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11章 痛くても
気づいたら、私は高校の花壇の前にいた。
目の前には色とりどりの花、隣には朝陽くんがはっきりと見える。風は春のように心地よくて、少しぼんやりとしてしまう。
『なんで、カラーなんだろ』
朝陽くんが『ん?』と振り返った。私の言っている意味がわからないと、朝陽くんのきょとんとした顔に書いてある。
『花のことですか? 当たり前じゃないですか、僕にもカラーで見えてますよ』
どうしてか、朝陽くんは出会った頃みたいな話し方だった。
『当たり前……』
なんだ、見えるようになったじゃん。 それとも、見えなかったこと自体が夢だったのだろうか。
頭が混乱していたとき、どこからかスマホのアラームが聞こえてくる。風が吹き荒れて、散っていく花々から色が消えていき──。
はっと夢から覚めた私は絶望した。
真っ暗だ……目を開けたのに、真っ暗だ……。
『っ……』
ベッドに横になっていた私は額に腕を当てる。全身がガクガクと震えていた。目が見えなくなってから数週間も経っているというのに、私は何度も見えないことにショックを受けるのだ。
こんな朝が何度やってきたかわからない。夢と現実の差に幾度も打ちひしがれて、眠るのが怖かった。起きるのも怖かった。
でも、夢の中に現れる朝陽くんは決まってよそよそしい。まだ、夜尋くんであることを隠し、罪悪感という壁がある朝陽くんだ。
だから、見えていた頃に戻りたいとは思わない。今の朝陽くんと積み重ねてきた時間が私をこの絶望から掬い上げてくれる唯一の希望だ。
***
「陽菜、高校やめるの?」
今朝見た夢のことを思い出していた私は、薫の声で現実に引き戻される。ファミレスのざわめきが戻ってきて、私は自分が今いる場所を思い出した。
朝陽くんと冴島くん、そして薫の四人でファミレスに来ていたんだった。
ここ最近、目覚めの悪い朝が続いていたせいか、ふとした瞬間にあの悪夢に囚われそうになる。私の視界が真っ暗なのも相まって、今自分が起きてるのか眠ってるのか、夢かうつつか、はっきりしないことがあった。
「陽菜? 大丈夫か?」
隣に座っている朝陽くんが顔を覗き込んでくる気配がする。
「あ、うん。最近、嫌な夢見て……」
薫が「夢?」と聞き返す。
「その、夢の中では目がちゃんと見えてて、『なんだ、見えるようになったじゃん』って思うんだけど、 朝になって目を開けた瞬間に、『ああ、夢だったんだ』って絶望するんだ」
薫と冴島くんのいる向かいの席のほうから重たい空気が流れてくる。不思議なのだが、目が見えなくなった代わりに、人の感情を肌で感じるようになった。
「でもね、朝陽くんと心が通じ合えた今があるから、私は絶望しても前を向けるんだ。見えていた頃よりも、今のほうがずっと希望に溢れてるって思えるから」
カランッと氷が鳴って、私はその音を頼りにクリームソーダが入ったグラスを引き寄せる。手探りでストローを掴むと、一口だけ飲んだ。
「陽菜……」
朝陽くんがうれしそうに私の名前を呼んだとき、冴島くんは「ほお~」と意味深な声をこぼした。
「なんか朝陽、変わったよなー。主に口調が。いつから、そんな男らしくなったんだよ」
「俺はもともと、こうなんだよ」
「ほら、それ! 前は〝俺〟じゃなくて〝僕〟だったじゃん」
夜尋くんだった頃を知らない人からしたら、あの爽やか王子様がと衝撃を受けるのも無理ない。
私は苦笑しながら、冴島くんに答える。
「朝陽くんはもともと、オラオラ系だったんだよ」
「オラオラ系……」
冴島くんはしばし沈黙したあと、「想像つかねえ!」と叫んだ。それから机に身を乗り出すような衣擦れの音がして、隣から悲鳴じみた朝陽くんの声が聞こえてくる。
「手を握るな……」
「俺の王子様はどこいった!」
冴島くんは反応がいちいち面白い。真正面で薫も「ふふっ」と笑っているのがわかる。
「でもさー、朝陽のもともとを知ってるってことは、花壇先輩と朝陽は前からの知り合いだったってことっすか?」
その問いに私は朝陽くんのほうを向く。恐らく朝陽くんも顔を見合わせるように、私のほうを向いている、そんな気がした。
だから私は『話してみてもいいんじゃないかな』という意味を込めて頷く。それを感じ取ったらしい朝陽くんは、ふうーっと息をついた。
ややあって、朝陽くんが冴島くんと薫のほうへ向くような衣擦れの音がしたので、私も身体を前にして座り直す。
「実は俺たち、中学のときに出会って──」
そうして朝陽くんは、今に至るまでの私たちの軌跡を話した。薫と冴島くんは、私たちにとって貴重な友達と呼べる存在だからだ。
話を聞き終えたふたりはたぶん、啞然としていたと思う。もし私がふたりの立場なら、壮絶すぎて韓国ドラマかよ!と思う。
「なんつーか……俺は今の朝陽のことしか知らないから、驚くこともあるかもだけどさ。朝陽が自然体でいてくれたらって思うよ」
「冴島……」
「名前が変わろうが、姿が変わろうが、俺にとってはダチの朝陽であることに変わりないしな。いちばん楽な朝陽でいてくれよ」
青砥夜尋としての人生も含めて、朝陽くんを受け入れているとわかる言葉だった。それが朝陽くんにとってどれだけうれしかったか……私にはそれが自分のことのようにわかる。
「じゃあ俺、一日おきにキャラ変えようかな。今日は百瀬朝陽、明日は青砥夜尋って感じで」
「え、マジか……そこはもっとユーモアが欲しくねえ? 『おはよう、朝陽と夜尋どっちにする? それとも……』的な感じで選べるとかさ」
真剣に悩み、提案する冴島くんはやっぱり面白い。
「なんで『ごはんにする? お風呂にする? それとも私?』……みたいなノリなんだよ。つか、朝陽と夜尋以外の俺ってなに?」
「だよな。なんか俺、朝陽がいっぱいいすぎて混乱してきたわ……」
本気で深刻そうにしている冴島くんに、ふつふつと笑いが込み上げてくる。
「冴島が勝手に増やしたんだからな。自業自得だ」
極めつけは朝陽くんのツッコミだった。私は薫と一緒に吹き出し、お腹を抱えながら笑う。
「ふたりとも、いいコンビニなれるよ。お笑いの事務所でも入ったら?」
「私も薫の意見に賛成」
こういうやりとりができる友達が自分にできたことが奇跡みたいだ。今までは背伸びして、必死に自分を着飾らなきゃいけなくて、毎日びくびくしながら、ピリピリしながら過ごしていたから。
「ねえ、別々の高校になっても……こうして、みんなと会える?」
私がそう尋ねると、みんなはなんのこっちゃと言わんばかりに黙った。
「さっきの薫の質問。高校やめるのかって話……私、北上坂高校をやめることにしたんだ」
お父さんに会いに行った日の帰り道、私はすべての視力を失った。手術をしたとしても、視力が完全に回復するとは限らないし、そもそもドナーが自分に回ってくるまでは時間がかかるだろう。だから私は、見えない自分を受け入れることにした。
「薫、授業ノートとか、試験対策のノートとか……いろいろしてもらったのに、ごめんね」
「そんなことはいいの! ……やっぱり、あの張り紙が原因でやめるの?」
心配してくれている薫に、首を横に振った。
「それもあるけど、いちばんは目が見えなくなったから……かな。こういうとき、ドラマとか映画なら、かっこよく『障害があっても普通科の高校に行く!』って決断するところなんだろうけど……私は盲学校に行く」
「盲学校って、目が見えない人の学校でしたっけ?」
冴島くんの質問に頷いて答えた。
「実はね、取り寄せていた盲学校のパンフレットをお母さんとも見てみて、見学にも行ってきたんだ。生徒の障害の特性とか程度に応じて、点字の指導とか、白杖歩行の訓練とか、卒業後の生活自立に向けての訓練とかもしてくれるんだって」
障害と聞くと、できないところばかりに目がいってしまいがちだが、盲学校では伸ばすことの出来る能力を発展させていけるように教える工夫がなされているのだそうだ。
「私は見えない今の自分を受け入れるって決めた。全盲である自分を否定して、周りの人たちを悲しませるのは嫌だから」
闇金にお金を借りるとか、休む暇もなくバイトさせるとか、朝陽くんにあんな無茶な真似はさせないって決めた。朝陽くんをもう泣かせない……だから、見えないことを嘆くのはやめたんだ。
「私は生きる術を身に着けるために、盲学校に行く」
これが私の答えだ。言葉にしているうちに、心も固まったようだった。
ふと、テーブルに置いていた右手に手が重なる。横を向き、私は空いているほうの手で朝陽くんの顔に触わった。すると、目尻が下がって、口元が綻び、微笑みかけてくれているのがわかる。
「やっぱり眩しいな、陽菜は」
朝陽くんがそう言ってくれる限り、私は今の自分を悲観せずにいられる。
どんなに全盲である自分を受け入れると言っても、ふとした瞬間に弱くなることもある。私自身もなにもできないと、自分を否定しそうになる。
だけど、朝陽くんが私を肯定してくれるから、自分を認めてあげられるのだ。やっぱりきみは、私を生かす命そのものだ。
***
カフェに行った日から一か月後、季節は夏になった。
「ドナー、見つかってよかったわね」
病院を出ると、お母さんが声を弾ませながらそう言った。
四か月後に一回目の角膜移植の手術が決まったのだ。今日はその計画を住吉先生と立てた。
国内ドナーの角膜は保険適用なのだが、角膜提供者が少ないためにドナーがいつ回って来るのかわからない。だから、私とお母さんは提供者が多い海外ドナーを選んだ。
「お母さん、負担かけてごめんね」
海外の角膜は健康保険の対象外のため、両目で八十万円する。
しかも、一回の入院でできるのは片目の手術のみ。その三、六か月後にもう片方の目もできるそうなのだが、そうなると二回分の入院費用がかかってしまう。
入院費は高額医療費制度でだいたい戻ってくるけれど、二回ぶん合わせて十一万くらいは自己負担になるそうだ。角膜と入院費用だけでも、相当かかる。
「それを言うなら、お母さんのほうが今まであなたに負担をかけていたわ。だから、これくらいさせて」
「お母さん……」
しんみりした空気を変えるように、お母さんが私の手を引きながら足を止めた。
「病院の敷地内にある桜の木、すっかり青葉に変わってるわよ」
声の遠さで、お母さんが桜の木を見上げているのがわかる。私も緑の香りに誘われるように、顔を上げた。
「夏だもんね。セミの鳴き声がすごいもん」
「そうね。あなたが手術を受ける頃には、冬になってるわね」
朝陽くんと再会した春が終わり、世間は早くも夏休みに入った。私は九月、新学期から盲学校に通うことが決まっている。
「このあと、朝陽くんと待ち合わせしてるんだっけ?」
「ああ、うん。今って、何時?」
「午後の十二時。ご飯も食べてくるの?」
光を感じられないので、ときどき今が朝なのか昼なのか夜なのかわからなくなることがある。だから皆、私に時間を伝えるときは『午前』なのか『午後』なのかを自然と補足してくれるようになった。
「うん、たぶん。一時に病院の前で待ち合わせなんだ。だから、お母さんは先帰ってて」
「……なるほど、お母さんを朝陽くんに会わせるのは恥ずかしいと」
お母さんがにやにやしている気がして、私は「違うよ!」と反射的に否定してしまう。でも、正直なところ実はそうである。
「はいはい。朝陽くん来るまでは、車道に出ちゃ駄目よ。ここ、ベンチに座って待ってて」
お母さんは病院の桜の木の下にあるベンチに私を座らせた。
「晩御飯、朝陽くんも誘ってうちで食べたら?」
「そうする」
「じゃあ、あとでね」
お母さんは私の肩をとんとんと叩き、去って行った。足音が聞こえなくなると、私は朝陽くんに【終わったよ】とボイスメッセージを送り、目を閉じて空を仰ぐ。
湿気を帯びたむしむしした夏の空気。目が見えなくなってから、私は音や匂いや温度で世界を感じるようになった。
雨が降りそうなとき、風はこんなに湿気を纏ってるんだ。太陽ってこんなにあったかいんだ。人が緊張しているとき、汗の匂いって酸っぱいんだ。
そんなふうに、当たり前のことも新発見になる。いかに人が目に頼りきって世界を見ているのか、それをしみじみと感じた。
ふいに足音がまっすぐこちらに近づいてくる。その音はやがて、じりっと土を踏みしめながら、目の前で止まった。
「……朝陽くん?」
私に用事がある人間なんて、朝陽くんくらいしか思いつかない。私の問いに答えるように、朝陽くんは私の手をとった。
「朝陽くん、来るの早かったね」
なにも言わずに歩き出す朝陽くん。私は慌ててベンチに立てかけていた白杖を掴み、手を引かれるようにして、あとをついていく。
「そうだ、手術の日が決まったよ。四か月後だって」
こんな調子で、しばらくひとりで話していた。
新手のイタズラかとも思ったが、私が本気で不安になるようなやり方は朝陽くんらしくない。
「もしかして……朝陽くんじゃない?」
とっさに手を離そうとしたとき、逃がさないとばかりに強く握られる。私は息を呑みながら、「誰なの⁉」と声をあげた。
それでも答えない相手は、かなり性悪だ。でも、私にはひとりだけ心当たりがあった。
「……聖也さん、ですか?」
返事はなかったが、根拠のない確信があった。
「私をどこへ連れていくつもりですか?」
まるで、あのときの再現だ。朝陽くんの弟だと言われて、呑気に聖也さんについていったあと、私の大切な人は少年院送りになってしまった。
「……あのときも、今も……どうして私だったんですか?」
聖也さんとは過去に決着をつけるために、いつかは話をしなければと思っていた。なのであのときとは違って、危険を承知でついて行く。
どれくらい歩いただろう。無言を貫いていた聖也さんが足を止めた。近くで川のせせらぎが聞こえ、ここが橋の上だとわかる。車の走る音が頭の上で響いているので、高速道路の高架下のようだ。
「どうして、あなただったのかって、さっき言ったよね」
ようやく口を開いた彼の声は、想像通り聖也さんのものだった。
「僕は……僕は僕は僕は僕は……っ、僕から両親を奪おうとするあいつが……! ずっとずっと目障りだったんだ……!」
雷のような声で叫んだ聖也さんは、今どんな顔をしているのだろう。私の記憶に残っている聖也さんは、いつも薄ら笑いを浮かべていた。人を見下すように、蔑むように。
だけど、なぜだろう。聖也さんの叫びは小さな子供が泣き叫んでるようで、痛い。
「ようやく家から追い出せたと思ったのに、また戻ってきて……お前らが入院したあと、 父さんは事件のことを掘り返してくるし……なんだよ、『ちゃんと話して欲しい』って。なんだよ、『お前を信じさせて欲しい』って! そんなの、信じてないから聞くんだろ!」
朝陽くんのお父さんは、たとえ家族の形が壊れようとも、然るべき罰を受けてもらうと言っていた。聖也さんだけじゃなくて、お父さんも一緒に背負う覚悟で。
「あいつは父さんと母さんを独り占めするつもりなんだ。あいつに奪われたくないから、先に奪ってやろうと思ったのに……っ、僕にはもう、なにも残ってないんだよ!」
「そんなこと……」
聖也さんがどんな罪を犯したとしても、お父さんは見捨てたりしないのに。
お父さんは聖也さんを信じている。それと同時に、夜尋くんのことも信じているのだ。だから詳しいことを聞いてからでないと、謝罪はできないと言ったんだ。
「なんで、あいつを変えた? 何度も何度も……なんで、あいつを変えるんだよ……!」
聖也さんに胸倉を掴まれ、押されるままに後ずさる。
「あのまま救いようのない不良だったら、罪悪感で幸せになることを拒んでるあいつのままだったら、夜尋は誰からも愛されないままだったのに!」
どんっと、背中に硬いなにかが当たった。川の流れる音が近いから、きっと橋の手すりだ。
愛を奪おうとするすべての人間を殺したいほど、愛されたいんだ……この人は。
「お前のせいだ!」
「うっ……」
気を抜いたら橋の下へ落とされてしまいそうで、私は手すりを掴んでなんとか踏ん張る。
「今度こそっ、消えてくれよ……! いやでも、視力を失って絶望の中で生きていくほうが酷か……はは、当然の報いだよ。僕の幸せを壊したんだからな!」
「……っ、あなたは父親から母の愛を奪ったと罵られ続けて育った……っ、だから愛は奪うものだと思っているんだよね……?」
四年前、目の前の彼から直接聞いたことを思い出しながら言葉にする。
「え……なに? 記憶取り戻したの?」
「うん、全部思い出した。愛は奪ったり、強制できるものじゃない。自分が大切にしたいって思っても、必ずその想いが返ってくるわけじゃないけど、無償で誰かを慈しみ、愛おしむ気持ちのことを言うんだって、今でも思ってる」
ギリッと聖也さんが奥歯を噛み締める音がした。
「なら……っ、もう一度言ってやるよ! そんなの、当たり前に愛された人間の価値観だ! 生まれたときから無償の愛を知らない僕には、一生理解できない感覚なんだよ!」
まただ。聖也さんは、愛されたいと泣き叫んでいるように聞こえる。だからか、目の前のかわいそうな人を怒鳴りつける気にはなれなかった。
「なら、私も何度も言うね。あなたの大切にするは、ただの独占欲だよ。愛は奪えないよ。だって愛は……見返りなく与えるものだから」
「なら、どうすればいいんだよ!」
聖也さんの腕に力が込められ、足が地面から浮く。橋の向こう側へ身体が傾き、悲鳴をあげる間もなく落ちそうになったとき──。
「陽菜!」
あの日と同じように、私のヒーローがやってくる。強く腕を引っ張られて、温かい胸に受け止められた。そのまま一緒に地面に膝をつくと、ぶわっと涙が溢れてくる。
「っ……今も昔も……あなたはあなたのままだね……」
不器用だけど、荒々しいけど、どんなときでも私を守ってくれる。
「間に合って本当に……よかった……っ」
降ってくる小さな声には、安堵が滲んでいた。私は朝陽くんをもっと安心させたくて、小刻みに震える背中に腕を回す。
「……っ、来てくれてありがとう。心配かけてごめんね……」
目を閉じれば、頬を涙が伝っていった。
「陽菜は悪くない。悪いのは……聖也、お前だ!」
失望と怒りを掻き混ぜたような声で怒鳴る朝陽くんに、胸が抉れるように痛んだ。私を抱きしめていた腕がほどかれると、地面を蹴るように足音が離れていく。
「聖也ぁぁぁ……!」
朝陽くんの怒号とともに、どさっと音がした。なにが起きているのかわからず、私は暗闇の中で視線を彷徨わせる。
「また、陽菜を殺そうとしたのか! お前は、また……!」
「……っく、そうだよ! そうやってまた、僕をボコボコにすればいい! そんでまた、少年院にでも入っててよ……っ、僕の平和を壊すな!」
「なんだよ、それ……散々周りの人間を巻き込んで傷つけておいて、てめえはいつも自分のことしか考えられねえのか!」
ふたりが揉み合う息遣いが聞こえ、頭の中に四年前の出来事が走馬灯のように駆け巡った。
私を傷つけられたことに怒って、朝陽くんが聖也さんを殴ってしまい、そこを警察に通報されて逮捕された。
前に聖也さんが朝陽くんは保護観察中だって言っていた。今問題を起こせば、また少年院に逆戻りだとも。
朝陽くんがまた捕まってしまうようなことになったら──。そんな焦燥に駆り立てられ、私は叫ぶ。
「ふたりとも、なにしてるの!」
「兄さんが僕を殴ろうとしてるんだよ! あのときみたいにさ……!」
それを好機と言わんばかりに、聖也さんの声は喜々としている。あのときみたいに取り乱して、鳥が鳴くみたいにただ『やめて』と繰り返しさえずるだけでは駄目だ。
「朝陽くんがそばにいなきゃ……意味がないんだよ」
「陽菜?」
朝陽くんがこちらを向いた気がした。
「一瞬の感情で、私との未来を失っていいの⁉ 私は……っ、朝陽くんが隣にいない明日を想像するだけで怖い!」
迷うように朝陽くんが息を詰まらせたのがわかる。
「自分が傷つくよりも、朝陽くんが手の届かないところに行っちゃうことのほうが痛い! 私の命は朝陽くんだって、そう言ったの忘れちゃったの?」
長い長い間があった。朝陽くんは悩んでいたんだと思う。でも、観念したように深い息をついて、静かに声を発した。
「……忘れてない。それだけは……絶対に忘れない」
聖也さんを突き放し、立ち上がる音がした。朝陽くんは私のところへ戻ってくると、立たせてくれる。
朝陽くんが拳を下ろしてくれたことに胸を撫で下ろし、私は聖也さんがいるだろう方向に語りかけた。
「朝陽くんを少年院に入れれば、それで安心?」
「はあ?」
刺々しい声から感じたのは、激しい嫌悪だった。
「たぶん……そんなことをしても、安心なんてできないんじゃないかな。私を事故に遭わせたり、高校に張り紙したり、朝陽くんを家族から孤立させたり……これだけ奪い続けてきてもずっと不安だったから、そんなに焦ってるんじゃないの?」
「昔も今も……お前のそのわかったような口を利くところ、鬱陶しかったんだよ!」
「違うでしょ。図星を指されて怖かったんでしょ。奪っても奪っても、ずっと孤独な理由を言い当てられたくないんだよね」
「だから、わかったようなことを……っ」
「私も、自分が愛されない理由をずっと探してたからわかるんだよ!」
聖也さんの声を遮ってまで放った言葉に傷ついたのは、自分自身だった。
「あのときの私にはわからなかったけど、今の私にはわかるんだよ」
失明することを話しても、お母さんに見向きもされなかった時間は、まるで自分が空気になってしまったみたいで怖かった。
「誰にも見てもらえない。私は一生誰かの特別になれないんだって、そう思えば思うほど……自分が価値のない人間に思えてきて……いくら平気なふりをしてても、私……わかってた。ずっと愛情に飢えてること……」
私は胸に手を当てた。遠回りしてしまったけど、私は家族や友人、それから恋人……この世界に居場所を見つけられた。だから私のぽっかりと空いていた心の穴は、もう埋まっている。
でも、聖也さんは……ずっと心に穴が空いたままなんだ。聖也さんが言い返さなくなったことが、それを肯定している。
「お母さんの愛を奪ったって、お父さんから罵られて、聖也さんは気づいたんだよね。お父さんが自分ではなくて、お母さんだけを愛していたんだって」
「そ……んなこと、なんでお前にわかるんだよ」
「だからお父さんがしたように、今のご両親の愛を夜尋くんから奪おうとした。そうしないと、自分を見てくれない。そんな偏った価値観だけが育まれてしまったかわいそうな人」
「同情すんなよ!」
底知れない笑みを浮かべるこの人が怖かった。だけど、今は表情が見えない。聖也さんは声までは偽れなかったみたいだ。泣き叫ぶような声だけは……。
「嫌ですよね、同情。自分が惨めになるから」
「また、わかったようなことを……っ」
「でも……! こうやって、わかった気になって想像してみなくちゃ、聖也さんの考えを理解できない! わかり合うことができない!」
相手の痛みや悲しみをありのまま理解するなんて不可能だ。だから人は、理解したい人の涙の理由を考える。こんな気持ちだったのかもしれないと想像する。そうやって、傷に寄り添う。
「私、目が見えていたときには気づけなかったことがたくさんある。声とか息遣いから、感情が透けて見えるような気がするんだ。だからみんな、私に対しては表情で誤魔化すことはできない」
見えることで真実を見逃すこともある。私もされたことに怒るばかりで、なぜ聖也さんがこんなことをするのかを考えられていなかった。
「聖也さんはお父さんに『ちゃんと話して欲しい』『お前を信じさせて欲しい』って言われて、そんなの信じてないから聞くんだろって言ったけど……。聖也さんのお父さん、血が繋がっていなくても、聖也さんの父親だって言ってたよ」
「だから……なに? そんなの、口先だけの噓に決まってんじゃん!」
「……信じてないのは、聖也さんのほうだよ。お父さんのことを信じてない。今のお父さんは、産んでくれたお父さんとは違うよ」
聖也さんは「はは、はははははっ」となぜか笑い始めた。笑っているけれど、私にはどうしても泣いているようにしか聞こえない。
「……っ、もう、そういうのいいから。兄さんもさあ、なんで僕のこと殴らないわけ? また捕まりたくないからって、ひよった? 威勢がいいだけかよ」
鼻で笑う態度すら、聖也さんの精一杯の虚勢に思える。
「聖也、人は何度も過ちを繰り返すけど、そこに止めてくれる誰かがいれば、ひとりじゃなければ、踏みとどまれるものなんだよ」
朝陽くんはもう、怒りに任せて誰かを殴ったりはしない。それを私が望まないと知っているから。
「俺も含めて……犯罪者予備軍の人間なんて、たぶん腐るほどいるんだよ。その人の心を思いとどまらせるのは、罪を犯したことで傷つく誰かがどれだけいるかなんだと思う」
「なにそれ……僕にはそういう人間がいないってこと?」
「違う! お前がその存在に単に気づいてないってことだよ! 俺は、ずっとお前が羨ましかった……っ、父さんも義母さんも、ずっとお前だけを見てたから! むしろ、空気だったのは俺だろ!」
「え……」と、聖也さんの戸惑う声がする。
「お前が無理やり奪おうとしなくたって、あのふたりはお前をちゃんと愛してた。俺だって……お前が家に来たとき、弟ができてうれしかったんだぞ」
「僕は……っ、そういう目に見えないもの、信じられない……から……」
萎んでいく語尾に合わせて、聖也さんの狂気が少しずつ薄れていく。
「聖也さん、気持ちなんて目に見えなくて当然だよ」
そんなの、誰の目にも映らないものだ。それを知るために私たちは話し、聞き、心を通わせるんだ。
「私は目が見えない。それでも大切な人の心を知りたいと思ったとき、暗闇の中で相手の感情に向き合うよ」
私は両手を胸に当て、聖也さんの心を見つめる。
「目を閉じて、余計な周りの視線もなくして、見たいものだけに集中する。そうすると、見えてなかったものに気づける。聖也さんの作り笑いの下にある『僕を見てほしい』『愛してよ』って素顔も……ちゃんと、見えてたよ」
ふと誰かがすすり泣いている声が聞こえた。考えるまでもなく、聖也さんだろう。
「そう、だよ……誰かの心を自分に向ける方法なんて、これしか知らない!」
聖也さんにとって、人の心を繋ぎ止める方法が『奪われないように奪う』こと。そのやり方しか、本当のお父さんに教えてもらえなかったんだ。
「兄さんと僕は同じだったはずなんだ。義父さんたちの注目を引きたくて、兄さんは悪ぶってた。それで僕は──」
「俺を悪者にすることで、父さんたちの気を引いた。お前のやり方は行き過ぎたと思うげど、本質は変わらないんだよ、俺たち」
「でも、兄さんは俺みたいにはならない」
その言葉の意味を私も、きっと朝陽くんも測り兼ねていた。だから聖也さんが話しだすのを待とうと、黙っている。
「……依存症みたいにさ、居場所を見つけたいって思うんだ」
ぽつりとこぼされた呟きに、朝陽くんは「それは誰にでもある衝動だろ?」と言うが、聖也さんはそうは思っていないらしい。
「兄さんに傷つけられたって嘘ついて、義父さんと母さんが僕を心配してくれるたびに、『ああ、僕は愛されてる』『必要とされてるんだ』って、ほっとする。でも、それは一時なんだ。相手を試すような行動をとって、愛を確かめてないと……不安で不安で、感情のブレーキが効かなくなる。ちょっとしたことで癇癪を起こしたり、ね」
自己否定感。聖也さんが言いたいのは、それが普通の人よりも強いということだろうか。
「根っこに『自分なんかが好かれるはずがない』って気持ちがあるから、無条件の愛を信じられない。だから繰り返し、僕は兄さんを……愛を確かめるために傷つける。……それを聞いても、誰にでもある衝動だって言える?」
答えられなかった。聖也さんの中にある闇には底がない。だから、落ちるところまで落ちていけてしまう。下手をすれば、『捨てられる』という怯えや不安が『どうして自分を理解してくれないのか』という攻撃的な感情に転化して、誰かを手にかけてしまうことも……あり得るのかもしれない。
「こんなことを繰り返してたら、いつか相手は疲れて離れていく。そのたびに『やっぱり僕は捨てられるんだ』って、勝手に確信していくんだ。その果てに僕がしたのが……陽菜さんを攻撃することだった」
「……っ」
私を道路に突き飛ばしたことを言っているのだと、瞬時にわかった。
「陽菜さんの目を奪ったのは、僕だ! 陽菜さんのお父さんやお母さんの人生を奪い、狂わせたのも、僕なんだ! もう、どう償っていけばいいのか、わからない……っ」
償われたとしても、私の目は完全にもとには戻らないし、お父さんが冤罪だとわかったとしても、世間の目はすぐには変わらない。お父さんを永遠に犯罪者だと思う人間もいるだろう。そして、お父さんを裏切って、現実から逃げるように浮気をしたお母さんの過去も消えない。
でも、聖也さんが愛や居場所を渇望する気持ちは私にもわかる。捨てられるのが怖くて、誰かに奪われないように、他人の愛や居場所を奪う。極論だけれど、それもまた愛の形。
「いっそ、ふたりが僕を殺してよ……。ひと思いにここから突き落として、終わらせてよ! そうすればもう、誰も傷つけなくて済む」
それを聞いた朝陽くんが深く息を吸う。
「ふざけんな……ふざけんな!」
一度目は静かに、二度目は爆発するような剣幕で朝陽くんは言った。
「聖也は取り返しのつかないことをした。その事実だけは、この先どれだけ改心して生きたとしても消えないんだよ!」
朝陽くんの言葉は厳しかった。聖也さんにどんな事情があったとしても、私や朝陽くんは聖也さんに大切なものを奪われてきたのだ。
「皆、心に憎しみとか、加虐心とか、人を傷つける引き金になりかねない化け物を飼ってるんだよ。俺だって、陽菜を苦しめるお前を恨んで、感情に任せて殴りつけた」
「でも、兄さんのは陽菜さんを守るためだった!」
「守るためなら、人を殺してもいいのか? 俺はあのとき、正常な判断なんてできてなかった。陽菜と駆けつけた警官が止めてくれなかったらと思うと……恐ろしいよ」
そんなことないと、言い切れなかった。私も朝陽くんを闇金の取り立て屋に傷つけられたとき、頭にかっと血が昇るのを感じた。あの衝動は殺意に近かったかもしれない。
「理由なんて関係ないんだよ。人を傷つけるのに『守るためだった』とか、『生まれ育った環境のせい』とか、そういう言い訳は通用しない。傷つけられた側からしたら、陽菜たちからすれば、俺たちはただの加害者だ」
何事にも超えてはいけない一線というのがある。そこを踏み越えてしまわないように、自分の感情に折り合いをつけなくちゃいけないのだろう。
でも、それはひとりではできない。さっき朝陽くんが言ったみたいに、思い留まらせるのは罪を犯したことで傷つく誰かがいること──、銃のセイフティのような存在が必要なんだ。
「……一線を越えてしまった僕は……今から、なにができるかな」
そう尋ねた聖也さんは、兄に助けを求めていた。こんな形で分かり合うなんて切ないけれど、今確かに聖也さんにとって朝陽くんは自分の大切なものを奪う人間ではなく、心の拠り所に変わろうとしている。
「傷つけたい衝動に駆られても、そういう自分の中の化け物と戦っていくこと。そして、化け物を育ててしまわないように、自分自身で衝動を生み出してしまうきっかけを知ること、それに自分なりに決着をつけて乗り越えていかなきゃいけない」
「それが僕のすべきこと?」
「そうだ。あとは変えられない過去の代わりに、お前はこの先の人生を賭けて、傷つけた人のためにできることをしろ。具体的になにをするのかは、お前自身が考えるべきことだ。死ぬことは許されない。それは責任を放棄するのと一緒だ」
「僕なりの答えを見つけないといけないんだね……」
「そうだ。そして、真っ先に陽菜の家族にしなきゃならないことがあるはずだ」
聖也さんは息を詰まらせ、やがて弱々しく笑みをこぼした。
「陽菜さんと会ってから……兄さんは変わったよね。柔らかくなった。今ならわかるよ、陽菜さんが言ったみたいに、奪って手に入れた居場所は空っぽだ。孤独が消えない。兄さんは心から自分を理解しようとしてくれる存在を見つけたから、狂わずに済んだんだね」
「ああ、そうだ。お前が相手のことも大切にすれば、お前も見つけられる。奪わなくても、頑張らなくても、当然のようにそばにある拠り所を」
聖也さんは朝陽くんの言葉を胸に留めるように、無言だった。
人はひとりでは生きていけない。どれだけ自分ひとりの力で生きていくと息巻いても、本当はみんな心の奥底でその真実に気づいている。
人の優しさや愛に触れ、信頼に気づき、ゆっくりでもいいから人を好きになっていくこと。私が朝陽くんの中に自分がいるんだと気づけたときのように、誰かの中に自分の存在を見つけたとき、人は生きることを愛おしいと思えるのかもしれない。もっと、この人と生きていたいと。
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