できる。その動揺から、お母さんの気持ちがわかってしまった。
「お母さん、私にとって朝陽くんは大切な人なの。だから、お母さんがお父さんを傷つけられて怒るように、私も朝陽くんを否定されたら怒る。それを理解してほしい」
子供は親の分身じゃない、夫婦は血の繋がりがない本当の他人。わからないことはわからないし、理解できないことは理解できないのが普通。
だけど……赤の他人に対してはそれで納得できるのに、相手が家族となるとそうはいかない。家族だからわかり合えるはずだって、そういう概念に縛られてしまう。
前に朝陽くんがそんなことを言っていたけど、現にそうだなと思う。今、私が『理解してほしい』と口にしている。
家族という関係に縛られている、そう思っているのに、私もまた自分の理解者であってほしいと家族を縛っている。価値観を押し付け合って苦しむこともあるのに、それでも突き放せない存在。近すぎるからこそ、相手の気持ちを考えなければならないのだ。
「お母さん、私たち……たくさん、話をしなくちゃならないんだと思う。だから、もう逃げないでよ。どんな言葉でも、一度は耳を傾けてよ。頭ごなしに突っぱねないでよ」
ドアを開けるも、お母さんは黙ったままだった。こうして、ずっと逃げ続けているお母さんに背を向けるたび、何度〝呼び止めて〟と願っただろう。
だけど、今日もあなたは──私を呼び止めてはくれない。
***
朝陽くんに会いに行こうと思ったのは、ここ数週間、連絡が取れないからだ。
こんなこと、今まで一度もなかった。メッセージに既読もつかないし、なにかあったんじゃ……。
人質でもとられているかのように、激しく胸が騒ぐ。声が聞こえないだけで、姿が見られないだけで、こんなにも生きた心地がしない。
彼の家を知らない私は、まずバイト先を訪ねることにした。
「いらっしゃいませー」
店内に入ると、どこかで聞いたことがある声がした。どこでだっけ?と考えていると、「花壇の先輩!」と目の前に誰かが立つ。そして恐らく、私を指さしている。
私を『花壇の先輩』と呼ぶのは、ひとりだけだ。
「その声、冴島くん……だよね?」
「はい! 久しぶりっすね。で、その……花壇の先輩、それ……」
冴島くんの意識が私の持っている白杖に向くのをなんとなく察した。私は白杖を持ち上げて、「ああ、これ?」と苦笑いする。
「私、目がほとんど見えないの」
「え……じゃあ、ここまでどうやって来たんすか? 付き添いの人もいないみたいだし……」
「ひとりだよ。この白杖と点字ブロックを頼りにね。全く見えてないわけじゃないし、ぼんやりと物の位置くらいはわかるから」
冴島くんは「そんな大変な状態だったんすね……」と労わるような声音で言った。不思議と、彼に同情されるのは少しも不快じゃない。朝陽くんに似た、温かくて明るいお日様の気配を感じるからだろうか。
「その……花壇の先輩は、あの張り紙のことがあってから、学校、休んでたんすか?」
気まずそうに尋ねてくる冴島くんに、「うん」と頷く。
張り紙の一件が起きたときは絶望のどん底にいたと言うのに、朝陽くんがいなくなったことのほうがこの世の終わりなのではないかと思うくらい怖かった。
「先輩、もしかして朝陽に会いに来たんすか?」
「あ……うん。最近、連絡がとれなくて、心配で……」
冴島くんは「ああ……」と、明らかになにか思い当たる節があるような反応を示した。私は冴島くんのことを大して知らないが、彼は思ったことがすぐに口をついてしまうような素直な性格のような気がする。そんな彼の歯切れが悪いと、胸騒ぎがいっそう強くなる。
「あの?」
胸の底にある不安が急速に浮き上がってくるのを感じつつ、考え込んでいる様子の冴島くんに声をかける。冴島くんは「あー……」と言い淀んだあと、後頭部を搔きながら話し出す。
「朝陽、三日前に辞めたんすよ」
「えっ、あんなに忙しそうにしてたのに、バイトを辞めた……?」
一体なにがあったの? 朝陽くん……。
白杖を握り締めると、冴島くんが距離を詰めてきた。ようやく薄っすらと見えた顔は深刻そうで、周りを気にしているのか、声を潜める。
「あいつ、なんかやばい事件に巻き込まれてるんじゃないかって……俺、思うんすよ」
「やばい事件……?」
「バイト先に、ガラの悪そうな男から電話がかかってきたみたいで……その、金を返せって」
朝陽くんとは結びつかない話題すぎて、冴島くんの言葉がただ耳を通り抜けていく。
「え……お金をその人に借りたってこと? なんで?」
「……さあ? でも、高校生っすよ。金借りれる場所なんて、そうないじゃないっすか。もしかして、あいつ……」
つまり冴島くんは、合法でない貸金業者にお金を借りたかもしれないと、そう思っているのだ。
「なんか、先輩たちがカフェに来たちょっと前くらいから、あいつすげえバイトのシフトに入り始めたんすよ。金に困ってんのか? とか、いくら親友でもさすがに聞けないっていうか……先輩はなんか知らないっすか?」
首を横に振ると、冴島くんは焦れたように息を吐き出しながら、前髪をぐしゃりと握る。
「あいつ、花壇の先輩にも話せないって、本気でやばいことに首突っ込んでんじゃ……」
全身の血が冷え渡り、高まる動悸に胸が詰めてくるのを感じた。
「私、朝陽くんを探してきます。冴島くん、バイト中に呼び止めてごめんね」
「えっ、まさか先輩、ひとりで行く気っすか? 危ないって! 俺、ちょっとバイト抜けられないか、店長に相談──」
「大丈夫だよ。朝陽くんのことは、絶対に見つける。それすらできない自分なんて……」
──生きる価値がない。極端に思われるかもしれないが、なにもできなくなっていく私が唯一自分自身を誇れるところは、朝陽くんのためならこの命すら惜しくないことだ。
無意識に俯いていた私の顔を冴島くんが「先輩?」と心配そうに覗き込んでくる。それにはっとした私は、勢いよく踵を返した。
「ごめん! 私、もう行くね!」
「そんな、危ないですって!」
心配してくれる冴島くんの気持ちはうれしい。でも、彼の存在が私の命そのものなのだ。彼が傷つけば、私も傷つく。彼を守ることは自分を守るのと同義。どんなに危険であろうと、命を懸ける瞬間はいつも彼のためにあるのだ。
店を飛び出した私は、薄明の世界を駆ける。ときどき、見えない段差に足を取られながら、転んで擦り傷を作りながら、彼の行きそうな場所へ行き、朝陽くんの名前を叫んだ。
「はあっ、はあっ……どうして、どこにもいないの……? 朝陽くん……!」
その呼び声に応えるように、着信音が鳴り響く。足を止めた私は首から下げていたスマホを持ち上げ、すぐに耳に当てた。
「もしもし⁉」
『──陽菜、俺だよ、朝陽』
「……!」
どこにいるのか、朝陽くんの声が反響している。
「ねえ、今どこにいるの? なにしてるの? 連絡つかないし、バイト先に行ったらもう辞めたって冴島くんが! しかも、お金返せって電話がお店にかかってきたって!」
返ってくるのは沈黙。私はスマホを握りしめ、「聞いてるの⁉」と叫ぶ。道行く人が振り返る気配がしたが、構わず続けた。
「ねえ、朝陽くん。危ないことに巻き込まれてない? 私はもう、あなたを助けられないのは嫌なの……っ」
『隣駅……東口の真正面に百貨店側に抜ける小路がある。その小路を進んでいくと、途中にコインロッカーがあるから、そこに行って』
「ロッカー? 人が大事な話をしてるときに、ロッカーに来てってどういうこと?」
いきなりロッカーへ行けと言い出す朝陽くんに、苛立つ。私は朝陽くんの居場所がわからなくてこんなに不安なのに、当の本人は自分の用事をさっさと済ませようというのか。
『陽菜、頼む。行ってくれ』
いろいろ思うところはある。朝陽くんが置かれている状況、私をロッカーに行かせたい目的──なぜ、なにひとつ説明してくれないのか。
けれど、朝陽くんの声が重大なことなのだと訴えてくる。理由も、彼がなにを考えているのかもわからないが、朝陽くんにこう言われては、私は折れるしかない。
「わかった。だけど、そこへ行ったら、ちゃんと理由を話して」
『ああ、約束する。辿り着くまで、電話は切らずに』
言われた通り、電話は切らずに隣駅まで向かった。東口に出ると、カラオケやゲームセンター、雀荘(ジャンそう)などの娯楽施設が多い歓楽街が広がっている。
真正面の小路を進んでいくと、途中で朝陽くんが『その近くに、婦人服店がある』と言った。
『【エミリー】って名前の店だ。そこの店主に声をかけて』
「エミリー?」
私は光る看板のひとつひとつに顔を近づけ、ついにエミリーという店を見つけた。狭い店内を進んでいくと、人のシルエットを発見する。
「あの、すみません」
声をかけるが、返事がない。不思議に思って人影に話しかけると、「それはマネキンよ」と背後から声がした。
びくっとしながら振り返れば、中年の女性店員が不審そうに近づいてくる。
「若いお客さんだねえ。うちが扱ってるのは婦人服だよ。お嬢さんが着れるようなやつは、ないと思うけどねえ」
スマホから『預けたものを取りに来た、そう言って』と聞こえてきた。そっくりそのままそう伝えると、女性は一旦店の奥に消える。ややあって戻ってきた女性は、手にしている茶封筒を渡してくる。
「えっとー……なんだったっけね。もも……ああ、百瀬くん。小一時間前くらいだったかね、彼から預かったんだよ」
小一時間前……それなら、朝陽くんはまだこの辺にいるのかな?
私は封を開けて、手のひらの上でひっくり返す。中から出てきたのは、冷たい感触のなにか。それを顔の前に近づけると、【003】と書かれた札がついている鍵だった。
「ああ、それはコインロッカーの鍵だね。店を出て左にまっすぐ行くと、突き当たりにあるよ」
「いろいろと、ありがとうございました」
女性に会釈をして店を出た私は、鍵を握りしめてスマホを耳に当て直す。
「ロッカーになにが入ってるの?」
目的地に向かう間、そう朝陽くんを散々問いただしたが、『行けばわかる』の一点張りだった。
すっきりしないまま、ロッカーに辿り着く。ロッカーのひとつに顔を近づけると、ところどころ錆びていて、年季が入っているようだった。
『……っ、そこ……ひと目につかなくて、利用する人もあんまりいなさそうだったから……っ、選んだんだ』
朝陽くんの声が不自然に途切れた気がした。
「朝陽くん、なんか声が……」
『電波が悪いんだ……そこ、駅ビルの中だから……それより陽菜、右から一列目、上から三個目のロッカーを開けてくれ』
「わ、わかった」
手で目当てのロッカーの場所を探り、鍵穴に顔を近づけて、なんとか扉を開ける。中に手を突っ込むと、黒いスポーツバッグのようなものが入っていた。それを引っ張り出せば、なにが入っているのか、ずっしりとした重みがあった。私はバックをゆっくりと地面に下ろし、しゃがみ込む。
『中、開けて』
手探りでチャックを探し、下げる。鞄の中に手を入れると、指先が紙の束に触れ、混乱した。
「これ……お金? なんで、こんなにたくさん……」
『そこに札束で五十万と、三十万入ってる俺の通帳がある。暗証番号も一緒に入れておいた』
「え……い、意味わからないよ。なんでそんな大金を私に取りに行かせたの……?」
八十万円もの大金をどうして、私に?
疑問を抱いてすぐ、彼の行動の意味を理解した。
『……角膜移植を受ければ、見えるようになるかもしれないとは言われてる。でも、それには八十万かかるの。今を生きるのだって必死なのに、そんな大金、到底払えないよ……』
失明することを彼に打ち明けたあの日、私は移植のことも話した。八十万──それは、私が光を失わないための金額──。
「これ……まさか、私の移植代……? でも、こんなお金……バイト代だけで貯められる額じゃないよね? ねえ、朝陽くん!」
返ってくるのは重たい沈黙。このお金を作るために、朝陽くんはなにをしたのか。私を守るために自分の人生を投げ売り、過去を捨て別人になったように、今度は彼になにを犠牲にさせてしまったのか。
「バイト先にかかってきたっていう、お金返せって電話……もしかして、闇金……とかじゃないよね……?」
『……、……、……バイトでなんとかしようとしたんだけどな……全然、足りなくて……』
長い間のあと、朝陽くんは絞り出すように事情を話す。否定しないってことは、やっぱり闇金からお金を借りたってことなんだ。
「そんな怖い人たちからお金を借りて、無事で済むと思ってるの⁉」
『俺、名前も変わってるし……家族には迷惑かからないだろ……』
「家族もそうだけど、朝陽くん自身は⁉ 朝陽くんは、どうしていつもいつも自分のことは二の次なの!」
どうして……いつもいつも、私は朝陽くんを追い詰めてしまうの?
泣きだしたい衝動が喉元からせり上がってくるが、スマホから朝陽くんの苦しそうな息遣いがして、一気にそちらに意識を持っていかれる。
「……朝陽くん? どうかしたの? 具合悪そうだけど……」
「……平気」
そう答える朝陽くんの声は覇気がなく、全くもって言葉に説得力がない。けれど、それを追及するよりも、後ろがなにやら騒がしいのが気になった。
男たちの『いたぞ!』『このクソガキ! 金返さずにとんずらするつもりか⁉ ああ?』と、耳が汚れるような暴言が飛び交っている。
『くそ……っ、見つかったか……』
「見つかったって……朝陽くん、誰かに追われてるの?」
『とにかく陽菜、その金で手術を受けろ。絶対だぞ、約束だからな……!』
「ねえ、朝陽くん、答えて!」
私の声はピロンッという通話終了の効果音に遮られた。途切れてしまった声に、私は「どうして……」とスマホに額を押しつけたまま座り込む。
「朝陽くん……っ、朝陽くん……っ」
ディスプレイに、ぼたぼたと涙が落ちる。
この半身をもがれたような痛みには覚えがあった。朝陽くんが私を守るために聖也さんを殴り、警察に捕まってしまったときにも感じた。自分が殴られるより、ずっとずっと遥かに痛かった。
「神様……この目と引き換えに、朝陽くんを差し出せと言うんですか? ……っ、それなら私は……」
嗚咽を飲み込み、手の甲で乱暴に涙を拭うと、私は立ち上がる。
あのときみたいに、ただ『私の大切な人を奪わないで』と、『どこへも連れて行かないで』と、嘆くだけの自分は嫌だ。
私はお金の入ったバックを肩にかけ、先ほどの婦人服店に引き返す。
「あら、どうしたの? ロッカー、突き当たりのじゃなかった?」
「違うんです。それはあってて……そうじゃなくて、この鍵をおばさんに預けたっていう男の子、一時間前にここに来たんですよね? そのあと、どこへ行ったか、わかりますか?」
「いやあ、そこまでは……ああ、でも、そこの階段を降りて行ったわよ」
店先に出て、おばさんはどこかを指さす。ぼやけてよく見えないが、だいたいの位置はわかった。
「あそこ、地下道に繋がってるのよ」
「地下道……」
朝陽くんに電話している間、声が反響していた。電話が途切れたのはついさっき、まだあそこにいるかもしれない……!
「おばさん、重ね重ねありがとうございます!」
白杖をしっかり握り、壁に手を付けながら走る。背中に「気をつけていきなよ!」と、おばさんの声がかかる。
私のように後ろ指さされてきた人間にも、エールを送ってくれる人がいる。たったそれだけのことで?と思われるかもしれないが、世界もまだ捨てたもんじゃないなと、調子のいいことを考えた。
朝陽くん……ううん、夜尋くん。覚えてる? どんなに真っ暗な世界の中でも、私はきっとあなたを見つけて、幸せになるために頑張るあなたを見守ってるって。離れていても、遠くにいても、ひとりじゃないよって言ったこと。
「私、約束守るから……約束、守るから!」
そう言って再び壁に手をつこうとしたとき、私の身体は奈落へと吸い込まれた。否、手をつこうとした壁がなかったのだ。ごろごろと、身体を打ちつけながら階段を転げ落ちていく。
「うっ……う……痛っ……」
鈍い痛みが走る身体をなんとか起こすと、そこはトンネルのような場所だった。一定の間隔で設置されている灯りからするに、婦人服の女性が言っていた地下道の入口だろう。
「散々探し回らせやがって……手間かけさせんなよ!」
怒号とともに、ドゴッと誰かを蹴る音が響く。声が聞こえた方角を見れば、長い地下道なのか、私の目では人の姿を確認できない。
私はひとまず落とした白杖を探した。けれど、薄暗い地下道では視界が悪く、地面をぺたぺた触りながら手探りする。
「こんなとこに隠れてたってことは、悪いことしたって自覚があるってことだよねえ? 僕?」
ドゴッと、また誰かが誰かを蹴る音がした。
「っ、う……すみま……せん……」
そのとき聞こえてきた声に、私は「え……」と動きを止める。
今の声……私が聞き間違えるはずがない。朝陽くんだ……!
そう思った瞬間、白杖のことなんて頭から抜け落ちていた。かろうじて腕に引っかかっていたバックだけを持ち、身体の痛みにも構わず立ち上がる。行かなくちゃ、と壁を頼りに駆けだした。
行った先に殺人犯がいようが、化け物がいようが、怖くはなかった。あの人を目の前で奪われることのほうが、もっとずっと恐ろしいことを私は知っている。
「朝陽くん!」
急いで駆けつけると、四、五人くらいの男たちが「なんだあ?」と一斉にこちらを振り返った。薄っすらとだが、チンピラのような格好をしているのが見える。そして、彼らの足元には、朝陽くんがうつ伏せに倒れていた。
「なんで……こんなこと……」
「なんだ、こいつの知り合いか? こいつはなあ、人から金を借りておいて? 返済期日になっても金を返さない。わるーいガキなんだよ」
朝陽くんの頭をつま先で蹴る男に「やめてください!」と叫ぶと、舌打ちが返ってきた。
「やめてほしけりゃ、てめえが金払えよ!」
いきなり怒鳴られ、肩が勝手に跳ねてしまう。そのとき、朝陽くんが「う……」と苦しげな声を漏らしながら、チンピラのズボンを掴んだ。
「そいつ……は……関係ない……んで……」
男は「黙ってろ」と朝陽くんの手を蹴り払い、その頭を力いっぱい踏みつけた。それだけでは飽き足らず、ぐりぐりと足裏で痛めつける。
「いつまでも逃げ切れると思うなよ。住む場所を変えようが、名前を変えようが、必ず見つけ出してやるからな」
「やめて! お金なら返しますから!」
私はバックのチャックを開け、思いっきりチンピラたちに向かって中身をひっくり返す。
「朝陽くんが借りた五十万です」
「っ、なんでだよ……陽菜……」
バサバサと落ちていく一枚円札の束。それを見上げながら呟いた朝陽くんは、きっと絶望的な目でその光景を眺めているのだろう。
「朝陽くん、朝陽くんを不幸にするお金は、貰えないよ」
彼のほうを見ながらそう言い、私は「利子はどうしたよ!」と叫ぶ男たちに視線を戻した。
「それなら、ここに三十万あります。暗証番号も書いてあるので」
バックの奥を手で探り、通帳を見つけた私は男たちに向かって放り投げる。
朝陽くんが汗水流して稼いだバイト代だけど、朝陽くんの命とは天秤にかけられない。なにを犠牲にしても、彼を生かしたかった。
「利子が三十万? こんなんじゃ足りねえよ!」
──神様、なにかと引き換えに朝陽くんを差し出せと言うのなら、それなら私は……目だけと言わず、この手足でも心臓でも喜んで捧げましょう。
「それでも足りないって言うなら、私の目をあげます」
「ああ?」
「くりぬいて、あなたたちにあげれば、それで満足? それとも腎臓? 肝臓? ねえ、なんとか言いなさいよ!」
感情的に怒鳴れば、「お前、頭おかしいんじゃないのか?」と、男たちの声に動揺が混じる。
自分でも、アドレナリンがたくさん出ているのを感じる。血が逆上して、頭が燃え出すように熱くなっていた。
彼らに近づこうとして一歩前に出ると、つま先にカツンとなにかが当たる。それが酒の空き瓶だとわかった私は、拾い上げて勢いよく地面に打ちつけた。
バリンッと瓶が割れると、男たちからどよめきがあがる。飛び散った破片が手の甲を掠めたが、そんなことは少しも気にならなかった。
手元に残った瓶の破片を当て、ふうっと深呼吸をする。そして覚悟を決めると、思いっきり切りつけた。
「うっ……」
鋭い、経験したことのない痛みが走る。私は手首をつうっと垂れていく生温かい血を見せつけるようにして、男たちのもとへと歩き出した。
「誰か助けて! 襲われました! 誰か助けてください……!」
朝陽くんは驚愕している様子で、言葉を失っている。男たちはというと、「なんだよ、こいつ……やべえだろ」「いいから逃げんぞ!」と口々に言いながら、逃げていった。
「誰か……! 誰か助けて……!」
私は足音が完全に聞こえなくなるまで、叫び続けた。男たちの気配がなくなると、すぐに朝陽くんのもとへ向かう。
「朝陽くん……! 朝陽くん……!」
不明瞭な視界の中、おぼつかない足どりで朝陽くんのそばまで行くと、ずるっと足元が滑った。私は体勢を崩し、「あっ」と朝陽くんの前で転んでしまう。
すぐに起き上がろうとしたのだが、今度は地面に着いた手のひらがぬるっと滑った。顔から地面にぶつかった私は、鼻腔を掠める鉄さびの臭いに眉を寄せる。
自分の血にしては、さすがに量が多すぎる。私は疑問に思いつつも地面を這いながら、朝陽くんのところまで行き、ゆっくりその身体を抱き起こした。すると、朝陽くんの頭を乗せた自分の腕がぐっしょりと湿りだす。
「なに、これ……」
ぼんやりとした視界の中でも、はっきりと確認できる鮮やかな赤。恐る恐る朝陽くんの後頭部に触れると、手のひらにべったりと血がついた。
「ああ、あ……やだ、な、なんで……? なんで……!」
朝陽くんの頭には裂傷があり、そこからとめどなく血が流れている。私は赤く染まった自分の手のひらを見つめながら、震えていた。
一体いつから? こんなに血が出ているのだ。私に電話をかけてきたときにはもう、怪我をしていたのかもしれない。それなのに、どうして助けを呼ばなかったの?
間近で確認した朝陽くんの顔は真っ青だった。目を閉じて、荒い呼吸を繰り返しながら、ぐったりとしている。
「きゅ、救急車……救急車、呼ばなきゃ……っ」
私は首にかけていたスマホの音声アシスタント機能を使って、『救急車に電話!』と話しかける。するとすぐに繋がり、「はい、119番消防署です。火事ですか? 救急ですか?」と声がした。
「救急です! 朝陽くんを助けて……っ」
泣いている場合ではないのに、ぶわっと涙が溢れた。嗚咽に邪魔されながら、自分の居場所を伝える。そのあと救急隊員の人がなにか言っていたが、私は朝陽くんを抱きしめ、その頭に額を押しつけたまま泣きじゃくることしかできなかった。
「陽菜……なにして、んだよ……なんで、こんなこと……っ、したんだよ……」
朝陽くんの弱々しい声がして、私は勢いよく顔を上げる。薄っすらと開いた朝陽くんの瞳から、静かに涙がこぼれていく。私にはそれが、朝陽くんの声のない悲鳴のように思えた。
朝陽くんは、限界まで我慢できてしまう。笑顔の裏に本心を隠せてしまう。だから、ここまで追い詰められる前に、私が気づいてあげなくちゃいけなかったのに……っ。
「それは、こっちのセリフだよ! なんで、なんで……っ、こんなことしたの!」
本当に伝えたかったのは、『ごめんね』だった。でも心とは反対に、私の口は朝陽くんを責めてしまう。
「私、言ったよね……? どんなに真っ暗な世界の中でも、私はきっとあなたを見つけて、幸せになるために頑張るあなたを見守ってるって……! なのに……っ」
頭が朦朧としてくる。手首を切ってからそんなに経っていないと思っていたのだが、自分が思う以上に出血していたらしい。
「今の朝陽くん、私を幸せにするために、自分を犠牲にしてる……!」
一緒にいたいだけなのに、一緒にいるだけで相手を不幸にしてしまうくらいなら、そばにいられなくてもいい。そう言えたなら、よかったのだろうけれど、私には結局できないのだ。
朝陽くんと数日連絡がとれないだけで、生きた心地がしない。目の届くところに、声の聴こえるところにいてくれないと、不安で死んでしまいそうになる。
「陽菜にしてあげられることが……他に……思いつかなかったんだ……」
そう言いながら、朝陽くんの目が閉じていこうとする。
「朝陽くん? 朝陽くん……! 駄目、やだよっ、起きて! 私をひとりにしないで……!」
この理不尽で冷たい世界に、ひとりぼっちにしないで。朝陽くん──私の太陽が沈んだ世界では、私は生きていけないんだよ。
私の声が地下道に痛々しく響いている。
「朝陽くんがいなくなったら、意味ないんだよ! なにか、してくれようとしなくていいの! ただ、ただ、そばにいてくれたら、それで……!」
そんなこともわからないのだ、朝陽くんは。朝陽くんと出会う前の私と同じで、自分の価値をわかっていない。
「あなたは……っ、あなたが思う以上に……必要な人なんだよ……朝陽くん……っ」
ぐらりと視界が回る。朝陽くんを抱きしめたまま、私は地面に倒れた。遠ざかる意識の中、朝陽くんの手をとる。血で何度も滑り、離れそうになるが、しっかりと握り締めた。
「朝陽……くん……神様……っ、お願い……します……お願い……っ」
重い腕を持ち上げて、朝陽くんの手を自分の頬にくっつける。
お互いの傷から流れた赤い命の雫が混ざり合い、死へ誘うように私たちの身体を赤く染め上げていた。
神様、どうか……その一滴ぶんの命でいいから、私たちに希望をください。あとは全部差し上げますから、どうかひとつだけ願いを叶えて……。
「っ、うう……この人は……いろんなものを……犠牲に……してきたんです……。ずっと、ひとりで……誰も見向きもしない……世界の裏側で……戦って……きたの……」
こぼれた涙が、朝陽くんの手のひらについた赤を少しだけ洗い落す。
誰かを傷つけた罪悪感や人に憎まれ、後ろ指をさされてきた人間の生きる場所──それは、なんの不自由もなく生きてきた人からすれば、世界の裏側。その世界の裏側の住人は、誰かを傷つけ、それを許せないでいる罪人。そんな私たち罪人には生きる価値がないと、そんなふうに切り捨てないでください。
私たち、もう十分傷ついたよ。だから、それくらい望んだって罰は当たらないよね? その代わりに差し出せるものなら、目でも手足でもいくらでもあげるから──。
「だから……」
閉じていく世界の中で、どんなにつらくても助けてくれなかった神様に縋る。
ねえ、神様──。
「……朝陽くんを……連れていかない、で……」
***
魂を無理やり詰めこまれたような目覚めだった。頭の半分はまだ温かい泥の中に沈んでいるかのように、意識と肉体が上手に繋がっていない気がする。
瞼を開けると、視界を浸食している靄に人影が映った。目を凝らせば、悲壮の面持ちで私の顔を覗き込んでいるお母さんと視線が合った。
「陽菜……! 目が覚めたの……⁉」
「お母……さん……なんで、ここに……」
「あんたが病院に運ばれたって聞いて、飛んできたのよ!」
改めて周囲を見回せば、白い壁に白い床──微かに漂う消毒液の匂い。お母さんは仕事を抜け出してきたのか、肩が大きく出る派手でタイトなワンピースを身につけていた。
「手首を切ったって、なんでそんなことをしたの! 隣にはあの子もいたって言うじゃないっ、ふたりで心中でもするつもり⁉」
「あの、子……」
花火が打ち上がるように、脳裏に浮かんだ朝陽くんの顔。どくどくと血液が一気に全身に駆け巡り、意識がはっきりとしてくる。
「あさ、ひくん……は……朝陽くんは……どこ……?」
「あんた、まだそんなこと言ってるの⁉」
がしっと強く肩を掴まれる。
「あの子といたら、あんたは不幸になるんじゃないの⁉ あの家族と関わったら、あんたも──」
「うる、さい……!」
私は、お母さんの言葉を遮った。お母さんを押し退けながら、思うように動かない身体を気力だけで起こす。
「みんな……勝手なことばっかり言わないでよ! 私たちの幸せを勝手に決めないで! 不幸だって決めつけないで!」
それは傷ついて傷ついて、それでもふたりで在ろうとする私たちへの侮辱だ。
点滴を引き抜き、ベッドから降りようとすると、足に力が入らなかった。ぐらりと倒れそうになる私を、お母さんが受け止めてくれようとしたのだが──。
「大丈夫だから!」
お母さんの腕を振り払う。そのまま床に転んだ私を、なおも助け起こそうとしたお母さんを押し退けた。
「ひとりで平気! 行かなきゃいけないの……っ、朝陽くんのところに……!」
足に力が入らないなら、這いつくばってでも行く。私は四つん這いになって、病室の出口まで向かった。
「……あの子なら……地下B1階の手術室よ」
どこか諦めの響きを纏ったお母さんの声が背中にかかる。歩みを止めた私は、振り返らずに尋ねた。
「なんで……教えてくれるの?」
「……あの子と引き離すと……あなたは死んでしまいそうだったから」
間違いない。私は朝陽くんと離れて生きてはいけない。どんなに出会ってはいけなかったと、そばにいて傷つけると思っていても──。
「私の命は私のものだけど……命って、ただあるだけじゃ駄目なの。私の命を生き生きと燃やす……そういう存在が必要なの」
「それが……あの子だって言うの?」
答える必要はなかった。お母さんが私に彼の居場所を教えた時点で、答えはわかっていると思ったから。
私は廊下まで這っていき、手すりに掴まりながらゆっくりと立ち上がる。
「っ、朝陽くん……」
私たちはお互いを置いて行ったり、置いて行かれたりの繰り返しだ。一緒に歩みたくても、世界がそれを許さない。
エレベーターに乗り、地下まで下りる。ひんやりとした長い廊下を進み、突き当たりに手術室はあった。赤い無情な輝きを放つ【手術中】のランプが点灯している。
「ああ、朝陽くん……」
手術室の扉に手をつき、ずるずると崩れ落ちた。床にへたり込んだ私は、祈るように両手を握り締める。
「あの子……百瀬朝陽くん。頭をバットかなにかで殴られたみたいで、運ばれてきたときには意識不明だったらしいわ」
私を追いかけてきたのだろう、お母さんの声が後ろから響いてくる。
「私の……せいなの。朝陽くんは……私の目を治すために、その手術代をまかなおうとして、闇金にお金を借りた。バイト代だけじゃ足りなかったから」
お母さんが息を吞む気配がする。私の目のことなど、なんとも思っていないと思っていた。だが、今確かにお母さんの中の罪悪感を感じた気がした。
「朝陽くん、闇金に追いかけられてたの。駆けつけたときには、ボコボコに殴られてて……っ、なにがあっても一緒にいようって言ったのに、命懸けでお金を借りるなんて……。あの人、今も昔も……病気的なくらい、お人好しすぎる人なんだ」
そして、そんな彼の愚かしいほどの優しさを知っていながら、私は絶対に口にしてはいけない言葉を吐いた。『出会っちゃいけなかった』と、これまで私のために人生を捧げてくれた彼の想いを踏みにじった。
朝陽くんは私がなんて言おうと、会えてよかったと言ってくれたのに。
「ねえ、朝陽くん……相手の未来を奪ってしまったと、そう知ったときの絶望って、こんな痛みなんだね……」
私が事故に遭ったこと、私のお父さんが自分の弟のせいで捕まったこと、失明することを知ったとき、朝陽くんは永遠に癒えない傷を負い、いっそ死んだほうが楽だと思えるほどの痛みを味わったんだ。
なのに、私は朝陽くんになんて言った? もう自分を許してあげて? 朝陽くんの人生を歩いて?
そんなこと、よく言えたものだと鼻で笑う。
朝陽くんは言っていた。つらいことがあったとき、胸が痛むのは普通のことだと。その感情を拒まないでと。ちゃんと傷を認めてあげなくちゃ、薬は塗ってあげられないんだと。どう痛みを癒していけばいいのか、どう傷を治していけばいいのかがわからないままになってしまうと。
「私が、朝陽くんの傷を覆い隠した……っ。朝陽くんに私への罪悪感を捨ててほしくて、朝陽くんのためだと言いながら、私のせいで朝陽くんが苦しんでるっていう事実に耐えられなくて……」
じわりと目に涙が滲んだ。まるで血が染み渡るように、見上げた赤いランプの光が視界に広がっていく。
「そんなことをすれば、朝陽くんがその傷を隠して平気なふりをすることくらい、わかったはずでしょう? 前を向いたようなふりをしている間も、ずっと私の目や家族を奪ったって、苦しんでたはずなのに……!」
勝手に私を守ろうとした彼に対しての怒りではない。私は失明することを恐れ、嘆き、自分のことばかりにかまけていた。こんな大切な人の苦しみすら見えていなかった目など、なくなって当然だ。そう、これは自分に対する怒りだった。
「そうやって朝陽くんを追い詰めて、ひとりで決断させてしまった。自分を犠牲にして、私を幸せにするって……!」
いつからだった? 朝陽くんはいつから、こんな悲しい決断をしていたんだろう。
『でも、僕は陽菜先輩に失望してほしくない。こんな世界でも日の当たる場所があるんだって、そう思えるような希望を残したいんです。そのために頑張るから、今日一日、陽菜先輩の時間を僕にください』
朝陽くんが私をデートに誘ったときにはもう、死ぬ覚悟を決めていたんじゃないだろうか。
朝陽くんの見返りのない優しさは、朝陽くん自身にはちっとも優しくないのだ。それどころか、彼を死に追いやる残酷な感情だ。
「なんでちゃんと伝えなかったんだろう。朝陽くんはわかってない。朝陽くんがいるだけで、そこは日の当たる場所になるのに。陽だまりのそばにいるみたいに、胸がぽかぽかするのに……!」
朝陽くんならわかってくれていると、同じ気持ちだと、そう過信していたのだ。
溢れる涙を閉じ込めるように目を閉じるけれど、収まりきらずに流れていく。お母さんは躊躇いがちに、私の肩を抱いた。
「滅多なことで泣かないあんたが……そこまで、朝陽くんが大事だったの?」
泣くばかりでなにも答えない私に、お母さんは深く息をつく。
「ほら、まずは座りな」
そう言って私を立たせ、手術室前の椅子に座らせると、自分も隣に腰掛けた。
「……一緒にいても苦しいだけなのに、周りからも望まれていないのに、どうして朝陽くんじゃないと駄目なのよ?」
普段は人を小馬鹿にしたような態度か、喧嘩腰なのに、お母さんの口調が柔らかい。そのせいか、いつもみたいに反射的に言い返す気にはならなかった。
「それを言うなら、お母さんはどうしてお父さんと離婚しないの? 冤罪だけど、それを知らない世間はお父さんを犯罪者だと信じてる。その妻でい続けるのは、苦しかったはずだよ」
「それは……」
「浮気してるけど、それでも別れない。離婚すれば苗字も変わるし、私たちが犯罪者の家族だって気づかれずに生活できたかもしれないのに」
理由がわかっていて、あえて尋ねた。苦しくてもそばにいようとするのはなぜか、それはお母さんがいちばんわかっているはずだ。
「……簡単にできるものじゃないの、離婚なんて。なんだかんだ、あの人には情があるし……もう、切っては切り離せないものになってる……運命共同体みたいなものなのよ」
「それ、私もそれが理由」
目を逸らさず告げれば、お母さんは呆れ気味に息をつく。
「子供の恋愛と一緒にしないで」
「行きずりの恋愛に逃げてるお母さんにだけは言われたくない」
「な──言うようになったじゃない」
睨み合っているとなんだか可笑しくなってきて、ふたりで同時に「ふっ」と笑う。こんなふうに普通の会話をしたのは、いつぶりだろう。
「お母さん、朝陽くんは別人になってまで私を守ろうとしてくれた。平凡な日常と引き換えに、私の移植のためのお金を作ろうとしたのも、なんて馬鹿なことをしたんだろうと思う」
そして私も……彼が抱える苦しみや彼の私への想いの深さに気づかなかった大馬鹿者。朝陽くんがいなくちゃ、私が生きる意味なんてないのに。
「だけど、それでも……そんなふうにしか私を守る方法を知らない不器用で優しい朝陽くんが……愛おしいんだ」
「陽菜……」
蔑むのではなく、心の底から労わるように名前を呼ばれたのは久しぶりだった。するとそこへ「夜尋!」と男性の叫ぶ声がして、足音が近づいてくる。
「夜尋……」
私たちの前を走り抜けていった男性は、手術室の前に呆然と立ち尽くした。その姿と声に覚えがあった私は、ふらつきながらも立ち上がる。
半信半疑で男性に近づくと、すっと隣に現れたお母さんが私と腕を組む。視力の悪い私を支えてくれたのだろう。
「あの……」
声をかければ、男性が振り返った。
「きみは……前に夜尋とうちに来た……」
「三葉陽菜です。お母さん、この人は朝陽くんのお父さんの……」
「またなのか? お前たち家族に関わると、ろくなことがない!」
私の言葉を遮り、朝陽くんのお父さんが声を荒げる。ズカズカとこちらへやってきて、私の肩を乱暴に掴んだ。
「──ちょっと! うちの娘になにするのよ!」
お母さんが朝陽くんのお父さんを思いっきり突き飛ばす。それによろけた朝陽くんのお父さんは、数歩後ずさった。
「あんたたち家族に関わるとろくなことがない。そのセリフ、そっくりそのまま返すわ!」
私を庇うように前に立ったお母さん。その背中を見つめながら、胸がじんと熱くなる。
お母さん、私のことを『うちの娘』って言った……。
あんなにわかり合えないと思っていたのに、心の底からうれしかった。どんなにひどい目に遭わされても、子供はお母さんを慕ってしまうものなのだ。愛してしまうものなのだ。
きっと、朝陽くんも……。
朝陽くんはお父さんたちに会いに行って、話し合うことすらできなかったあの日、家族とはこれっきりだと言っていた。その選択を私も受け入れると言ってしまった。
けれど、その選択をする前に、もっと足搔いてみてもいいと思うんだ。どうしたって愛してしまう家族と、できる限り離れずに済むように。
大切なものをたくさん失ってきた朝陽くんのためなら、私……いくらでも戦うよ。きみがそうしてくれたように、こんな世界でも日の当たる場所があるんだって、そう思えるような希望を今度は私が残す。そのために頑張るから、だから朝陽くんも負けないで。絶対に生きて──。
「まず……朝陽くんをこんな目に遭わせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げると、「なんの真似だ」と厳しい一声が降ってくる。私は顔を上げ、お父さんの射抜くように鋭い目をしっかり見据えた。
「お前は疫病神だ、不幸しか連れてこない。お父さんは夜尋くんにそう言いましたよね。だけど、ここに駆けつけた」
「……だったら、なんだ」
「お父さんは、夜尋くんのことを今も息子として大切に想ってる。それなのに、どうして夜尋くんを見ようとしないんですか?」
朝陽くんのお父さんは答える気がないのか、答えたくないのか、だんまりだった。
「私の目……もうじき完全に見えなくなるんです」
下瞼に指先で触れながら、私は切ない気持ちを胸に抱きつつ笑みを浮かべる。
「聖也さんが私を道路に突き飛ばしたときにできた事故が原因で、角膜と脳が傷ついてしまったから」
「そんな嘘、よくも──」
お父さんは顔を真っ赤にして、憤然と食ってかかろうとしてくる。それを「嘘ではありません」と、きっぱり言い切った。
「これは、夜尋くんも知っていることです。私の事故のことは、少年院の面会室で聖也さん自身に聞いたそうです」
「よくそんな作り話が思いつくな」
「作り話でもありません。夜尋くんはずっと罪悪感を抱えながら生きてきた。自分が私を巻き込んだって、そう思ってる。それで今回……私の目の手術費用をまかなうために、闇金に手を出して……暴行を受けた。それが今、朝陽くんがここにいる理由です」
お父さんは相槌も打てないほど、ショックを受けているようだった。
「夜尋くんは何度も私を守ってくれました」
「何度も?」
お父さんは眉をひそめる。
「はい。挙げるときりがないですが……中学一年生のとき、私が聖也さんに一方的に殴られたときも、夜尋くんが助けに来てくれたんです。でも、聖也さんを殴り返してしまった。そのせいで少年院に……」
「聖也が吹っかけたと言いたいのか」
「夜尋くんは優しい人です。聖也さんに壊されてしまうまでは、お父さんから貰ったヘッドホンを大切にしてた。誰かのために命も張れる。そんな人が弟にひどいことをするはずがない」
断言すれば、夜尋くんのお父さんはもう頭ごなしに否定することはなかった。
「夜尋くんに言われたはずです。大事なことから目を背けて、嘘に塗れながら生きていくのかと。夜尋くんをまだ疫病神だと思っているのなら、ここで帰ってください」
「……なぜ、きみにそんなことを言う権利がある」
言い返しながらも、その声には覇気がない。
「親しか、病院の面会は許されてないからです。あなたが親であることを認めていないなら、彼には会えない。それとも、都合のいいときだけ父親を名乗るんですか?」
お父さんは渋い表情で「ううむ……」と俯き、しばし沈黙した。やがて、覚悟を秘めたような面持ちで顔を上げる。
「……迷っていたんだ。いや、今でも……気持ちがぐらついている。夢に見た家庭を手に入れるのと引き換えに夜尋を失うか、夜尋を守るために家庭を失うか……」
どちらが大事かは自分が決めることで、他人がとやかく言える権利はないけれど──。
「それ、どちらかを選ばなければならないんですか? どちらも選べるように、他にできることはなかったんですか?」
大人は人との関係や人の気持ちと戦わず、回避しすぎている。ぶつかることを恐れて、嫌われることを恐れて、わかり合う前に理解してもらえるわけがないと引いてしまう。
「私は……犯罪者だと思っていた父をずっと受け入れることができませんでした。だけど、お父さんは私を守るために、本当は罪を犯していないことを誰にも言えずにいたんです」
「……私もそれを知っていたけれど、言えなかったの。娘を守るために……」
私を支えてくれていたお母さんが苦しげに告げた。
「父は……聖也さんにもし本当のことを話したら、私の恥ずかしい写真をばらまくと、そう脅されて……本当は聖也さんが父を陥れるために自分で怪我をしたのに、そのことを話せずにいました」
「聖也が……そんなことをするはず……」
そう言いながらも、お父さんは狼狽えているようだった。
「私は父が私のためになにを犠牲にしてきたのか、今でも私を愛してくれてることも、ちゃんと知ることができた。もし父に会いに行かなければ、私はその真実に気づかないまま、ずっと父を憎んでいたかもしれない」
そう考えると、本当に恐ろしいことだ。大切な人を誤解したまま、知らずに恨み続けるなんて……悲しすぎる。
「直視できないくらい残酷な真実が待っていようと、それでも向き合い続けた先に陽の当たる未来があるんだと思います」
真実をはっきりさせなければ、進むべき道がわからないまま人生に迷うことになる。誰かを傷つけた過去も、大切な人の犯した間違いも、己の罪も……全部受け止めて、自分なりに昇華していかなければ、ずっとモヤモヤを抱えたまま生きていくことになるのだ。
どうせ生きるなら、後ろ暗い日陰の世界より、陽の当たる世界で堂々と生きていけるほうがずっといい。
「夜尋くんのお父さん。つらい現実から目を逸らして、大切なことに気づけないまま、大事なものを失うかもしれない。それでもいいんですか……?」
その問いに、夜尋くんのお父さんは口を噤んだままだった。
***
十二時間にも及ぶ手術は無事に成功し、朝陽くんは一命をとりとめた。面会時間は午後六時までなのだが、今日は特別に何時まででもいさせてもらえることになっている。
朝陽くんのお父さんとお母さんは、飲み物を買いに病室から出ていた。ここには目覚めない朝陽くんと、目覚めを待つ私のふたりきり。無音の時間が続けば続くほど、このまま朝陽くんが目覚めないんじゃないかと、不安が押し寄せてくる。
私は気を紛らわせるように、頭に痛々しい包帯が巻かれた朝陽くんから目を逸らし、窓越しに白み始めた空を見つめた。
「朝陽くん、朝陽くんの名前は……朝の太陽、でしょう? 太陽は絶対に昇るものなんだから、朝陽くんは……絶対、絶対……目を覚まさなきゃ……駄目、なんだよ……?」
言いながら声が震える。堪えきれない涙を隠そうと両手で顔を覆い、嗚咽を漏らしていると──。
「俺……なにから謝れば……いい?」
声が聴こえて、私はびくりと震える。すぐに顔を見たいのに、なぜかそれができなかった。怖かった、これが幻聴だったらって。
「もう、顔も見たくない……?」
両手で顔を覆ったままだった私は、その言葉に抗えなかった。心が──もう抑えきれなかった。
「そんなわけないでしょ!」
勢いよく顔を上げ、私は朝陽くんの胸を叩いた。薄暗い病室では朝陽くんの顔ははっきり見えないけれど、たぶん困ったように笑っているんだろう。
「俺、一応病人なんだけど……叩くか? 普通……」
「手加減した! 本当だったら、もっとボコボコに殴ってるところだよ!」
朝陽くんは「ん、わかってる」と優しい声音で言う。それだけで、私の頑なな心がほぐされていく。
「なに……してんの? こんなになるまで、なんで人のことばっかなの?」
ポカポカと朝陽くんの胸を叩きながら、私はくどくどと泣き言をこぼした。全部、答えがわかっている問いだった。だけど、私を置いてきぼりにする朝陽くんが許せなくて、どうしても責めずにはいられなかった。
「光を……俺は陽菜の光を……奪ってしまったから……」
「あれは……っ、私の目が見えなくなったのは、朝陽くんのせいじゃない!」
何度そう言葉を重ねても、朝陽くんは自分を許してはくれないのだ。
「でも、俺自身が許せないんだよ。少年院に入ってる間、陽菜のそばにいられないときに陽菜を守れなかった……。あのときの悔しさが、無力な自分への怒りが、罪悪感が……消えないんだ」
朝陽くんは前に『大切な人の悲しみを共有したくても、できないことがある。手の届かない場所にいたりとか……ね。だから、自分の知らないところで大切な人が泣いてるとか、もう嫌なんだ』と言っていた。
朝陽くんが守れなかった人……それは私自身だったのだ。
「──っ、だからって! 危ない人たちからお金借りて、それで私を助けられれば満足だった? それで朝陽くんがいなくなったら、意味ないのに!」
朝陽くんは全部受け止めると言わんばかりに、ただ「うん」と相づちを打つだけだった。それに甘えて、私は言いたい放題に気持ちをぶつける。
「私より目が見えてるはずの朝陽くんのほうが、なにも見えてない!」
「ごめん……俺、馬鹿だから……これしか、思いつかなかったんだ……」
「ほんと、大馬鹿だよ……だけど、もっと馬鹿なのは私だね」
私は朝陽くんの手を取り、ぎゅっと握り締めた。
「陽菜……?」
「失明するんだって、いざ思ったら怖くて……ひとりで絶望してた。考えが悪いほうへ悪いほうへ傾いていっちゃって……。出会わなければよかったなんて、ひどいこと言ったよね。つらいのは私だけじゃないのに、気づいてあげられなくてごめんね……」
朝陽くんの手がまだ温かいことに、私は心底ほっとする。一歩間違えたら、この人を失っていたかもしれなかった。手遅れになる前に、朝陽くんの手を掴むことができてよかった──。
「私の弱さが……朝陽くんを追い詰めてしまったんだよね。だからね、私……もっと強くなる。この不透明で真っ暗な世界を……受け入れる」
『え……』と、声にはならなかったが、朝陽くんの口がそう動いた気がした。
「この目が光を失っても、朝陽くんさえ失わなければ、私の世界は明るいんだよ。朝陽くんさえいてくれたら、そこは日の当たる場所になるの。陽だまりのそばにいるみたいに、胸がぽかぽかするの」
朝陽くんの目から、光の粒が──月明かりを含んだ涙がこぼれ落ちていく。私は朝陽くんの胸に手を当て、小さく笑みを浮かべながら、少しだけ首を傾げた。
「朝陽くんは……違う?」
朝陽くんは息を詰まらせ、繋いだ手に力を込める。
「違わ、ない……違わない」
首を横に振りながら、掠れた声で絞り出すようにそう言った。私は朝陽くんの顔に触れ、涙の跡を辿るように指先で拭う。
「朝陽くん、言ったよね。今まで経験したつらかった過去よりも、これから作る過去のほうが多くなるんだって。私は……これから作る過去には、朝陽くんにいっぱいいてほしい」
「俺もだ……陽菜。これから作る陽菜の過去の中に、たくさん俺がいたらいいって思ってる」
そこまで言って、朝陽くんは自嘲的な笑みをこぼした。
「……俺、なにもわかってなかったんだな。俺が陽菜を思うのと同じように、陽菜も俺を大事に思ってくれてるんだってこと」
「うん、想いは一方通行じゃないんだよ」
「……ん、そんな簡単なことにも気づけなかった。俺の独りよがりな守り方のせいで、陽菜にあんなことさせて……本当にごめん」
朝陽くんの指先が私の手首に巻かれた包帯を撫でる。
「手首、痛かっただろ?」
「それはお互い様。朝陽くんだって痛かったはずだよ。私たちはお互いのために傷ついた」
私は朝陽くんの頭に巻かれた包帯にそっと触れた。手のひらにべったりとついた赤い血の色、生温かい感触、鉄錆の匂い……その全部が鮮明に脳裏にこびりついている。あんな思いは、もう二度としたくないから──。
「だから、このことは、これでおしまい。忘れないけど、これでおしまい。これからのことを考えよう。私たちの未来のこと」
「……そうだな。考えよう、俺たちの未来のこと」
人の心は不安定で、簡単に離れてしまう。だから、努力して繋いでいないといけない。だから、あえて言葉にしなくちゃいけない。大切な人のそばに、ずっといるために。
「あのね、前提として……なんだけど。朝陽くんの存在が……私の命なの」
「それなら俺だって……陽菜の存在が俺の命だ。だから、死に物狂いで守りたいんだ。きっと」
「うん、そうだね……。私は、どちらか一方を生かすためにどちらかが死んで、どちらか一方が幸せになるためにどちらかが不幸になるような、そんな呪いみたいな関係は嫌。朝陽くんとは、お互いが生きる理由で、ふたりでいるから幸せになれる関係がいい」
「陽菜……陽菜はやっぱ眩しいな」
朝陽くんは今、柔らかく目を細めて私を見つめているんだろう。私の好きな、朝陽くんの表情だ。
「記憶を失っても、目が見えなくなるってわかっても、どんなときでも輝きを失わない。俺はそんな陽菜を好きになったんだ」
「朝陽くん……」
「俺も……お互いの存在が生きる意味で、幸福そのものになればいいって、そう思う」
駆け違えたボタンを留め直すみたいに、気持ちをすり合わせていく。こうやって、大切な人と同じ価値観を共有していったら、いつか──。
私たちがなりたいと望んだ関係になれるはずだ。お互いの存在が生きる意味で、幸福そのものになるはずだ。
「朝陽くん、私ね……お母さんがあんなで、お父さんもいなくて、ずっとひとりで生きてきたような気がしてた。だから、誰かに助けを求めるって選択肢がそもそも自分の中になかったんだ」
目を伏せ、自分のこれまでの人生を振り返る。生活費や学費を自分で工面しなきゃならないとか、失明することも、そのあとに待っているいつもとは違う人生のことも、いつだってひとりで悩んで答えを出してきた。だから誰かに相談して、選択肢を導き出すということをしてこなかった。
「朝陽くんと出会ったあとでさえ、自分では頼ってるつもりでも、まだ助けを借りることを恥じている自分がいたの。信頼してないわけじゃない……ただ、急に生き方を変えることは難しいってこと」
朝陽くんはじっと私の話に聞き入っている。全く違う環境で生きてきた人間がわかり合うには、途方もない時間、たくさん話をしなくてはいけないんだと思う。どんなに些細なことでも、気持ちを伝え合わなきゃいけないんだと思う。
「だけど、そうやって自分ひとりで抱え込んで、勝手に追い詰められて、癇癪起こすみたいに大切な人たちを拒絶して……それで朝陽くんを失っちゃうんじゃ、意味ないもんね」
「陽菜、それなら何度でも、誰かに頼ることは恥ずかしいことじゃないって言い続けるよ。俺だって陽菜に助けられてる。お互いに心を支え合ってるんだ」
私たちは顔を見合わせ、ふっと笑みを交わした。朝陽くんと導き出した答えは、明日の見えない世界を優しく照らしてくれる。
「私、目が見えなくなっても、自分にできることはこれまで通り自分でしたいと思ってる。だけど、ひとりでできないことは、ちゃんと朝陽くんを頼る」
「なら俺は、陽菜が誰かに寄りかかる生き方もできるように、強くなるよ。って言っても、ひとりでなんでも抱え込むって意味じゃなくて、俺も陽菜に寄りかかる。陽菜にも弱さを見せられる強さを持つ」
朝陽くんが起き上がろうとしたので、私は電動ベッドのボタンを押して、それを手伝う。私たちは額を重ね、両手を握り合った。
「ねえ、朝陽くん。私たち失ってばかりだけど、取り戻せるものがあるなら、もう少し必死になりたい。……家族の絆も」
「それは……」
「私たちのこと、わかってもらえる人にだけわかってもらえればいいと思ってた。でも、私は朝陽くんと胸を張って太陽の下を歩いて生きていきたい。見えなくなる前にすべてに決着をつけて、朝陽くんとちゃんと今を見つめて生きていくことができたら、いつか私の世界が暗闇に閉ざされたとしても、希望を失わずにいられると思うんだ」
「今を見つめるには、過去に決着をつけなきゃならない……もんな。でなきゃ、ずっと振り返って絶望しての繰り返しだ」
「そう。だから、掛け違えたボタンをかけ直そう」
朝陽くんは心を決めるように、強く頷いた。そのとき、朝陽くんの顔に眩しい光が差し込む。ふたりで窓のほうを向くと、世界の地平線から赤々と昇る朝日が見えた。
「朝陽くんの光だね」
「ああ、陽菜みたいに眩しい」
しばし、朝日に目を奪われた。
私たちは生きている。この不条理で不公平で冷たい世界に、確かに生きている。身体に流れる赤い命の色をした光を浴びながら、そう実感していた。
ふいに後ろで足音がした。振り返ると、思い詰めた面持ちで朝陽くんのお父さんとお母さんが近づいてくる。
「どうして、父さんがここに……」
朝陽くんは目を疑うように、お父さんを見つめたまま動かない。ここに駆けつける理由なんて朝陽くん以外あり得ないのに、それを信じられない気持ちは大いにわかる。
「立ち聞きするつもりはなかったんだが……」
「あなたたちの話を聞いてたわ」
お母さんは腕組みをしながら、目を背けつつ言う。
「夜尋、お前が言ったように見たくないものには蓋をして、違和感に気づかないふりをして、普通の幸せの形にこだわって……私は本当に大事なものを失うところだったんだな」
お父さんは朝陽くんをまっすぐに見据えていた。
「お前を失うところだった」
「父さん……」
「お前が病院に搬送されたと聞いたとき、生きた心地がしなかった。もう、こんな思いをするのはたくさんだ」
ベッドサイドまで歩いてきたお父さんは、その場に膝をついた。
「私に心配する権利も、もうないのかもしれないが……本当にすまなかった……っ」
お父さんがベッドに額を押し付けると、朝陽くんは戸惑うように私を見る。頷いて背中を押せば、朝陽くんは躊躇いがちに口を開いた。
「心配かけて……ごめん。けど、来てくれて……うれしかった。やっぱり俺、どれだけ邪険にされても、父さんが好きなんだな」
「父さんも、お前を失いそうになるまで忘れてしまっていたが……夜尋が大切だ。それに気づかせてくれたのは、お前と三葉陽菜さんだ」
私に優しい眼差しを向けてくるお父さんは、目元が朝陽くんにそっくりだった。
「三葉さんはお前の手術中、私が見ないふりをしてきたお前の話をたくさん聞かせてくれたんだ」
「陽菜が?」
驚いたように私を振り向く朝陽くんに、私は照れ臭くなって視線を手元に落とす。
「お前を犠牲にして手に入れる幸せなんて、きっと長続きしない。俺の息子がそこにいなければ、心にぽっかり穴が空いたままになる。子供は親にとって、身体の一部だからな」
それを聞いたお母さんは「そうよね……」と呟き、タガが外れてしまったかのように、泣き出した。まるで子供のように嗚咽を漏らしながら、手の甲で涙を拭っている。
「今まで、あれだけあんたから目を逸らしてきたのに、あんたが死ぬかもしれないと思ったら、怖くてたまらなかった……っ」
私はベッドサイドの丸椅子から腰を上げ、お母さんの前まで歩いていくと、向き合うように立った。
「お母さん……お母さんは、どうして私を見たくなかったの?」
自分が嫌われた理由なんて、聞くのは怖い。けれど、お母さんとの関係をこれからも続けていきたいから、私は知らなくちゃいけない。
「あんたを見てると、あんたを守るために捕まったお父さんのことを思い出すからよ」
全身を耳にして聴く。どんな真実に傷ついても、きっと傷ついた瞬間から、前に進むためのヒントを得られるはずだから。
「あんたが青砥さんに関わらなければ、こんなことにならなかったのにって、パートを辞めさせられたり、ご近所さんに罵られたり、自分の状況が悪くなればなるほど、責めずにはいられなくなって……っ」
「それで、私と向き合えずにいたんだね……お母さん」
「親って身勝手よね。私たちは自分のことしか考えてない。子供にはなにをしても否定する権利はないって思ってる。まるで所有物みたいに──」
親子は近すぎるからこそ、お互いがひとりの意思ある人間であることを忘れがちだ。自分の一部として結束が強いぶん、離れたり、別の考えを持つことを毛嫌いする。尊重し合うことを忘れると、意のままに操る奴隷のような関係になりかねない。もしかしたら、赤の他人と友達になるより、維持するのが難しい関係かもしれない。
「今さら、あんたの大切さに気づくなんて、遅いわよね。でも、お母さん……ちょっとずつ、あんたと同じくらい強くなるから。だから……もう一度、陽菜のお母さんにしてくれる?」
縋るように乞われ、私は困った人だなと思う。
「お母さん、朝陽くんも言ってたけど、なにがあっても私にとってお母さんはお母さんしかいないんだよ。それに家族なんだから、一緒に強くなればいいじゃん」
「陽菜……そうね」
お母さんは目に涙を溜めながら口元を綻ばせる。お母さんがこんなに穏やかに笑っている姿は、本当に久しぶりに見た。
「聖也とも……話をしなければならないな。夜尋の話が本当なら、夜尋や陽菜さんのお父さんが捕まったのも、陽菜さんの事故も、自分の子供から逃げた私たち親のせいだ」
「父さん、俺たちは三葉さんたちに誠心誠意、償っていかないといけない」
「ああ。夜尋はすごいな。事実を受け止めて、正しい道を進んでいる。本来なら、私たち大人がしっかりしなければならないのに……」
「聖也がしたこと、事実だってわかったら、父さんはどうするつもりなんだ?」
「……たとえ家族の形が壊れようとも、然るべき罰を受けてもらう。聖也にも、私や母さんにも」
謝ってもらっても、彼らに罰を受けてもらったとしても、私やお母さん、お父さんが受けてきた仕打ちが帳消しになるわけではない。一度犯罪者のレッテルを押されてしまったら、いくら無実だと訴えたとしても信じない人だっている。人生を奪われたも同然だ。
でも、朝陽くんがずっと私たち家族に向き合ってくれた。その時間に誠意を感じたからこそ、私たちも彼らの決意を受取ろうと思える。
「三葉さん、まだ詳しいことを聖也本人に聞いていないので、謝罪は……できません。私は血が繋がっていなくとも、あいつの父親ですから。なので、事実をはっきりさせてから、改めて会いに行きます。今はどうか、それで許していただけますでしょうか」
朝陽くんのお父さんが私たちに向かって、頭を下げる。お母さんを見上げると、朝陽くんのお父さんのほうへ一歩を踏み出すところだった。
「わかりました。でも、事実を明らかにしたら、必ずあの人を自由にしてください。必ず」
あの人──お父さんのことだ。朝陽くんのお父さんは「約束します」と、再び頭を下げた。そのとき、カツンッと足音が響いた。
みんなが一斉に病室の入り口を振り向くと、そこには聖也さんとそのお義母さんの姿がある。隣で聖也三を見たお母さんが「あなた……」と憎悪の滲んだ声で呟いたが、私はその腕を掴んで首を横に振った。
まずは家族で答えを出してもらったほうがいい。もうきっと、夜尋くんのお父さんは真実を見極めることを貫いてくれるはずだから。
「あなた……今のはどういうことなの? どうして、聖也を傷つけた人たちと一緒にいるのよ⁉」
「美智(みち)、ここは病院だ。夜尋も安静にしてなければいけない、静かにするんだ」
「その子のこと……まだ気にかけてたの? あなたの息子は聖也でしょう⁉」
「夜尋もお前の息子だろう!」
朝陽くんのお父さんが怒鳴ると、お義母さんは驚いたように口を噤む。悲しいけれど、今の発言から嫌でもわかってしまった。お義母さんは、朝陽くんのことなんて息子だと思っていないのだ。
「聖也、お前の口から本当のことを聞かせてほしい」
「あなた!」
お義母さんに腕を掴まれたお父さんは、それを乱暴に振り払った。そのままお義母さんには目もくれず、聖也さんに近づく。
「聖也!」
お父さんに肩を掴まれた聖也さんは、深く息を吐きながら俯いた。
「そう聞いてる時点で、僕を信じてないってことじゃん」
そう言い捨てて、聖也さんは病室を飛び出す。お義母さんが「聖也!」と慌ててあとを追いかけていくと、病室には重苦しい静けさだけが残った。
***
病院を退院してすぐ、私はお父さんに会いに行くことにした。家を出ようとドアノブに手をかけたとき、ふと頭を過ぎったのはお母さんのこと。
お母さんとは一週間前、家に戻ってきてから改めて話をした。
お父さんが捕まった原因は、私にもある。理不尽だとは思うけれど、私が朝陽くんと関わったことが発端であることは否定できない。誰かを責めなければ心が壊れそうだったお母さんにとって、娘である私を責めたくないという母親心と、家族をこんな目に遭わせた私を責めたいという弱い心が相反して、お母さんの中に存在していたこと。そのどちらからも逃げるように、誰かの体温を求め、偽物の愛に溺れ、現実を忘れようとしたことを知った。
なにも知らないままの私だったなら、今もただ犯罪者のお父さんと親の責任も果たさずに男に走るお母さんを軽蔑していただろう。そうして大切な人たちのことを誤解したまま、生きていたかもしれない。そうと思うと、やっぱり恐ろしい。
向き合うことから逃げなくてよかった。これも全部、朝陽くんのおかげだ。
そんなふうに考えて、家の外へ出ようとしたときだった。
「──陽菜」
お母さんに呼び止められ、私は振り返る。
「お父さんのところに行くの?」
そう言いながら、私が表情を確認できるようにすぐそばまでやってきた。
一週間前までは私の目は薄暗くぼやけていたものの、至近距離でなら物の形や文字は識別できていた。でも今は、視野全体が暗い。点字ブロックの黄色がかろうじて見える程度で、もう周りの様子がほとんどわからなかった。
私の世界から、昼間がなくなってしまったみたいだ。
相手の表情を確かめる方法は顔に触れて、その動きを感じること。それをわかっているお母さんは、自然に顔を寄せてくれる。私はお母さんの顔に触れながら、「うん」と頷いた。
「いろいろ進捗を報告しにね。お父さん、私たちのことをそばで守れないこと、すごく気にしてたから……」
それを聞いたお母さんは、泣き出す寸前の子供のような顔になった。手のひらに下がった眉と、強張る頬の感触が伝わってくる。
「お父さん、お母さんはひとりで抱えきれなくなってしまったんだって言ってた。だから話し合ってみてほしいって。お母さんはあんなことがなければ、陽菜を大事に育てたはずだって」
「お父さんは……今の私のこと、全部知って……」
「うん……お母さん、前に夫婦は運命共同体みたいなものだって言ってたよね。それ、お父さんもだったんだよ。今のお母さんを知っても、お父さんはひと言もお母さんを責めたりしなかった。別れ話なんて少しも出なかったよ。ただただ、心配してた」
お母さんは肩を震わせながら、「うっ、うっ」と泣き始めた。手の甲に落ちてくる涙に思わず、私はお母さんの頭を撫でる。
「ねえ、お母さん。全部解決して、お父さんが自由になったら、一緒に迎えに行こうね。それで離れてた時間を埋めていこう。これから作る過去のほうが……長くなるんだから」
お母さんはこくこくと頷き、そのまま座り込んでしまった。その肩を抱きしめながら、ふいに気づく。
お母さん、こんなに小さかったっけ……。
子供の頃は、お母さんは自分を守ってくれる存在だと思っていた。でも、お母さんとうまくいかなくなって、怖い人に変わった。でも、今は──。
「お母さん、私がいるよ」
「え……?」
不思議そうに顔を上げたお母さん。私はお母さんの目尻のしわやほうれい線を指でなぞった。
このしわは私の知らない、お母さんの苦労の証。お母さんにかけられた言葉やされたことは決して忘れたわけではないけれど、このしわに触れていると、お母さんも苦しんでいたのだとわかる。
お母さんは派手な服を着て、化粧も濃くて、お父さんがいた頃とはまるで別人のようになってしまったけれど、どんな姿になっても、私はお母さんを嫌えない。 お母さんが好きなんだ。
私は心で寄り添うように、その額に自分の額をくっつける。
「誰かに誹謗中傷されたとしても、それで居場所を追われてしまったとしても、一緒にどうしたらいいか考えよう? 誰かの言葉に傷ついたら、私に愚痴ってよ。お母さんの話を受け止めるくらい、もうできるよ」
「陽菜……」
「ひとりで全部、なにもかも守ろうとしなくていいから。重たい荷物はふたりで持とうよ。ね、お母さん」
お母さんは、やっぱり子供みたいに泣いていた。でも、お母さんだって子供に戻りたい日もある。そんなときは、私がお母さんになればいい。そうやってお互いに守り合っていけばいいんだ。
「ごめんなさい、引き止めて。新幹線の時間があるでしょう? お母さんのことはいいから、もう行って」
「うん」
私は立ち上がり、今度こそドアを開ける。すると、再び「陽菜」と名前を呼ばれた。もう一度振り返れば、お母さんがふっと微笑む。
「いってらっしゃい」
「……!」
胸が熱くなり、きゅっと詰まる感じがした。いってらっしゃいを言われたのは、何年ぶりだろう。
鼻の奥がツンとして、今度は私の目から涙がとめどなく溢れてくる。
ずっと私に向き合ってくれないお母さんに背を向けるたび、何度も〝呼び止めて〟と願った。何度、今日も呼び止めてはくれなかったと、落胆したかわからない。だけど、今日は違った。
「行ってきます!」
自然と笑みが浮かび、私は勢いよくドアを開ける。一歩外に踏み出せば、太陽のぬくもりに全身が包まれる気がした。
私たちはきっと変わっていける、そう確信できる朝だった。
***
朝陽くんに誘導してもらいながら刑務所の面会室に入ると、お父さんは困惑気味に「その人は?」と尋ねてきた。
私は朝陽くんに促されるようにして椅子に座る。その隣に朝陽くんが腰かけるのを待って、慎重に口を開いた。
「特別に許可が出たの」
面会は原則、受刑者の親族しかできない。今回は被害者家族ということで、朝陽くんの面会を施設長が許可してくれたのだ。
「朝陽くんは……今は名前は違うけど、青砥聖也さんのお兄さんなんだ」
その瞬間、空気が張り詰めた気がした。ガタンッと椅子が倒れる音がして、すぐにアクリル板を叩く音が響く。
状況が掴めず朝陽くんを見上げると、「大丈夫だ」と腕に手を添えられた。
「128番! 座りなさい!」
刑務官の厳しい一声が飛んできてやっと、お父さんが立ち上がってアクリル板を叩いたことを理解する。
「なんで、お前たちが一緒にいる! あの家族には関わるなと、そう言っただろう!」
朝陽くんと私が一緒にいることに猛反対するお父さんの反応は、予測していた通りだった。
「お父さん、私は犯罪者の娘だって散々、周りから責められた」
静かに切り出せば、お父さんの刺々した空気が少しだけ鳴りを潜める。
「私が犯罪を犯したわけじゃないのにって、何度も思った。お父さん、身内が犯した罪を背負う家族の苦しみは、私がいちばん理解できてるつもり」
『ありがとう』と『ごめん』、他にも形容しがたい感情がこもった朝陽くんの視線を頬に感じた。
「聖也さんの罪と朝陽くんは関係ないよ」
「わかるだろう、自分の娘のことなんだぞ? そう簡単には割り切れない」
「そうだね。お父さんの立場からしたら、そんなこと知ったことかって感じだよね。けど、朝陽くんはずっと私たち家族のことを忘れずにいてくれた。私が失ってきたものを埋めるように、そばにいてくれたの」
断ち切るざるを得なかった人との繋がり、光を失くしていく目、自分の存在意義。壊れて欠けたピースを朝陽くんが治して埋めてくれた。
「朝陽くんがいなかったら、私は人を一生信用できずに、ひとりで生きていくことを選んでたと思う。朝陽くんがいなかったら、見えなくなっていく世界に悲観するばかりで、変わっていく自分を受け入れられなかった」
朝陽くんが罪悪感に押し潰されそうだった私を救ってくれた。それをどうすれば伝えられるだろうと悩んでいると、朝陽くんが立ち上がった。
「俺は……聖也がしたことを聖也に償わせるつもりです。それで陽菜さんの家族を元に戻したい。それだけを考えて生きてきました」
「きみもつらい思いをしたんだろう。だけど正直、きみと陽菜を関わらせたくない。陽菜を二度と、傷つけられたくないんだ!」
心の叫びを表すように、お父さんは再びガンッとアクリル板を叩く。
お父さんの気持ちはうれしい。だけど、朝陽くんの存在が私にとって害にしかならないと思われていることが悲しかった。
大好きな人たちがただ一緒にいることは、一見簡単そうでいて難しい。
「俺が離れて、陽菜さんが傷つかずに済むならそうしました。けど……離れていても陽菜さんが傷つくことがあるのなら、俺がそばで守ります! 泣いている陽菜さんをもう、ひとりにしたくないんです!」
朝陽くんの叫びが、胸を強く叩いてくる。
こんなにも誰かに想われている。ただそれだけで、私はこの世界に存在していいのだと迷いなく思えて、静かに涙が頬を伝っていった。
「お父さん、朝陽くんはもう、私の命になったんだ。だから、私は朝陽くんから離れたくない。離れられない」
「陽菜……お前……好きなのか?」
それが朝陽くんを指していることは、すぐにわかった。
「うん、好きだよ。そういう感情を教えてくれた朝陽くんが愛しい」
「……っ、そうか……。それでも、すぐに全部を受け入れることはできない」
「お父さん……」
すぐにわかってもらうのは、難しいだろうと思っていた。
数か月前の私なら、きっとお父さんを責め立てただろう。けど、家族という繋がりの脆さや複雑さを知った。守り方は人それぞれで、恨まれてでも真実を話さずにいたり、恨まないために逃避したり、見えているものだけがすべてじゃないことを知った。
私は視力を失うのと引き換えに、人の心が見えるようになったのかもしれない。
「お前が生まれたとき、父さんはこの世の中にこんなに美しいものがあるのかって、人生でいちばん感動したんだ」
お父さんは胸の奥の宝箱を開くように、柔らかな声音で話し出す。
「汚いとか、臭いとか言われても、無視されたって、お前の喜ぶ顔が見たいからコンビニに誘ったりして……アイスとか、デザートを買ってやったり……娘っていうのは、父親にとって命よりも大事なんだ」
「お父さん……ごめん。お父さんが心配してくれてるのはわかってる。けど、朝陽くんが私を傷つけることは絶対にないよ」
私が立ち上がると、すぐに朝陽くんが支えてくれる。
ほら──どんなときも、どんな私を見ても隣にいてくれたこの人が、私を守りこそすれ、傷つけることなんてあり得ないんだ。
「どうかそれを疑わないで。私が大切なら、私が信じてる人を信じてほしい」
アクリル板に近づき、そっと手をつく。
「娘のわがまま、聞いてくれたら……うれしい」
目の前で微かに人影が動くのがわかった。手にひらにほんのりと温かさを感じて、私は口元を綻ばせる。
「娘のわがままに、父親は弱いんだ」
お父さんが笑っている気がした。内心複雑ではあるのだろう。それでも、私の気持ちを尊重してくれたのだと思う。
「朝陽くん。きみと陽菜の関係やきみの弟さんのこと……すべてに折り合いをつけるのは、私にはまだ難しい」
「はい。当然です」
「でも、陽菜が誰よりもそばにいてほしいと思うきみに、娘を守ってほしい」
朝陽くんは驚いたように「お父さん……」と言った。
「ただし、娘が危険な目に遭ったら許さない。それだけは覚えておいてほしい」
「はい。今度こそ守るって、約束します」
私には見えないけれど、朝陽くんとお父さんの間で、今確かに強い繋がりが生まれたのだろう。それをふたりの真剣な空気から感じ取り、私は心強く思った。
***
帰り道、刑務所の前の坂を朝陽くんと並んで下っていた。
「朝陽くん、今って何時くらい?」
私の世界は常に暗いので、視界を頼りにだいたいの時間帯を予測することができなくなった。
隣でスマホを漁る音がして、すぐに「昼の十二時だよ」と教えてくれる。
「お昼なんだ……ほんと、全然わからなくなっちゃったな」
白杖を頼りに歩く私を朝陽くんは過保護に助けたりはしない。私が恐れているのは自分の力でできることが減っていくこと。それを知っているからだ。
でも、朝陽くんが私の不安を敏感に感じ取ったときは別。こうして自然に手を握ってきて、なんてことないと言うように明るく振る舞う。
「昼か夜かわからなくなっただけだろ。陽菜は耳が聞こえるし、声もあるし、触れた感覚もわかる。それだけで、なにもできなくなったわけじゃない。目が見えなくなろうと、陽菜は変わらず俺の心の拠り所で、生きる意味だ」
「朝陽くんは……私を元気にするスペシャリストだね」
「逆もしかりだろ。陽菜は俺を元気にするスペシャリスト。あと、そうやって後ろ向きになるときは、旨いものを食べるに限る」
「そんな単純な女の子に見えますかね、私」
「腹が減るからマイナス思考になるんだよ。ほら、なに食いたい?」
私は「んー、そうだなあ」と言いながら、食べたいもののことではなく、別のことを考えていた。
朝陽くんの手は大きいな、温かいな。朝陽くんの声って、こんなに落ち着くんだ。
そんなふうに視界に頼れなくなったぶん、他の感覚が研ぎ澄まされているのか、新たな発見がたくさんあった。それに気づくたび、私は朝陽くんをもっと愛しく思う。
「陽菜、なんか違うこと考えてるだろ」
「うわ、バレてる」
でも、それがうれしい。自分を理解してくれているのだと、実感するから。
「そういえば、手術のことなんだけど、受けられることになったよ」
手術の話は、お母さんと和解したあとに向こうからしてきた。お金も疎遠になっていた親戚中に頭を下げて、集めてくれたらしい。
朝陽くんは「本当か⁉」と大声をあげる。喜んでくれているのがわかり、私はくすくすと笑いながら、しっかり首を縦に振ってみせた。
「うん。でも、手術を受けても治るとは限らないの。私の場合、頭のダメージもあって、色覚に異常があるみたいだから……」
奇跡的に視力は戻ったとしても、モノクロな世界は変わらないかもしれない。それでも、私の目を治そうと命を懸けてくれた朝陽くんのためにも、私が希望を捨てることだけはできない。
「でも、可能性はゼロじゃない。それが一パーセントでも、賭けてみる価値はある。それで駄目なら、また一緒に考えよう。俺たちの未来のこと」
「陽菜の未来のこと……って言わないんだね」
「俺たちの、だろ。俺の命が陽菜の命で、陽菜の命が俺の命なら」
相手の命になってしまうほど、私たちは強く結ばれている。そう彼も思ってくれている。それはどれほど努力しても、渇望しても、得難い幸福だ。
「まあ、万策尽きたら、俺が陽菜に世界の色、形……全部教えるよ」
「朝陽くんの目に映る世界が、私の世界になるわけだ」
きっと綺麗なんだろうな、と空を仰ぐ。本当に微かだが、白くて丸い太陽の輝きを感じながら、私は続けた。
「ねえ、朝陽くん。私……この目がなにも映さなくなってしまったとしても、朝陽くんだけは見つけられる気がする」
あの光のように──。
心の中でそう呟き、瞬きをしたときだった。太陽がドボンッと闇に沈んでしまったみたいに、そこにあったはずの光が消えた。
私は足を止め、下瞼に触れながら何度も瞬きをする。バクバクと鼓動が鳴っていた。冷や汗が全身にじわりと滲み、末端が冷えていく。
「陽菜?」
名前を呼ばれて、私は声を頼りに朝陽くんのほうを向いた。そこで、胸を切られるような現実と直面する。
そうか、私はもう……朝陽くんを見つめることはできないんだ。
もう一度瞬きをしたあと、涙が目から弾き出される。とうとう、この時がきてしまったのだ。
「でも……やっぱり、朝陽くんだけは光って見える。噓じゃないよ、朝陽くんを感じる」
閉ざされた闇の中で、朝陽くんがいるところだけはふわっと淡く光っている気がする。錯覚かもしれないけれど、確かに彼の存在を感じて、私は泣きながら手を翳した。
「まさか……」
朝陽くんの動揺する声がした。私は全身の力が抜けて、へなへなとその場に座り込む。
覚悟はしていたけれど、こんなに恐ろしいとは思わなかった。これから私は、この闇の中で、どう生きていけばいいのだろう──。
「朝陽くん……どうしよう。どう、しよう……っ、なにも……なにも、見えないよ……っ」
取り乱した瞬間、強く搔き抱かれる。私はその腕に縋って、「もう、きみが見えないっ」と、みっともなく泣き喚いた。
朝陽くんはそんな私の頭を引き寄せ、自分の胸に押し付ける。
「その目がなにも映さなくなっても、俺だけは見つけられるんだろ? それでも見つけられないときは、陽菜が探さなくても済むように、俺が陽菜の手が届く場所にいて、その声が聞こえる場所にいて、抱きしめられる距離にいる!」
「でもっ……でも、それは……っ、あなたを縛ることに……っ、ならない……?」
嗚咽混じりに尋ねれば、朝陽くんは「ならない!」と即答した。
「俺たちは縛る、縛られるような関係じゃないだろ! 俺たちはどこにいても繋がってる。だから、また会えたんだろ!」
朝陽くんが叫ぶたび、なぜだか涙が止まらなくなる。今度は悲しいんじゃなくて、胸の奥底からほっとしてだ。
「俺たちはお互いがもうひとりの自分で、自分の一部で……命なんだろ! だからお互いを守り合って生きていくんだ!」
「ううっ……うう、う……」
「なにも怖くない。俺の身体は陽菜のものでもある。だから俺の目は、陽菜の目だ」
大きくて骨ばった手が私の頭を撫で、頬を撫で、髪を梳く。朝陽くんの存在すべてが私を守ろうとしていた。
「ありがとう、ありがとう、朝陽くん……っ」
「礼とかいらない。自分の命を守って、なにが悪い」
「悪くは……ない、けど……」
朝陽くんは怒っている。私がまだ、他人行儀なことを言っているから。
「でも、だからって……『なにが悪い』って……ふふっ」
こんなときに、どうして私は笑っているんだろう。だけど、朝陽くんが私のために怒ってくれることがうれしい。たったそれだけのことが、私を笑顔に変えてしまう。
「なんだよ、さっきまで号泣してたくせに……」
「朝陽くん、だんだん夜尋くんの話し方になってきたね。それもそっか、ふたりは同じ人なんだから」
涙を拭いながら、私は朝陽くんの顔に触れて唇を探す。初めは朝陽くんもびくりと震えたが、静かに身を任せてくれていた。
「朝陽くん、これが朝陽くんの顔……目の代わりに、ちゃんと覚えておく。記憶の中にある朝陽くんの顔を、こうして触れるたびに思い出せるように」
「ああ、じゃあ俺も──」
朝陽くんの手が私の顔に触れる。指先が私の形を確かめるように下瞼や鼻筋をなぞり、頬や顎を撫でていく。
「なんで、朝陽くんまで……?」
「陽菜の世界を知りたいから」
はっとした。朝陽くんは私と同じように目を閉じて、私の世界を感じているのだ。
この人はどこまで優しいの……?
「朝陽くんは……私を笑わせるだけじゃなくて、泣かせるスペシャリストでもある」
「なんだよ、それ」
朝陽くんの指が涙を拭ってくれる。
「目を閉じてさ、こうして陽菜に触れてると……少しだけ陽菜の世界に近づけたような気がする」
「私も……こうしてると、見えないはずの朝陽くんの姿が浮かんでくるんだ。すごく……すごく落ち着く……」
私たちはお互いの輪郭を確かめ合って、やがて同時に唇に触れた。ふたりでぴたりと動きを止めると、世界も静止したような錯覚がした。
私が探さなくても済むように、手が届く場所にいる。有言実行とばかりに、朝陽くんの気配が近づいてくるのがわかった。私はそっと目を閉じ、唇を重ねる。
あ……しょっぱい。朝陽くんも泣いてたんだ……。
できれば、この先はこの人を泣かせてしまわないように、嘆いてばかりの自分をやめよう。不完全な自分を受け入れて、この人が安心してくれるような自分になろう。
朝陽くんのためなら、いくらでも強くなれるんだ……私。
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